故郷への降下
「爺っちゃん...何が見える?いったい何が起こってるんだ?」
リオスは老精霊ナリシャに尋ねた。向かい風の中はるか前方に目をやると、空に円盤状の岩の塊が浮いている。
浮島だ。その中央にポツンと立つ女神像のシルエットが辛うじて視認できた。
「えれぇ数の鬼どもが登ってきてやがるんだ!ちょっくら急ぐぜ!」
そう答えるとナリシャはやや前傾姿勢になった。リオスの顔に吹き付ける風圧が急激に強くなる。ぐんぐんと目標に近づいているのが感じられた。
ただの岩片ほどだったそのシルエットが、やがて巨大な岩の円盤となった。
中央に立つ女神像。その足元にある神殿。そして数知れない住居群。
だが、リオスはその周縁部分に目をやった瞬間違和感に気づいた。
虫の大群のように、何者かが長い列をなして雲の下から昇ってきている。その列はひとつではない。五つも六つも並んでいるのだ。
ナリシャの頭の上から身を乗り出すようにして目を凝らす。すると見えてきた。
浮島の端から何本ものロープが垂らされている。そのロープには、間隔を置いて鬼どもが掴まっており、それが昨日鉱山で見かけたバケツ運搬装置のように動いていた。
そのようにして、雲の下から鬼が次々と上昇してきている。そしてその到達点には巨体のモリブリンが一匹づついて、大きな機械のハンドルを回していた。
登り切った鬼が浮島の上に降りると、ロープは機械を通ってから地上に戻っていく。どうやら、輪になったロープを回転させる仕組みのようだった。
浮島の周縁部には既に数百の鬼たちが群がっている。その数はみるみるうちに増加していた。
「パパっと片付けるぞ!ちぃっと掴まってな、坊主!」
ナリシャはそう言うと、急降下しながら鬼の群れに突っ込んでいった。
悲鳴、罵声、喚き声が響く。鬼どもが吹き飛ばされると同時に、今度はナリシャが身体を大きく旋回させた。またも多数の鬼どもが吹き飛ぶ。
リオスは必死でナリシャの頭部の上に生えた繊毛にしがみついていた。目を上げると、今度は老精霊が口を尖らせ、勢いよく息を噴き出し始めていた。
浮島の周縁部分にいた到着したばかりの鬼どもが、凄まじい暴風に吹き飛ばされ、崖から落下していく。鬼どもを運搬するロープを動かす機械に手をかけていたモリブリンたちもよろめき、やがて転げ落ちていった。
「す...スゲェや爺っちゃん!」
リオスは思わず呟いた。
だが、体当たりを免れた鬼たちが体勢を立て直すと、弓兵たちが矢を射掛けてきた。ナリシャの巨体に次々と矢が突き刺さる。
「爺っちゃん...!大丈夫か?矢が刺さって...」
「んぁ?矢?なんのことだぁ坊主?」
ナリシャはそう尋ねて息継ぎすると、もう一度息を噴き出し始めた。
二度目の暴風に見舞われ、もはや鬼どもは成す術もなく後退し崖から落ちていった。飛んできた矢さえもが軌道を変え、明後日の方角に飛び去っていく。
「おい爺っちゃん!爺っちゃん強すぎだろ!これじゃ俺が来た意味無くねぇか?」
リオスはそう叫んだ。
その時だった。はるか上空から叫び声がした。
不吉極まりないその音色に、リオスは思わず顔を上げた。
真っ黒な皮膚。蝙蝠のような巨大な翼。
時の神殿で見た竜だ。
* * * * * * * * * * * * * * * *
竜は真っすぐこちらに突っ込んできた。それと同時にナリシャが叫んだ。
「掴まれ坊主!」
リオスは反射的に身を屈め、老精霊の頭の繊毛にしがみついた。
途端にナリシャの巨体がロールした。天地がひっくり返り一回転する。同時に竜が吼え声を上げながら襲い掛かる。鋭い爪が肉を裂く音が聞こえた。
少年はやっとの思いで目を開いた。既にナリシャは上昇を開始している。だがふと周辺を見ると、その巨体から流れ出したのか、赤い血が霧のように漂っている。
竜の咆哮が再び響く。後ろを振り返ると相手が追撃してきている。リオスは言った。
「爺っちゃん!大丈夫か?血ぃ出てっぞ!」
「掴まってろ坊主!また捻るぞ!」
ナリシャはそう言うなりまたロールした。凄まじい衝突音がした。振り落とされないようしがみついていた少年の視界の隅に、巨大クジラの尾びれで一撃を受けた竜がヨロヨロとたじろくのが見えた。
だが竜は諦めていなかった。空中で立ち直ると、急速に羽ばたきを早める。
――――バサァッ...バサァッ...バサァッ...――――
不吉な羽音が近づいてきたかと思うと、リオスたちの頭上に到達した。
もはやナリシャとリオスは浮島中央部の上空にいた。眼下には女神像と神殿が見える。
再び竜に目を向けた瞬間、リオスは思わず息を呑んだ。竜は大きく口を開いている。その口の中にオレンジ色の炎がみるみるうちに満ちてくる。
「...ったく懲りねぇ
ナリシャが愚痴るような口調で言う。竜の口から炎が迸り出てきた。柱のような炎がみるみるうちに迫ってくる。
老精霊は僅かに身体の角度を変えると、口から息を噴き出した。
驚くべき威力だった。
迫りくる凄まじい炎が、見えない壁に衝突したかのように弾かれ、周囲に四散していく。
竜は激しく羽ばたきながらも、絞り出すようにして炎を吐き出し続ける。だが、ナリシャはまるで楽器に息でも吹き込むような平静な様子でそれを吹き飛ばしていく。
とうとう竜が根負けし、火炎放射を止めた。だが吼え声を発すると、またこちらに突っ込んできた。
「坊主、ちぃっと手こずりそうだ!おめぇは降りてろ!」
ナリシャがそう言いながら再び身体をロールさせると、竜の黒い巨体が高速で近くを通過していった。
「わかった!浮島は俺に任せろ!竜を頼んだぜ!」
そう返事しながらリオスは空中に身を投げ出した。
「ッたく生意気な奴だ。死ぬんじゃねぇぞ!」
老精霊の含み笑いを背に受けながら、少年は両腕両脚を大きく広げ降下姿勢をとった。
* * * * * * * * * * * *
風が服を叩き、バタバタと音を立てる。
体をわずかに回転させると浮島の様子が一望に見渡せた。
神殿とそれを取り囲む住居群から、周縁部に近い農村に目を移すと、幾筋か煙が上がっているのが少年の目を引いた。目を凝らすと、そこから中心部に向けて人々が逃げ惑っている。
「ファイ!ここからあの農村の手前まで行けるか?」
『はい、マスター。角度を修正してください。十五度ほど前傾。右に五度』
言われたとおり姿勢を修正しながらも、リオスの頭脳は忙しく回転していた。
「ファイ、奴らに見つからないように地表ギリギリで開傘したい。合図は任せていいか?」
『了解しました。では地表から100メートル付近で合図します』
「ついでにもう一つ頼む。襲撃されている農村周辺の敵の数と位置を調べてくれ」
『はいマスター。――――――――』
ファイはそう返事したあとしばらく黙っていたが、やがてリオスの横に出現し、手の上に小さな画像を浮かび上がらせた。
『――――――五つの農家の内部でボコブリンが略奪中。各家屋七~八匹前後。さらに後方から増援六十匹が向かっていて、計百匹近くとなります』
少年は画像を確認した。市街地との境にある農家の集落だ。
「わかった」
リオスは眼下の風景に目を戻した。煙を上げる農村がみるみるうちに近づいてくる。
『パラショール開傘までのカウントダウンを開始します』
姿を消したファイが言う。少年は農村の背後に向けて身体を傾け角度を調整した。
『五....四...三...二.....』
家屋の屋根から立ち昇る炎が見え始める。
『一....開傘』
リオスは背中に背負ったパラショールの把手を引いた。途端に飛び出した布が風を孕み大きく広がる。落下速度が急激に低下し、上から釣り上げられたような感触を覚えた。
だがそれでも高速で下から地面が迫ってくる。着地の瞬間、リオスは本能的に膝を曲げると横に倒れながら身体を背中側に回転させ衝撃を吸収した。素早く立ち上がると、パラショールを引き摺りながら立ち並んだ家屋の後ろに生えた灌木に駆け込んだ。
パラショールを畳みながら様子を伺う。鬼どもは略奪に夢中になっているのか、こちらに気づいた様子もない。
パラショールを収納し終わると、リオスは剣の刀身を確かめ、次いで矢筒の中の矢を数えた。そして装備のベルトを締め直すと、姿勢を低くして農村に向かって歩き始めた。
* * * * * * * * * * * *
「ファイ....増援がここに着くまでにどれくらいかかる?」
リオスは一番手前の農家に近づき、壁際に身を寄せながら小声で尋ねた。そうっと頭を上げて窓から覗き込むと、ボコブリンどもが手あたり次第に棚や物入れを引っ繰り返している。すぐにファイの返答があった。
『五分ほどです』
「装備は?」
『...弓兵が五名。残りは全て鉈か棍棒を装備した歩兵です』
リオスは窓に手を伸ばすと何回かノックし、素早く身を沈めた。背中から弓を下ろすと、矢を一本つがえた。
家の中から足音がして、一匹のボコブリンが窓を開けて顔を出した。その途端リオスは立ち上がり、ゼロ距離で相手の額に矢を放った。
その鬼は動きを止め、しばらく立ち尽くしていた。リオスは二の矢をつがえて待った。撃たれた鬼がゆっくりと崩れ落ち、窓枠にもたれ掛かる。部屋の中が見えると、鬼どもの側でも異変に気づき、六匹ほどが一斉にこちらを向いた。
リオスは躊躇わず撃った。距離は数メートルもない。飛んでいった矢が敵の胸に命中する。三の矢、四の矢を放つ。次々に鬼どもが呻き声を上げてよろめく。
残りの鬼どもが背を向けて部屋の扉に駆け寄った。だがリオスはもう一矢を放った。逃げ遅れた者の背中から矢が左胸に抜ける。
だが二匹ほどが逃げおおせた。リオスは走って家の外を回り込みながら弓に矢をつがえた。
畑に向いた戸口から転げ出た鬼が、慌てた様子で警告の声を上げようとしていた。リオスは弓を引き絞ると放った。鬼の開いた口に矢が飛び込む。
だがもう一匹は鉈を振り上げて立ち向かってきた。少年はその一撃を半身になって躱すと、剣を抜きざま袈裟斬りを叩きつけ、身体を沈め回転斬りを放った。黒い血が飛び散り、頭部が皮一枚で繋がった鬼がゆっくりと倒れた。
リオスは素早く周囲に目を走らせた。まだ気づかれていない。少年は家屋に駆け込むとボコブリンどもの死骸から矢を回収し、戸棚からランプ油を探し出して床に撒いた。
そして竈から燃え差しを取り出して手に持つと、家の前に立って大声で叫んだ。
「やいボコブリンども!浮島の住人が腰抜けばかりだと思ったか!お前らの仲間はこのザマだぜ、見ろ!」
何度も叫び続けていると、他の家屋を荒していたボコブリンどもがようやく出てきた。不思議そうな顔でこちらを見ていたが、やがて少年の足元に倒れている死体に気付くと、怒りの喚き声を上げ始めた。
「悔しかったらこっちに来い!相手になってやらあ!」
少年はせせら笑いながら呼ばわった。するとボコブリンどもがわらわらと出てくる。
リオスは白目を剥いたり、舌を突き出したりしながら罵倒した。侮辱が通じたのか、鬼どもは一斉に怒号を上げながら駆け寄ってきた。
少年は後じさりすると、家の中に入った。そして窓のところまで後退すると、鬼どもが家になだれ込んできたところで窓枠に手を掛けた。
「じゃ、ごゆっくり!」
リオスは窓枠を乗り越えながら燃え差しを家の床に投げつけた。
途端に勢いよく炎が上がった。少年は外に飛び出すと地面に転がった。
家の中からは鬼どもの喚き声と断末魔の悲鳴が聞こえてくる。リオスは見知らぬこの家の持ち主に心の中で謝罪しながら、弓に矢をつがえ家の表に回った。
戸口から火だるまになったボコブリンどもが次々と飛び出してきている。仲間から出遅れたほかの鬼どもはそれを見ながら茫然としていた。
少年は無造作に弓に矢をつがえると撃った。無事だった鬼の頭部に矢が命中する。目の前の敵の数はまだニ十匹を超える。だがリオスは機械のように冷静に弓に矢をつがえ、放っていった。二の矢。三の矢。
だが、数人が倒れたところでようやく鬼どもは事態から立ち直った。
誰かが号令をかけると、皆が一斉にリオスの方を向いた。だがリオスはその号令をかけた個体に狙いをつけて矢を放った。額に矢を受けた鬼が倒れると同時に、少年は弓を背負って剣を抜いた。
激しく立ち昇る炎が少年の顔を照らす。
「―――来いよ。片端からぶった斬ってやっから」
ボコブリンどもが一斉に武器を振り上げ距離を詰めてくる。少年はやや後じさりすると炎上する家屋を背に立った。
先頭の鬼が突進し鉈を振り下ろしてくる。身体を反らして躱すと首筋を斬り上げる。二匹目が来る前に、その襟首を掴み敵のほうに押しやった。
だが横からもう一匹が。棍棒を振りかぶると横に払ってきた。身を低くして回避すると、リオスは突きを放った。心臓を貫く手応えを感じた瞬間に引き抜き、後ろ蹴りで突き放す。
だが、最初の一匹の身体を押しのけて新手が襲ってきた。複数だ。リオスは一匹の鉈の斬撃を剣で逸らし胴を払った。もう片方の棍棒を身を沈めて躱す。棍棒が胴を斬られた鬼に誤爆する。リオスは体の泳いだ鬼に突きを喰らわすと、頭をつかんで投げ倒し、胸にとどめを刺した。さらにもう一体が走り寄ってきて、棍棒を振り上げる。視界の隅でそれをとらえたリオスは、ギリギリのところで剣を横にかざした。敵の武器を受けざま刃を回転させて首筋に深い袈裟斬りをかけ、さらに突きを浴びせ蹴り倒す。黒い血を噴き出しながら鬼がのたうち回る。
剣を上げ中段に構えると、予想せぬ強敵に動転したのか、鬼どもの顔に狼狽の色が浮かんだ。
「―――まだやんのか?ぁ゛?」
低い声で啖呵を切りながらも、少年は残りの敵の全員を視界に入れた。増援が来るまでにカタをつけるつもりだった。
剣を握った手をダラリと垂らして、鬼どもに近づいていく。信じられないものを目にしたような鬼たちが、後じさりしながらも武器を構える。距離が縮む。
鬼の一匹が叫びながら棍棒を振りかざしてきた。それを視界の端で捕えギリギリでステップして躱すと、胸に突きを喰らわし首筋を軽く払う。そいつが崩れ落ちる前に、隣の敵に歩み寄る。そいつも絶望的な声を上げながら鉈を払ってきた。剣で弾き、足さばきで入身すると逆横斬りで首を撫で斬りにした。
隣の敵。そしてその隣の敵。少年は次々とボコブリンどもを斬り捨てていく。
もはや鬼どもには十分だったようだ。やがて喚き声を上げながら、彼らはもと来た方向に走り去っていった。
『マスター。敵の増援が近づいています』
ファイの声が聞こえた。目を上げて周縁部の方向を見やると、畑の中をボコブリンどもの群れが突っ切ってきている。そのうちの数匹がこちらに弓矢の狙いをつけていた。
矢が風を切る音が何度も響く。離れた地面に矢が刺さった。リオスは身を低くすると、鬼どもの死骸から矢を回収し、農家の裏手に回り、そのまま市街地に走っていった。
* * * * * * * * * * * * * * * *
「なあファイ、俺ってメッチャ強くなってねぇか?」
市街地に入ったリオスは街路から手近の家の陰に駆け込むとファイに尋ねた。
『はいマスター。マスターの戦闘能力は初期の七倍程度となっています』
「七倍!」
少年は思わず声を上げそうになった。だがその時気づいた。
「なぁ....でもそれって、ラジーブに比べたらまだまだってことだよな?」
『その通りですマスター。ラジーブはマスターの約2.8倍です...それに加え』
ファイは冷厳な声で続けた。
『―――ボコブリンたちには高高度における低酸素状態の馴化不足により動作が緩慢になっています。マスターが相対的により強くなったのはそれも一因です』
「なぁんだ。...俺が強くなっただけじゃなくって相手が弱くなったってことか」
リオスは溜め息をついた。
『それもハイリアの配剤でしょう。マスター、敵との距離が百メートルを切りました』
―――ブォォォォ....ブォォォォ....――――
聞き覚えのある角笛の音を聞いた少年は家の陰から顔を出した。
農地に横並びしたボコブリンの群れが進軍してくる。リオスは民家に飛び込むと、寝室のベッドのシーツを剥ぎ、クッションに入っていた藁を掴み出した。そしてそれを表通りにバラ撒くと、今度はランプ油を探し出してその藁の上に注ぎ出した。
「ファイ、この辺りの住民はもう避難したのかな?」
『おそらく。農村からの避難民が危険を知らせたものと推測されます』
「悪りぃ。念のため家々を回って、もし誰か残ってたら逃げるよう言ってくれ」
『了解しました』
少年が作業しながらファイに指示すると、彼女は浮遊しながら飛び去っていった。
もう一度敵群の様子を伺うと、顔が判別できるほどの距離に近づいている。リオスは表通りの真ん中に立つと手を振った。
「おぉい!こっちだ!退屈してんなら俺が遊んでやるよ!」
鬼どもが湧き立ち、矢が飛んで来る。少年は飛び退くと、再び家の中に駆け込み、竈から燃え差しを取り出して戸口で待ち構えた。
喚き声、怒号が近づいてくる。たちまち十匹ほどのボコブリンが市街地に入ってきた。先頭の集団が左右を見回す。そのうち一匹と、家の陰で待ち構えていたリオスとの目が合った。
「歓迎するぜ!」
リオスは燃え差しを投げつけた。路面に落ちた燃え差しからたちまち油に火が移る。後方にいた数匹が火だるまになる。免れた連中も不意を突かれ狼狽した。
少年は落ち着いて弓に矢をつがえ、端から敵を狙っていった。動く者がいなくなると、素早く矢を回収する。だが、火の勢いが弱まると後続の鬼どもがリオスの姿を認め、騒ぎ出した。リオスはすぐに中心地に向け撤退した。
* * * * * * * * * * * * *
その後、少年は家の陰に隠れて鬼どもを狙い撃ち、あるいは出会い頭に斬り倒していった。数匹を倒すと裏通りに駆け込んで敵を撒く。幼い頃から走り回った街路だから勝手は知っていた。そして抜け道で裏に回り込み、また奇襲を繰り返す。
やがてボコブリンの進軍速度が目に見えて低下していくのがわかった。
「ファイ!避難は完了してるか??」
リオスが呼びかけるとファイが戻ってきた。
『完了しています。住民は皆神殿の足元に集まっています』
「敵の残りは?」
『―――残り三十五匹。ただし周縁部で落下を免れた生き残りがまだ六十匹ほどいます。農村を略奪しているようです』
「そいつらは後で相手しよう。こっちに向かってる連中はどんな様子だ?」
少年は近くの家に入り込むと、戸棚から勝手にパンを取り出し、通りに戻った。
『著しい士気の低下が見られます。少数の下士官らしき者がまとめていますが、一部は進軍を続けることに抵抗を示しているようです』
「じゃあその下士官ってのを倒せば総崩れになるかもな」
リオスは咀嚼しながら市街中央部に向かって歩いていった。光の塔が聳え立つ広場まで来ると、彼は塔を見上げ、次に矢筒の矢を数えた。残り数本だ。
「あの上から偉そうな奴だけ狙い撃つって手もあるかもな」
『その作戦はリスクがあります。万が一敵が撤退に至らなかった場合袋の鼠です』
少年の呟きにファイが指摘する。リオスは腕を組むと女神神殿のほうに目を向けた。避難したらしき人々の群れが、礼拝の日と同じように多数固まっている。
「鬼どもを近づけたくないな。裏通りに誘い込んで片端から斬り捨てよう。ファイ、敵の位置をもう一度確認してきてくれないか」
『了解しました』
ファイが飛び去る。すると、神殿の方角から呼びかけてくる声が聞こえてきた。
「―――リオス!リオス!」
聞き慣れない声だ。振り向くと、こちらに近寄ってくる人影が複数ある。
長服を着た神官と助祭たちだった。
* * * * * * * * * * * * *
嫌な思い出が蘇るとともに、少年は内心驚いた。今の危険な状況を理解していないのだろうか。
神官は大きく手を振りながら駆け寄ってくる。顔には笑顔を浮かべていた。
「リオス!リオス!」
初老の神官は急ぎ足で近づいてくると、息も荒いまま少年に話しかけた。
「....リオス..よくやってくれた。君のお陰で浮島は救われたよ。本当に感謝する」
助祭たちも少年を取り巻くように近づいてきた。皆、揉み手せんばかりの笑顔だった。
「―――魔物側の代表が休戦を申し入れてきたんだ。もはや向こうは戦意を失っている。それに......」
神官は間を置くと、リオスの肩を軽く叩いて続けた。
「彼は君のことを褒めていたよ。実に見事な腕前だとね」
「....そりゃどうも」
少年は答えたが、どこか合点がいかない。だが神官は満面の笑みを浮かべて続けた。
「さあ、一緒に来てくれ。これから休戦協定に調印する。君も立ち会って欲しい」
「はぁ?協定?」
「そうだ。二度と浮島を侵攻しないと確約させる。これ以上の流血も防げる」
「あのぉ....魔物の代表って...ギラヒムっすよね?」
「そうだ。よく知ってるんだな、リオス」
神官はやや驚いた顔をした。少年は頭を掻きながら答える。
「まぁ...ちょっと因縁があったもんっすから」
リオスは相手の顔を見上げると言葉を継いだ。
「何にせよ、あいつ協定なんて守るわけねぇと思うんっすけど?クズヤローっすよ、あいつ」
「...それは文言次第さ。さぁ、神殿官舎へ。腹も減っただろう。食事も用意してある」
神官は親し気にリオスの背に手を添える。食事のことを言われると、これまで粗末なものしか食べていなかった少年は強烈に胃袋が反応するのを感じた。
「君は英雄だ。浮島の皆が、君に礼を言いたがっている」
神官が言うと、助祭たちも口々に褒めそやした。
「本当に助かったよ!」
「君が来なければ、我々はどうなっていたか....」
―――まあいい。一旦腹ごしらえしてから状況を見て戦うかどうか決めればいいさ―――
リオスは考えた。度重なる戦闘に疲労した肉体と高ぶった神経は切実に休息を求めていた。
「おおい!早く持ってこないか!」
一行が広場を横切り市場の脇を通り抜け、神殿へ登る階段の足元に来ると、神官が声を上げた。すると小間使いの女が官舎の戸から顔を出した。
女は戸口から出てくると、ピッチャーとコップを乗せた盆を捧げ持ちながら階段を降りてきて、少年に向かってうやうやしく差し出した。
「どうぞ。喉もお渇きになったでしょう」
「あんがと。じゃ頂くぜ」
リオスはピッチャーを持ち上げると中の匂いを嗅いだ。葡萄水だ。しかもよく冷えている。少年はそのまま注ぎ口を口に持っていってゴクゴクと飲み干した。
ピッチャーを返すと、神官たちと階段を登った。
だが、何か違和感を感じた。
視界が歪み始めている。足取りがフラフラする。
「あ....あれ?」
リオスがよろめくと、神官が手を伸ばして支えた。
「どうしたんだ、リオス?」
「い.....いや...」
少年は首を振って立ち止まった。ふと階段横に建つ官舎を見上げると、窓から誰かが見下ろしている。
目を凝らすと、見覚えのある顔だった。
―――イリーナだ。
彼女の顔は恐怖に歪み、その目は泣き濡れていた。
―――なんだこれ?いったいどうなってんだ?―――
頭にそんな疑問が浮かんだ瞬間、少年は意識を失って崩れ落ちた。