『―――マスター。私は...私は...大きなミスを犯しました』
ファイは言った。
その声には珍しく感情が籠っていた。
焦燥の感情だ。
「ファイ...もう一度説明してくれ。どういうことだ?」
少年は耳を押さえながら問うた。周囲のゴロンたちが上げる歓声と、彼らが激しく地面を踏み鳴らす音が辺りを覆っている。
『ギラヒムの作戦は時の門を使った浮島侵略ではありません。彼は別の計画を使うつもりです』
それを聞いてリオスは呆気にとられた。
「ま...待ってくれ。意味が分からない。じゃあ最初からあいつは...」
『時の門の改造による浮島侵略は陽動です』
彼女は続けた。
『ギラヒムはあの竜を使って単純かつ物理的な方法で浮島に到達することができます。ということは...時の門を使わずに浮島を攻め落とすことができるということです』
ファイが続けた。少年は愕然とした。だが彼は慌てて首を振った。
「だけど...あいつ一人で浮島に行って...どうするっていうんだ?たった一人で剣を振り回して住民を皆殺しにするっていうのか?」
『それも不可能ではありませんが...このラネールで彼が手にした技術を使えば、竜による物理的アクセスを足掛かりにしてより大規模な侵略も可能なはずです』
リオスの様子がおかしいことに気づいたのか、仲間たちが近寄ってきた。だが少年は交信を続けた。ファイは言った。
『最高位の位格を持つ精霊である"龍”たちのうち、終焉の者の反逆に追従したものは数えるほどしかいなかったのです』
その途端、目の前に青白い光が迸り、ケープを纏った少女の姿をとった。だが彼女はうなだれていた。
『ですが、ギラヒムはそれを受肉させることに成功しました...。その可能性を考慮しなかったとは、私としたことが迂闊でした....』
「ファ...ファイ。お...落ち込むなよ。きっとなんとかなるって...」
リオスはそう声をかけてから言葉を飲み込んだ。事態は相当深刻だと感じられた。このファイが感情を見せるなど今までほとんどなかったからだ。
仲間たちも驚きのまなざしでファイを見つめる。浮かれ騒いでいたゴロンたちまでもが鎮まり始め、不思議そうな表情でこちらを眺めていた。
『対処策として必要なのは今すぐに天空に戻ることですが...しかし、受肉していてなおかつ物理的に自由に空を飛ぶことのできる存在は....』
彼女は顔を伏せたまま言葉を探した。
『最高位の善の精霊である三龍...あるいは天空を司るナリシャのみです。彼らの協力を仰がなければ...』
「わ..わかった。だったら、俺をそいつらのところに連れていってくれ。俺から頼んでみるからよ。な?」
リオスは言った。だがファイは答えた。
『ラネールの雷龍は既に死亡しています。ですからオルディンの炎龍、もしくはフィローネの水龍に依頼するのが妥当でしょう。しかし遭遇できるまでに予想される所要時間は最低でも三日かそれ以上....ああ。何度計算しても間に合いません。その間に侵攻は完了してしまいます』
「あ...諦めるなって。な?きっとまだ何か手があるから。そうだろ?」
励まそうとしたリオスは手を伸ばして少女の肩に触れようとした。だが感触がなく、通過してしまうばかりだ。
「ど....どうしたんだよ?なんかヤバイことでも起きたってのか?」
見かねたようにテツジが声をかけてきた。だがリオスは相手の顔を見返すばかりで、言葉が思いつかなかった。
『―――このようなミスは生まれて初めてです。このファイ...ハイリアから任ぜられた務めを全うできないという事態を経験するとは...夢にも思いませんでした』
「ファイちゃん...そんな顔しないの。せっかくの美人が台無しだから。ね?」
リメイラまでもが心配そうに近づき、ファイの背を撫でようとした。だが通過してしまい驚いて手を引っ込めた。
だがその時だった。
空の上から聞き慣れない音が響いてくる。
風の音のような。呼吸音のような。だが、その大きさが規格外に大きい。
――――ゴフゥ....ゴフゥ....ゴフゥ....―――
リオスは空を見上げた。すると、またしても何か見慣れないものが目に入った。
鯨のような流線形。
灰色の皮膚。
それがゆっくりと飛行し旋回しながら、高度を下げ近づいてきている。
ゴロンたちも気づいて顔を上げ始めた。
だが、リオスは驚きに満たされた。
その、クジラのような形のものはどんどん高度を下げているのに一向に近づいて来ないように見えるのだ。
やがてその原因がわかってきた。
あまりに巨大すぎる。
リオスの目には、そのクジラ状の生物の皮膚に刻まれた深い凹凸やひび割れまでもがハッキリ見えた。だがそれでもまだ遥か上空にいる。
そのものの発する呼吸音もいっそう大きく聞こえてきた。
「な....なんなんだよあれ?空飛ぶ魚のバケモンか?」
テツジが怯えて呟いた。
だがその生き物はやがて、手を伸ばせば触れられそうなほど低くに降りてくると、思いもかけないような繊細な動作で方向を変え、前庭の前にある奈落の上に座を占めるようにゆっくりと下降した。
リオスと仲間たちは言葉を失って立ち尽くし、その生き物を見つめた。
巨大な二つの目。巨大な口。
何よりもその身体は、幅三十メートル、長さはゆうに百数十メートルはあった。
「よぉう...ファイの嬢ちゃんよ....随分とまた慌ててるじゃねぇか。何があったんでぇ?」
途方もないほど深く低い声が響いた。確かにそれはそのクジラのような巨大生物の口から出ていた。
* * * * * * * * * * * * *
『ナリシャさま....なぜここに?』
ファイが尋ねた。それを聞いたゴロンたちの間に再びどよめきが走った。
「ナ...ナリシャさま...じゃと?」
ゴルマ族長が慌てて居住まいを正し、片膝を着いて頭を下げた。ドゴロがそれに続き、やがてその場にいたゴロンたちが一斉に巨体を折り曲げて拝礼した。
「―――いやね...雷龍のヤローがおっ
再び低い声が響いた。だがその声は同時に妙に艶のある声だった。
「...って今日がその初日だけどよ。ハハハ...」
巨大クジラは笑った。凄まじい風が断続的に吹き付けてきて、リオスと仲間たちは思わず腕で顔を覆った。ナリシャは続けた。
「...んで来てみたら悪竜なんて珍しいモンが飛んでいきやがったから、不思議に思って降りて来たのよ。そしたらゴロンの兄ちゃんたちも勢揃いしてやがるしよぅ...。こっちがびっくりだぜ」
『ナリシャさま。ナリシャさまがご覧になった悪竜はギラヒムの走狗です』
「ギラヒムだとォ?」
ファイの説明を聞き、巨大クジラは素っ頓狂な声を上げた。その巨大な目の上に生えた大木のように長い眉毛がぐいと上がる。だが彼はすぐ真顔に戻った。
「あんのクッソガキが。まぁた懲りずに悪さしやがったのか?」
『彼はいま、浮島への侵攻を企てています。...ナリシャさま。お願いいたします。どうかわがマスターを浮島へ...』
精霊の少女は膝を曲げ、頭を下げた。それを見たリオスは何かに突き動かされるように前に出て頭を下げた。
「ナリシャの爺っちゃん。俺からも頼む。どうか、俺たちを浮島に連れてってくれ」
「じ...爺っちゃんだとぉ....?」
巨大クジラが再び素っ頓狂な声を上げると、口から息を噴き出した。またも暴風が襲い、リオスたちはよろめきながら顔を腕で覆った。
「大精霊ナリシャさまを爺い呼ばわりかい...ッ。ったく...しょうがねぇ坊主だ。よし、乗りねぇ」
ナリシャはその胸ビレをゆっくりと前に出した。それだけで畑地ほどもありそうな巨大な胸ビレだ。
リオスが前に出ようとすると、その時、ラジーブが動いた。狩人は少年の肩に手をかけると、静かな声でこう言った。
「―――我、行く」
狩人はリオスの目を見つめながら言葉を継いだ。
「我、リオス、戦う、共に。我、命、終わる」
「ラ...ラジーブ...お前...」
リオスは思いがけない相手の言葉に目を見張った。だがその時リメイラも前に出てきた。
「ちょっと狩人。抜け駆けする気?」
彼女はハンマーを放り投げると片手で受け止め、クルクルと回しながら続ける。
「リオス、あんたもあんたよ。まさかこのあたしを置いてくつもりじゃないでしょうね?」
「姉さん...」
絶句したリオスに、今度はテツジも歩み寄ってきた。彼は気弱な笑みを浮かべながらも言った。
「しょうがねぇ。乗りかかった舟だ。俺っちも行くよ」
「決まりね。あんたこの中で一番料理上手だもんね」
リメイラがはしゃいで引き継ぐ。
「そ..それだけじゃねぇぜ。俺っち鼻も耳も利くし穴掘りだって...」
だがその時、巨大クジラが軽く咳払いした。それだけで地響きのような音がして、四人は驚いて振り返った。
「あぁ...驚かして悪りぃ。でも亜人の兄ちゃんと姉ちゃんよぉ...悪りぃこたぁ言わねぇ。あんたらは行かねぇほうがいい」
ナリシャが言うと、テツジとリメイラは驚いて同時に叫んだ。
「な...なんでよ?/な...なんでだよ?」
「亜人ってなぁもともと酸素濃度の低い場所で生きるように造られちゃぁいねぇんだ。やめといたほうがいい...。浮島に着いても良くて気絶、悪けりゃおっ
それを聞いたテツジとリメイラは落胆し顔を見合わせた。ナリシャは続けた。
「それにシーカーの兄ちゃんも同じさ。鍛えてるったってぇあんたは低地育ちだろ?あんな高度まで上がったら運動できるまで一週間はかかるぜ。だから...」
ここまで喋ると彼は少し間を置き、そして締めくくった。
「..浮島での戦闘で役に立つのは、そこの坊主、ただひとりってぇわけよ。わかるか?」
四人は沈黙した。リオスは言葉に詰まって仲間たちの顔をかわるがわる見た。だがやがて彼は微笑むと、三人の仲間にこう声をかけた。
「..ありがとな。俺は最高の仲間に恵まれたと思ってる。後は任せてくれ」
すると、突然リメイラが近づいてきて、リオスをしっかりと抱きしめた。
「wあわgaうあ?」
その力は恐ろしく強かった。少年が窒息しそうになって身じろぎすると、彼女はやっとその手を離した。
「...い...いいのかよ?嫁入り前の娘がこんなことして...」
だが、そう言いながらリオスが相手の顔に目をやると、彼女の目からは大粒の涙が流れ落ちていた。
「知った風なこと言わないの」
リメイラは少年の髪の毛をグシャグシャとかき乱すと、涙をぬぐおうともせずその両肩を叩き、こう言った。
「しっかりやるのよ。あんたなら絶対やり遂げられるから。ね?」
「ありがとう...姉さん」
するとテツジが背中のリュックから次々と食料を出して渡してきながら言う。
「リオス....おめぇはやっぱりレジェンドの子だったよ。俺っちは一生忘れねぇよ。おめぇのことを」
「...そ...そんな。俺は親父に比べたら素人同然さ」
慌てて食料を受け取りながらリオスは言った。だがテツジは自分の胸を手で叩くと答えた。
「違げぇよ。俺っちが言ってるのはおめぇの心さ。その心、俺っちも真似させてもらうぜ...そうだ。その種無しパン、今日中に喰えよ」
すると最後にラジーブが近づいてきた。狩人は弓と矢筒を自分の肩から下ろすと、躊躇わず少年に差し出した。
それを見たリオスは驚きに口を開けてしまった。
「...お...おい...ラジーブ。お前にとって弓矢は命も同然だろ?それをどうして...」
「リオス。守る。故郷」
狩人は短く答える。差し出した弓と矢筒は微動だにしない。
「でも...」
すると狩人はニヤリと笑った。
「リオス、弓矢、下手くそ。練習。たくさん」
すると、数秒経ってからリオスもニヤリと笑った。
「...言ってくれるじゃねぇか。じゃあ次に会った時はぎゃふんと言わせてやるぜ」
少年は弓と矢筒を受け取ると自分の背に背負った。
* * * * * * * * * * * *
大勢のゴロン戦士たち。そしてその真ん中にいる狩人、ゴロン娘、モグマ青年。
彼らが見守るなか、リオスは巨大クジラの胸びれに乗ると振り返った。だが直ぐに踵を返し、そこからナリシャの頭部によじ登り、額のすぐ後ろ辺りに座を占めた。
もう一度だけ振り返る。三人の仲間たちは手を振っている。リオスが手を振り返すと、ナリシャが言った。
「よぅし、じゃあそろそろ出発すっかぁ。行くぞォ....」
――――ゴフゥ....ゴフゥ....ゴフゥ....―――
ナリシャの巨体が呼吸音を発する。するとそれがフワリと空中に浮いた。
リオスは顔を輝かせながら周囲を見回した。数秒のうちに、みるみる高度が上がってきている。そして、それまでは見えなかった神殿の全容も見えてきた。巨大な鳥の像や紋章のようなモニュメントが建てられている。
いつしかリオスは砂漠をはるか下方に見下ろしていた。東に目を転ずると、遠く霞む山脈の間にひときわ高い山が煙を噴き上げている。
『マスター....ハイリアがあなたを選んだ理由が、今はっきりとこのファイにも理解できました。ハイリアは、浮島が戦場になることを予見しておられたのです』
ファイが少年の目の前に姿を現すとそう言った。それを聞いたリオスは呟くように答えた。
「...ありえねぇよな、普通。ラジーブとリメイラ姉さんが役に立たない場面で、この俺だけが役に立つなんて....」
『ハイリアにはギラヒムの企みも全てお見通しだったということです。このファイも...もう少しで危うくハイリアへの信頼を失うところでした』
その瞬間、ファイが一瞬舌を出したような気がした。リオスにとってはその日一番の驚きだった。
「―――おぉい坊主。高度上げっからしっかり掴まっとけよぉ」
ナリシャの声が足元から響いてくる。
「わ...わかったよ、爺っちゃん!」
少年は答えたものの、どこにどう掴まればいいのか分からない。だが、足元をよく見ると、なだらかに膨らんだナリシャの頭に繊毛が生えているのが見えた。
リオスは座り込んでその繊毛をしっかりと握った。その途端に、ナリシャの巨体が急に上向きに傾いた。
――――ゴフゥ.ゴフゥ.ゴフゥ..―――
呼吸音の間隔が狭まっていく。それと同時に、少年は耳の中に奇妙な感覚を覚えた。
「唾の呑み込んどけぇ、坊主。鼓膜の外と中の圧力の差で耳がヘンになったろぉ」
老精霊が心を読んだように言う。言われた通りにするとようやく耳の違和感が収まってきた。
そしてふと周囲を見ると、リオスは驚きの声を上げそうになった。眼下に見えた砂漠はもはや霞んでいる。地表に何があるのかもよく見えない。
そして上を見ると、雲が近い。手が触れられそうなほどだ。
ほどなく、周囲を雲片が通り過ぎるようになった。と思うと、ナリシャの巨体は一気に雲の中に突っ込んだ。
リオスは歓声を発した。雲の塊が自分の顔を撫でるたびにしっとりとした水滴を残していく。目を上げると、濃淡のある雲の隙間から太陽の光が見え隠れする。
と思うと、リオスたちは唐突に雲の上に出た。
「うわぁぁぁぁ...スゲぇッ」
少年は言った。見渡す限りの雲海の上。鳥さえも飛んでいない。上には晴れ渡った青空と太陽だ。
「....ナリシャさまの背で遊覧飛行なんてぇ贅沢は一生に一度できるかどうかだぜぇ。ま、とくと楽しんどきな」
「ありがとう!爺っちゃん!」
だが、老精霊は真面目な声に戻ると続けた。
「こっから飛ばすぞぉ。のんびりしてばかりもいられねぇからな」
一旦緩やかになった呼吸音がふたたび速くなっていった。ナリシャの巨体の腹の下すれすれのところにある雲が凄まじいスピードで後ろに通り過ぎていく。
リオスはテツジから渡された食料を食べ始めた。種なしパン。干し肉。干し果物。
食べているうちに、少年はいつしか浮島のことを思い出した。数年間帰っていないような気がしたからだ。
真っ先に思い出したのはイリーナだった。
そして悪友のセバルスとロド。
だが、追憶のうちに養父のドシュトの顔を思い出したとき、少年の胸に鈍い痛みが走った。
「なぁ....爺っちゃん...俺さ....」
食事が終わると、リオスは言った。
「ん?なんだぁ坊主?」
「俺さ...小さい頃親がふたりともいなくなって、爺いちゃんみたいな大叔父さんに育てられたんだ。でも...体が大きくなってくると、俺生意気になって....」
そう言うとリオスは俯いた。
「ドシュト爺いに酷い口をきくようになっちまったんだ。俺、自分が他人と違って親もいないし、小さい頃から家事ばっかやらされてるのが気にいらなくって...それで爺いが年を取って弱ったのをいいことに、思いつくままの悪口をぶつけてたんだ。でも、それって間違ってたって今は思うんだ」
老精霊は黙って聞いている。リオスは尋ねた。
「なあナリシャの爺っちゃん...。もしも俺がドシュト爺いに謝ったら、ドシュト爺いは今までに俺が傷つけたこととか忘れてくれるって思うかい?」
「....へッ...爺いのことは爺いに聞けばわかる...ってか?」
ナリシャが冗談めかして答えると、リオスは慌てた。
「い...いや...そういうわけじゃねえけどさ.....」
「そうさな、坊主。おいらにゃ人間のことはそこまでよくわからねぇが....」
老精霊は間を空けると言葉を継いだ。
「おめぇさんが悪かったって思うなら、今から会って謝るこったな。だが、謝ったところで過去は消えやしねぇ」
巨大クジラの言葉に、少年は落胆し目を伏せた。すると相手は続けた。
「覚えとけ、坊主。謝ることは過去を消すことじゃねぇ。未来を創ることだ」
「未来...?」
「そうさ」
ナリシャは言った。
「つまりおめぇさんが、相手をこれから裏切らずにいられるかってことさ。おめぇさんは見たところ、仲間を裏切ることは一度もなかったみてぇだな。それと同じことが爺さん相手にできるか?それが未来を創るってことよ」
リオスは言われたことを反芻した。そうしているうちに、いつしか胸のうちの鈍い痛みは和らいでいった。
誰かに謝る。そんな心の重くなるようなことを、少年は今腹の底からしたいと感じ始めていた。
「――よぉし!見えたぜ!」
老精霊の声に、リオスは我に返った。
目を上げると、はるか遠くに円盤状の岩の塊が浮いている。その中央にポツンと立つ女神像のシルエットが辛うじて視認できた。
リオスにはそれがたまらなく懐かしく思えた。それほどいい思い出はない。それなのに、地上という修羅の庭を見て来た彼には浮島の姿は貴重な宝石のように思えてきた。
「なぁるほどなぁ...こいつぁ大騒ぎになってやがるぜぇ」
ナリシャが呟いた。それを聞いた少年も浮島に目を凝らした。だが細かいところはまだ何も見えない。リオスは尋ねた。
「爺っちゃん...何が見える?いったい何が起こってるんだ?」
「...おおっと、おめぇの目じゃまだ無理か。えれぇ数の鬼どもが登ってきてやがる。ちょっくら急ぐぜ!」
そう答えるとナリシャはやや前傾姿勢になった。リオスの顔に吹き付ける風圧が急激に強くなる。ぐんぐんと目標に近づいているのが感じられた。
ただの岩片ほどだったそのシルエットが、やがて巨大な岩の円盤となった。
中央に立つ女神像。足元にある神殿。そして数知れない住居群。
だが、リオスはその周縁部分に目をやった瞬間違和感に気づいた。
虫の大群のように、何者かが長い列をなして雲の下から昇ってきている。その列はひとつではない。五つも六つも並んでいるのだ。
少年はナリシャの頭の上から身を乗り出すようにして目を凝らした。
すると見えてきた。
浮島の端から何本ものロープが垂らされている。そのロープには、間隔を置いて鬼どもが掴まっており、それが昨日鉱山で見かけたバケツ運搬装置のように動いていた。
雲の下から、ロープにしがみついた鬼が次々と上昇してきている。そしてその到達点にはモリブリンが一匹づついて、大きな機械のハンドルを回していた。登り切った鬼が浮島の上に降りると、ロープは機械を通ってから地上に戻っていく。どうやら、輪になったロープを回転させる仕組みのようだった。
浮島の周縁部には既に数百匹の鬼たちが群がっている。その数はみるみるうちに増加していた。