国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
七本の静釘が満ちるまで、二十息もかからなかった。
満ちたあと、吸いきれなかった痛みが戻ってきた。
最初は王城の床だった。足元の粉墨線が、触れていないのに細かく跳ねる。
次に左肩甲、背骨根、腹中央。隠し台帳の薄板が順番を失って鳴り、右奥歯へ七方向の返りが重なる。
痛い。
重い。
止めろ。
降ろせ。
人間の言葉ではなく、同じ圧へ俺が勝手に札をつけている。
それでも、どの札も「歩け」ではなかった。
「全区画、床から離れろ!」
俺が叫ぶのと、ラグナの背が痙攣するのは同時だった。
一度膝をついた右後ろ脚が、強制音に引かれて立とうとする。持ち上がらず、代わりに腹側の吊索が一斉に張った。
吊街だ。
王都の祭礼荷重を逃がした先、五本の脚で受けきれない重さが腹へ回っている。中央梁は第5話で仮修繕しただけで、次の痙攣に持つ保証はない。
「ジオ、吊街へ避難命令を」
「王都も残り三割だ」
「警備を半分ずつ」
「足りない」
「濾過廊を開ければ、住民が自分で下りられる」
「あそこは王立管理区だ」
「いま王立の床が割れてる」
ジオは一息だけ考え、警備章を骨伝板へ当てた。
「現場安全令十二条および下層浸水令四条を併用。腹側濾過廊を全開放。吊街住民は住居を離れ、白灯に従って濾過廊へ」
「浸水してないぞ」
「濾過水が一度止まった。再開時の逆流危険がある」
嘘ではなく、使える規則を組み合わせて王立管理区の鍵を開ける。
「逮捕命令は」
「明朝だ」
「もう夜半を過ぎた」
「避難が終わるまで、時計を見る暇がない」
猶予を延ばしたとは言わない。
ジオは警備兵を二隊に分け、王都残留者と吊街へ送る。自分は王都側に残り、最後の住民数を板へ記した。
「レン。右後ろ脚をどうする」
ミラが握る三本の赤い紐は、七本から返る律が強すぎて、すべて同じ高さで震えていた。道を選ぶ前に、痛みが選択肢を塗り潰している。
「一本、空ける」
「どれを」
「右後ろ脚」
王城釘は心律核直結で触れない。旧坑釘は管が切れ、八年ぶんを溜めている。左肩甲、腹、背骨、首は周辺荷重が読めていない。
右後ろ脚の第一基だけは、第2話で四方向を測った。北側管も生きている。
抜くなら、いま一番情報がある一本だが、それでも足りない。
第一基の管は生きているため、芯を出す間も吸収律の一部を北へ流せる。外周四方向の荷重は第2話の仮継ぎで測り、上と下が高く、左が鈍く、右だけ返りが消えると分かっている。
他の六本はそうではなく、左肩甲は温度上昇しか記録がなく、旧坑は管切断、腹中央と背骨根は人の住居が直上、首は呼吸と進路の両方へ関わる。王城釘は心律核直結。危険がない一本ではなく、危険の形を少しだけ知っている一本を選んだ。
「第一基を空ければ、残り六本へ充填が寄ります」
ミラが言う。
「だから一基目の律を三経路へ逃がす。残り六本の管は、バシュの偽信号で流量を止める」
成功しても、七分の一が終わるだけだ。
失敗すれば、右脚だけでなく残りへ痛みを押し込む。その代価を全員が知るよう、骨伝板の共同周波へ工程をそのまま流した。
「抜くんじゃない。外周を支えて、羽根を一枚ずつ開ける。溜めた律を三方向へ逃がして、最後に芯を出す」
「荷重は」
「王城六区画を後方へ移したまま、吊街を濾過廊へ降ろす。右脚の上を軽くする」
「人が要ります」
「呼ぶ」
自分でやるとは、言わないようにした。
骨伝板へ吊街修繕班の共同周波を入れると、最初に返事をしたのは洗濯場の索番だった。
「マウラだよ。中央梁がまた鳴ってる」
第5話で濡れた服の心配をしていた女だ。四十三歳。吊街の索を、俺が槌を持つより長く見ている。
「住民を濾過廊へ。左右主索を一段ずつ緩め、中央梁の荷を右後ろ脚から外す」
「洗濯物は?」
「捨てろ」
「あとで弁償しな」
次は配管工ケル。濾過水を全閉ではなく三割残し、急な再開で管が跳ねないよう圧を逃がす。
祭礼荷索で一緒だった荷揚げ人ラウには、第一基までの作業籠と三本目の予備索を頼んだ。
マウラは文字の資格札を持たないが、濡れた索と乾いた索の伸びを指幅で当てる。ケルは吊街の不正な水分岐まで知っていて、台帳にない管を閉じずに済む。ラウは荷の重心が動く前に、籠の縁がどちらへ鳴るかを読む。
三人とも静釘を知らないから、構造を隠さず話した。黒い芯へ律が溜まり、急に抜けば脚と都市へ戻ること。作業を断っても避難順は変えないこと。マウラは洗濯物の弁償へ一割上乗せし、ケルは水管修理の材料を局持ちにしろと条件を出した。ラウは「落ちたら酒三年分」と言った。
条件を言えるのは、仕事を選べている証拠だ。
俺は全部、作業記録板の空いた表へ左手で書いた。
名前と仕事を渡し、「誰か」ではなく、その人にしか見えない線を頼む。
バシュが調律輪から戻ってきた。
「王城側の鎖は切れん。別制御室が強制音を送ってる」
「偽の接地律を返せますか」
「塔へか」
「右脚が着いたように見せる。強制音を一度止めさせる」
バシュは隠し台帳の第一基を見た。
「低音を三つ、休止を長く。古女房で管へ入れる」
「王国に残ることになる」
「誰かが塔のそばに要る」
言い方が、決まっていた。
「逃げる道は」
「お前が使え」
「許したわけじゃない」
「知ってる」
それだけでバシュは操路塔へ向かった。関係の結論を出さず、仕事を渡すのは第8話と同じだ。
右後ろ脚へ向かう前に、王城六区画の状態を確認する。
五つの仮留めは壊れていない。強制駆動で荷が戻り、粉墨線が切れただけだ。操路塔基部の第六継ぎは閉じたまま。
「ミラ、後方農地の道を維持。区画ごとの返りが違ったら止める」
「あなたは」
「第一基の周辺線を読む」
「右腕で触らない」
「作業条件だ」
言われる前に、今度は答えた。
*
右後ろ脚の作業籠へ着く頃、吊街の避難が始まっていた。
腹の下にある濾過廊は、白い嚢の間を通る幅広い管理路だ。普段は王立局員しか入れないが、床は平らで、吊街より中央に近い。ラグナが膝をついても揺れが小さい。
住民は水、薬、寝具、鍋、商売道具、墓札と、持てる物を抱えて下りてくるが、全部を持てば道が詰まる。
ジオの警備兵が「一人一袋」と叫ぶ。
マウラは洗濯場の大籠を三つ空にし、歩けない老人と子供を入れて索で下ろしていた。自分の洗濯物は本当に捨てたらしい。
「残り」
骨伝板で聞く。
「北列六十、中央百二、南列三十!」
「無籍の部屋を数えたか」
「扉の数で足した。名簿より四十一多い」
名簿だけなら置いていかれた四十一人を、マウラは住んでいる廊下から数えた。
俺の一つの耳より、現場ごとの目が多いほうが強い。
第一基は第2話と同じ場所にあり、光を返さない黒い円柱、四枚羽根、北側管、帝国目盛りと王立封を備えていた。
違うのは、羽根の隙間まで白い霜が詰まり、管が脈みたいに膨らんでいることだ。
「飽和してる」
ミラが心律片の小瓶を地図板から外す。瓶の中でも複数の高低が激しく呼び合っていた。
作業籠を三方向へ固定する。上は外殻支柱、左は吊街から空いた主索、下は濾過廊の管理梁だ。
ラウが三本目の索を張り、マウラが吊街側から張力を読む。ケルは濾過水圧を三割に保つ。
三方向へ粉墨板を一枚ずつ置き、動いてよい幅を決める。上支柱は爪半分、左主索は指一本、下管理梁は爪二枚。どれかを超えたら、他が持っていても中止する。
心律片を受ける隔離箱は、骨灰を二重に詰め、その間へ濾過水を流した。律を消す箱ではない。熱と振動を一度に周りへ返さず、三つの小部屋へ分けるだけだ。
「箱が鳴ったら?」
ケルが聞く。
「一室目を閉じ、二室目へ。三つとも鳴ったら作業中止」
「壊れたら」
「下へ捨てない。箱ごと上支柱へ固定し、全員離れる」
失敗した時の手順を先に決める。成功するつもりと、失敗を数えないことは別だ。
「誰が羽根を回す」
ラウが聞く。
「俺が」
口から出た。
三人の目が右腕へ向く。
「左手で一枚ずつなら」
「右で支えられない」
ミラが言う。
「ラウが回します。あなたは返りを読む」
「角度を知らない」
「教えろよ」
ラウが羽根の目盛りへ顔を寄せた。
「俺は二十年、荷索の締め輪を回してる。お前より丸い物には詳しい」
自分でやるほうが早いと思う癖が、まだある。
だが、右手を出せば、全員の工程を止める。
「四分の一目盛り。止めるたび、上、左、下の粉墨を見る。一本でも切れたら半分戻す」
ラウが頷く。
ミラは三本の赤い紐を各支点へ結ぶ。
俺は籠の中央で、調律槌を左手に持った。叩かない。柄を床へ当て、返りだけを聞く。
一枚目を四分の一。黒い粉が羽根から噴き、上支柱の線が開く。
「止め。八分の一戻せ」
ラウが戻す。
ミラが上、左、下の道を順に出す。下の濾過廊へ長い返り。
「下へ一割」
ケルが水圧弁を開き、管理梁へ荷を流す。
一枚目が開くと、釘の中から熱い律が細く外へ出た。三本の紐を通り、濾過廊の広い梁へ薄まる。
二枚目。
左の主索が鳴る。
マウラの声が骨伝板から飛ぶ。
「張りすぎ! 吊街北列が上がる!」
「半目戻し。左索を一段緩めろ」
右腕の中でも音が鳴り、触れていないのに前の逆流を覚えた骨が熱を返す。固定布が急にきつい。
「指の色」
ミラが見る。
「動く」
「色です」
青くなり始め、腫れも増している。
「続ける」
「あなたは籠の中央を離れて」
「返りが聞こえなくなる」
「板へ移します」
透明測定板を槌の柄へ固定し、白い粒で三方向の返りを見えるようにする。俺ほど細かくは聞こえない。だが、羽根を止めるには十分だ。
「俺がいなくても?」
「あなたが作った手順なら」
その言葉が怖く、仕事が進む安堵と、自分が要らなくなるような冷たさが同時に来る。
違う。俺がいなくても進む工程を作るのが、直す仕事だ。
籠の後ろへ下がり、ミラが三経路、ラウが羽根、マウラが吊街索、ケルが水圧を受け持つ。俺は四人の数字を一枚へ書く。
三枚目が開き、四枚目は二度戻した。
静釘の芯が見える。黒い円柱の中心に白い霜で覆われた細い棒があり、内部で心律片が何層も重なって互いに擦れている。
「一度に抜かない」
「どうする」
「芯を八分の一ずつ。出た律を瓶じゃなく、三経路へ流す。固まった欠片だけ隔離箱へ」
ラウが芯を引く。
八分の一。
ラグナの右後ろ脚が震える。
濾過廊から悲鳴が聞こえた。
「止め!」
全員が止まる。管理梁の粉墨は切れておらず、悲鳴は住民が揺れに驚いた声だ。
作業の異常と、人の反応を一緒にしない。ジオなら記録しろと言うだろう。
「避難残り」
「南列十二!」
待つ。
十二人が濾過廊へ入るまで、芯は動かさない。
時間がない。
強制音はバシュの偽信号で一時止まっているだけだ。
それでも、待つ。
「全員、濾過廊!」
マウラの声が来る。二回目の八分の一、三回目と進め、そのたび三方向へ薄く流して粉墨と白い粒を確認する。
半分を越えたところで王城から大鐘が鳴り、偽信号が見破られた。
右後ろ脚へ強制律が入り、芯が勝手に引き込まれてラウの締め輪が逆回転した。
「手を離せ!」
ラウは離し、締め輪の柄が俺のほうへ飛ぶ。
反射で右手を出した。
固定具の上から柄を受け、骨の中で二本のひびが広がった。
息が止まる。
それでも柄は籠の外へ落ちず、左手で床へ押さえた。
「レン!」
「右は使わないって」
ミラの声が、初めて平らではなかった。
「悪い。条件違反だ」
指先が痺れて色も白く、今度は大丈夫と言わない。
「固定を増やして、俺を後ろへ縛れ。工程は続ける」
ミラが副木の上からもう二本の細板を当て、肘を胴へ固定した。指先を押しても色の戻りが遅い。微細骨折がずれたかどうかは、ここでは測れない。
「次に右手を出したら、作業から外します」
「もう出せない」
「出さない、と言ってください」
「出さない」
能力の話ではなく、選択として言う。俺は籠の後ろへ腰索で結ばれた。動ける範囲は半歩。そこから全員の数字を聞き、作業板へ書く。書く手も左だけで、線は曲がるが読める。
ラウが柄を拾う。
マウラが骨伝板越しに怒鳴る。
「口だけ動かしな!」
ケルが水圧を読み上げる。
俺が手を出さなくても、止まった仕事が再開する。
芯を四分の一。
最後の八分の一。
白い霜が割れ、固まった心律片が三つ落ちる。ミラが銀の挟み具で隔離箱へ入れる。
残りの律は赤い紐を通り、三つの梁へ薄く散った。
黒い芯が、静釘本体から抜けた。
四枚羽根は外周へ残す。穴を一度に閉じれば荷が跳ねるため、骨灰樹脂の中空栓を入れ、呼吸できる幅を残す。
第一基の除去。
ラグナの右後ろ脚が、ゆっくり下りた。
今度は操路塔に引かれた動きではない。三本の紐のうち、下の濾過廊へ長い返りを出し、自分で荷を選んでいる。
接地。
芯を抜いた穴では、中空栓が呼吸に合わせて細く開閉していた。完全に塞がず、外周四枚羽根を残したため、八年ぶんの周辺荷重は一度に戻っていない。
隔離箱の一室目は白く曇り、二室目に二片、三室目は空。心律片の小瓶にいた高低の呼び合いと同じ律が、箱の中でも返っている。第一基から出た分だけで、声の数は減らなかった。
残り六本の薄板を確認すると、左肩甲の熱は増えておらず、腹中央の濾過水も三割で安定していた。王城釘の直結線だけが強く鳴るが、強制駆動前よりは細い。一本を空けた痛みが、すぐ他へ押し込まれた兆候はない。
王都の傾きが戻り、吊街の中央梁も持った。
歓声は上がらず、全員が次の異常を待って粉墨を見ていた。
十息。
二十息。
新しい亀裂はない。
「終わった」
俺が言う。
「一本です」
ミラが訂正する。
そのとおりだ。
*
夜明け前、王立警備が右後ろ脚へ向かっていた。第一基の除去は隠せない。操路塔の板から一つ律が消え、王城の強制音も右脚だけ通らない。
濾過廊には吊街住民全員と、名簿外四十一人がいた。怪我は避難中の打撲が九人、骨傷なし。家と洗濯物と商売道具は残ったが、少なくとも人数欄に「不明」はない。
マウラは空にした洗濯籠へ子供を寝かせ、ケルは三割の水を飲用へ回し、ラウは隔離箱を王立局の封印布ではなく自分の荷索で二重に縛った。俺がいなくても、それぞれ次の仕事を始めている。
自分の価値が減った感じはせず、むしろ俺一人では見えなかった町が残っている。
ジオが濾過廊の出口を開けた。
「修繕艇が一隻、南外壁にある。避難用として出港許可をつけた」
「逮捕は」
「避難が終わった。次に会えば執行する」
「今は?」
「早く行け」
命令と反対の言葉を、警備章をつけたまま言う。
バシュは操路塔に残り、古女房で偽の接地律を送り続けて王城警備を引きつけている。
「親方も艇へ」
骨伝板へ呼びかける。
「塔を止めたら残り六本が一度に入る」
「捕まる」
「記録を持ってる。死にはせん」
「保証は」
「ない」
バシュの声はそこで切れた。
南外壁の修繕艇は、細い索帆を二枚持つ。ラグナから一時索を外し、深霧の上を滑って次の国獣間索へ移るための小舟だ。
俺とミラが、隠し台帳、作業記録板、隔離箱、心律片の小瓶という持ち出せる証拠だけを積んで乗る。
右腕は副木を増やして胸と胴へ固定され、指先の色は戻ったが、感覚が薄い。自分で壊した。次に手を出せば、槌を持てなくなる。
「行き先は」
ミラに聞かれる。
命じそうになり、止める。
「次の国獣間索まで出る。そこからは、相談する」
修繕艇が外壁を離れる。
その瞬間、王城側の切断刃が一時索へ落ちた。
ジオが外壁から索を投げるが、俺の腰環へ届く前に修繕艇の帆柱が折れた。
艇が反転する。
白い深霧へ落ちるはずだった船底が、黒い壁へ叩きつけられた。
ラグナの腹外殻。
俺とミラは、切れた索帆ごと国の腹へ落ちていった。