「私は、貴方と行きたいわ」
卒業を目前に控え、二人きりで訪れた温泉旅館。混浴で狼狽するトレーナーを微笑ましく思いながら、ジェンティルドンナは共に駆け抜けた三年間を振り返る。
意見をぶつけ合った日々。敗北に心が折れかけたとき、差し出された手。気がつけば隣に立ち、彼女を支えていた一人の男性。
三年間の終わりを前に、今度は彼女から、その手を取る。卒業直前の温泉旅行と、二人が選ぶこれからの物語。
シニア級を走り抜け、卒業を目前に控えたジェンティルドンナのお話です。
温泉旅行券を手にした彼女が、三年間を共にしたトレーナーへ何を望むのか。
ジェンティルドンナ視点で、少し静かで、少しだけ甘い夜を書きました。
誰か描いてください。よろしくお願いします!!!
湯上がりの肌を、冷えた夜気が撫でていく。
長湯で火照った身体を鎮めるには、ちょうどいい温度だった。
旅館の縁側に腰を下ろし、私は庭園へと目を向ける。
丁寧に刈り込まれた低木と、薄く雪をかぶった庭石が見える。
その向こうには、黒々とした山の稜線が静かに横たわっていた。
空には雲ひとつない。
月明かりに照らされた雪が、磨き上げた銀器のように淡く輝いている。
「…悪くない景色ね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
湯上がりに用意されていた浴衣は、一般的な旅館のものだった。生地も仕立ても特筆すべきものではない。
それでも、帯を締め、襟元を整えれば、それなりの形にはなる。
身につける者次第で、衣服の価値など変わるものだ。
鏡の前で乱れがないことも確認している。
濡れた髪も丁寧に乾かし、旅館へ持参した櫛で整えた。
温泉に入ったからといって、身だしなみへの配慮を怠る理由にはならない。
ただ――。
「ふふっ……」
先ほどまで同じ湯船にいた貴方の姿を思い返し、思わず笑みがこぼれた。
混浴であると知った瞬間の、あの顔。
これまで幾度となく私の無理難題に向き合い、並の者ならば匙を投げるような計画を平然と修正してきた貴方が、目に見えて狼狽していた。
行き場を失った貴方の視線は、天井や岩肌へと、彷徨っていた。
会話を続けようとしているのに、言葉の端々が妙に上ずっている。
あれほど分かりやすい動揺は、三年間を共にしてきた私でも、そうそう見たことがない。
『私と共に入ることに、何か問題でも?』
そう尋ねたときなど、貴方は危うく温泉へ顔から沈みそうになっていた。
実に滑稽で――。
そして、可愛らしかった。
もちろん、口に出してはいない。
…少なくとも、今は。
結局、先に湯を上がったのは私だった。
別に耐えられなくなったわけではない。
せっかくの温泉だというのに、貴方があまりに落ち着かない様子だったから、先に退席するという慈悲を与えただけだ。
長湯が趣味というわけでもない。
決して、あのまま二人きりで湯に浸かっていれば、自分まで平静を保てなくなる可能性を考慮したのではない。
……ええ。
断じて、違う。
縁側の板へ指を置く。
夜気に冷やされた木の感触が、掌へ静かに伝わってきた。
今回の旅行は、年始の抽選会で私が引き当てたものだ。
特賞の温泉旅行券。
私がくじを引いた瞬間、会場は大いに沸いた。
周囲の者たちは口々に祝福し、誰と行くのかと尋ねてきた。
私の答えなど、初めから決まっていたというのに。
『私は、貴方と行きたいわ』
そう告げたときの貴方も、今日ほどではないが、なかなか見応えのある顔をしていた。
トレーナーと担当ウマ娘が二人きりで旅行することへの外聞。
卒業を目前にした時期であること。
私の家族への説明。
学園への届け出。
貴方は瞬く間にいくつもの懸念を並べた。
…相変わらず、余計なことまで考える人だと思った。
私が望み、貴方がそれを受け入れる。
それだけで十分でしょうに。
もっとも――その慎重さが、私たちをここまで連れてきたことも事実だった。
視線を空へ上げる。
三年間。
言葉にすれば、たったそれだけ。
けれど、振り返れば、一朝一夕では語り尽くせない日々があった。
私はどこまでも勝利を求めた。
圧倒的な結果を。
誰にも追いつかれず、誰にも並ばれず、ただ私だけが頂点に立つ未来を。
それが当然だと信じていた。
私にはその力がある。
鍛錬を重ねてきた。
才能に溺れることもなく、己を磨き続けてきた。
ならば、勝利は私のものであるべきだ。
初めの頃、貴方は私の考えを否定しなかった。
だからといって、すべてに従ったわけでもない。
私が示した計画に対し、貴方は何度も修正を求めた。
『この日程では負荷が大きすぎる』
『今必要なのは、さらに追い込むことではない』
『勝つために休むんだ』
随分と生意気な言葉を並べてくれたものだ。
私が不快感を隠さず睨んでも、貴方は退かなかった。
恐怖を感じていなかったはずはない。
テーブルの上で握られた拳は、わずかに震えていた。
それでも貴方は、私の目を見続けた。
私に逆らうことが目的なのではなく。
私を勝たせるために、立ち塞がっている。
そのことが理解できたからこそ、私は貴方の提案を受け入れた。
最初から納得していたわけではない。
譲歩したつもりもなかった。
私と貴方。
互いの考えをぶつけ、余分なものを削り、より優れた答えへ至る。
それこそが、私たちのやり方になった。
結果として、答えは正しかった。
私が正しく。
貴方もまた、正しかった。
時には、正反対の意見を持つ二人が、どちらか一方を折るのではなく、二人でひとつの勝利を導き出した。
あの瞬間からだったのかもしれない。
……私は貴方を、単なるトレーナーとして見なくなった。
風が吹き、庭木に積もった雪がわずかに崩れた。
白い粉が、月光の中を静かに舞い落ちる。
全てが順風満帆だったとは言えない。
この私にだって、思うように走れない時期があった。
身体は動く。
鍛錬も欠かしていない。
それでも、望む結果へ届かない。
あと一歩。
ただの一歩が、どれだけ力を尽くしても埋まらない。
そんなことが、少しばかり続いた。
敗北そのものよりも、己の力が通じないという事実が許せなかった。
私は弱くなったのか。
これまで積み上げてきたものは、誤りだったのか。
そのような疑念が一度胸に生じれば、どれほど押し潰そうとしても、容易には消えてくれない。
単なる鉄球ならば、力を込めれば形を変える。
けれど、目に見えないものは…そう簡単にはいかなかった。
…いま思えば、あのときの私は、心が折れかけていたのでしょう。
自棄とも言える。
認めることは、未だに少々癪だけれど。
貴方は、そんな…閉じ籠もりかけた私へ、安易な慰めを口にしなかった。
『大丈夫だ』
『次は勝てる』
その程度の言葉で済ませていたなら、私は貴方を部屋から追い出していたかもしれない。
けれど貴方は、過去の記録をすべて並べた。
私がどのように走り、どの局面で優位を築き、どこで僅かな誤差が生じたのか。
敗北を感情ではなく、数字と事実へ変えた。
そのうえで、貴方は言った。
『君の積み上げてきたものは、何ひとつ間違っていない』
『それでも届かなかったのなら、俺たちがまだ見つけていない答えがある。改善できる余地が、まだ残っている』
俺たち。
貴方は、そう言った。
私ではなく。
貴方でもなく。
私たちの問題だと、迷いなく言い切った。
私が立ち上がれずにいた場所まで降りてきて、同情するのではなく、隣に立った。
そして、自ら先へ進む道を探し始めた。
私の手を無理に引いたのではない。
立ち上がるだけの理由を示し、私が再び歩き出したとき、当然のようにその手を差し出した。
最初は、私が貴方を導いていたはずだった。
私が望む場所を告げ、そこへ至るために貴方が道を整える。
それだけの関係だった。
けれど、気がつけば貴方は私の横を歩いていた。
時折、私よりも半歩前へ出ていた。
そして私は――。
貴方が差し出した手を、振り払わなくなっていた。
縁側の向こうから、衣擦れの音が聞こえた。
振り向かなくとも分かる。
歩幅も。
足音も。
こちらの様子を窺うような、わずかな間の取り方も。
「随分と長く浸かっていましたのね」
「……誰のせいだと思ってるんだい?」
「あら。私は貴方に、湯から上がることを禁じた覚えはなくてよ?」
「上がれる状況じゃなかっただろう……」
貴方が私の横へ腰を下ろす。
ただし、少々距離が遠い。
大人一人分ほど空けて座る必要が、果たしてどこにあるのか。
「もっとこちらへ、いらっしゃい」
「いや、でも」
「私に二度も言わせるつもり?」
「……はい」
貴方は素直に距離を詰めた。
肩が触れるほどではない。
けれど、手を伸ばせば容易に届く距離。
湯上がりの石鹸の香りに交じって、よく知る貴方の匂いがした。
三年間、何度も隣で感じてきたもの。
それなのに、今夜は妙に意識へ残る。
「…綺麗な景色だね」
「ええ」
「旅行に来てよかったよ。正直、卒業前はもっと慌ただしくなると思ってたから」
「貴方は、初めは断ろうとしていましたけれど?」
「断ろうとしたわけじゃない。色々と確認が必要だったんだ」
「同じことではなくて?」
「違うよ。行きたくないと思ったことは一度だって、ない」
貴方は庭園を見つめたまま、そう言った。
何気ない言葉。
おそらく貴方にとっては、深い意図などないのだろう。
だからこそ、始末が悪い。
行きたくないと思ったことは、一度だってない。
その一言だけで、胸の奥が温泉へ浸かったときよりも熱くなる。
私は自らの感情を制御する術を知っている。
力も、呼吸も、心拍も。
レース前には余分な昂りを排し、必要な緊張だけを残す。
そうして、最良の状態でゲートへ入る。
けれど、三年間を共に過ごした貴方に関することだけは…いまだに、どうにも思い通りにならない。
不快ではなかった。
むしろ、この程度の乱れならば、悪くないとさえ思う。
卒業すれば、私たちの関係は変わる。
担当ウマ娘とトレーナー。
その肩書が、これまでと同じ意味を持ち続けるとは限らない。
私が進む道に、貴方が当然のようにいる保証はない。
当然などという言葉は、勝者にこそ許されるものだ。
何もせず手に入る未来を指す言葉ではない。
欲しいものがあるのならば、手を伸ばす。
届かないのならば、届くまで己を高める。
障害があるのならば、打ち砕く。
…私は、そうしてあらゆる勝利を手にしてきた。
ならば。
今さら、この感情だけを曖昧なまま放置する理由がどこにある?
ちょうどいい機会だ。
静かな夜。
二人きりの旅。
三年間の終わりを刻み、その先へ続く道を結ぶための時間。
私は庭園から貴方へ視線を移した。
「貴方」
「うん?」
「手をお出しなさい」
「手?…はい」
戸惑いながらも、貴方は右手を差し出した。
私はその手を取る。
幾度も私を支えた手。
私の記録を取り、私の計画を書き直し、時には私の肩を押し、時には私をも止めた手。
決して大きくはない。
貴方の手は、鉄球を歪めることも、硬い殻を粉砕することもできない。
それでもこの手は、かつて立ち止まりかけた私を、再び前へ向かせた。
指を絡める。
貴方の身体が目に見えて硬直した。
「ジェ、ジェンティル?」
「静かになさい。……今、考えをまとめているところよ」
「…その状態で?」
「…何か不都合でも?」
「……ありません」
素直でよろしい。
私は一度、息を吸った。
レースの前ですら感じたことのない緊張が、胸の内側を締めつける。
敗北を恐れているのではない。
私は、欲しいものを手に入れる。
これまでも。
これからも。
ただ、今回ばかりは力ずくで勝ち取るわけにはいかない。
貴方自身が、私を選んでくれなければ、意味がない。
「私はこれまで、数多くのものを手にしてきました」
「……うん」
「勝利も、名誉も、誰にも譲るつもりはありません。…これから先も、私は頂点に立ち続けるでしょう」
言葉に迷いはない。
それは願望ではなく、私が実現する未来だ。
「けれど、その未来を思い描いたとき……いつからか、私の隣にはずっと貴方がいたの」
貴方が息を呑んだ。
絡めた指へ、わずかに力が入る。
「貴方は私とぶつかり、私を止め、私と共に答えを導き出した。私が立ち止まったときには、立ち上がるまで隣にいた」
「…それは、俺がキミのトレーナーだから――」
「…違うわ」
言葉を重ねようとした貴方を、静かに制する。
「少なくとも、私にとってはもう…それだけではないの」
目を逸らすことは、しなかった。
レースで相手と競り合うときも。
勝利を宣言するときも。
私は正面から相手を見る。
まして、これほど大切な場面で逃げるなど、……私の誇りが許さない。
「…私は、貴方を望んでいます」
一語ずつ、明確に告げる。
「トレーナーとしてだけではなく。一人の男性として、…これからも私の隣にいてほしい」
夜の静寂が、私たちの間へ落ちた。
遠くで水の流れる音がする。
枝から雪が落ち、柔らかな音を立てた。
貴方は何も答えない。
手を握ったまま、目を見開いている。
少々、予想以上に驚かせてしまったらしい。
「…何かおっしゃったらどう?」
「いや、その……」
「返答に困るような、難解な表現はしていない…つもりですけれど?」
「分かってる。分かってるけどね、心の準備が」
「…あら。先ほどの温泉でも、似たようなことをおっしゃっていましたわね」
「それとこれとは別でしょ?!」
ようやく戻ってきた反応に、私は小さく笑った。
やはり、貴方はこうでなくては。
どれほど狼狽しても。
困り果てても。
最後には、必ず私と向き合う。
「…急かすつもりはありません」
私は絡めていた指を、ほんの少し緩める。
離そうと思えば、貴方は離せる。
選ぶ権利は、貴方にもある。
「ただし、曖昧な返答は認めないわ。私の隣に立つのか。それとも、立たないのか。貴方自身の意思でお答えなさい」
「……まったく、本当に、君は……」
貴方は困ったように笑った。
けれど、私が緩めたその手は離れなかった。
むしろ、今度は貴方のほうから指へ力を込める。
「…先を越されちゃったな。俺も同じことを考えていたよ。……卒業したあとも、君の隣にいたい」
声の震えは、もう聞こえなかった。
「トレーナーとしても。一人の男としても」
胸の奥で、何かがほどけていく。
勝利した瞬間とは異なる。
歓声もない。
掲示板へ順位が表示されることもない。
それでも私は、これまで手にしたどの栄冠にも劣らないものを得たのだと理解した。
「……そ、そう」
上擦ってしまった。
口元が緩みそうになるのを、あえて抑えない。
「賢明な判断ね」
「そこで上からなのかい?」
「当然でしょう? 私を選ぶ以上の正解があるとでも?」
「ないよ、絶対にない」
貴方から即座に返された言葉に、今度はこちらが僅かに言葉を失う。
貴方は時折、こうして不意を突いてくる。
…まったく。
油断も隙もない人だ。
「……今の返答は、悪くありませんわね」
「それは光栄だね」
肩と肩が、そっと触れた。
貴方が近づいたのか。
私が近づいたのか。
…どちらでも構わない。
同じ方向へ進むのであれば、些事に意味などない。
これまでの三年間。
私たちは幾度も意見をぶつけ、正解を導き出してきた。
一人では届かなかった場所へ、二人で辿り着いた。
それは、これから先も変わらない。
私が望む未来と。
貴方が選ぶ未来。
二つを重ね、より優れた答えを作ればいい。
私は貴方の手を握ったまま、雪化粧を施された庭園へ視線を戻した。
道はまだ、果てしなく続いている。
けれど、恐れることなど何もない。
私の隣には貴方がいる。
そして貴方の隣には、私がいる。
「参りましょう、トレーナー」
「…どこへ?」
「決まっているでしょう」
私は立ち上がり、貴方の手を引いて……室内へと戻った。
「…私たちの、次の勝利へ」
その手は、しばらく…離れなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
勝利も名誉も、自らの力で手にしてきたジェンティルドンナ。
けれど今回だけは、相手自身に自分を選んでもらわなければ意味がない――そんな彼女なりの告白を考えてみました。
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