「う...嘘だろ。本当に....浮いてるってのか.......?」
リオスは思わず呟いた。
木製のデッキに立っていると横から強い風が吹きつけてくる。眼下には一面の雲。そして頭上には、天蓋のように覆い被さる一面の岩。その岩を下から支えるものは、一切見当たらない。
『―――この浮島は女神ハイリアによって挙げられたものです。その役目を終えるまでは、空中に留まり続けます』
どこからか声が聞こえてきた。
昨晩聞いた、ファイと名乗る謎めいた少女の声だ。少年は覚えず尋ねた。
「い...いったい..何のためにそんなことを?」
『地上に悪が充満し、終焉の者が息を吹き返したとき、女神ハイリアは悪しき者たちと戦うに先立って人々を天空に逃れさせたのです』
少女の声が答えた。だがリオスはその説明を理解し切れず、ただ言葉を失って周囲を見回すばかりだった。
『リオス、あなたには知らされたことを整理する時間が必要ですね。私はその間、旅の準備を整えて参ります』
再び少女が言った。それきり、声は聞こえなくなった。
リオスは顔を上げると、デッキから続いている木道を見た。数十メートル先に伸びているが、その行くえは上からのしかかる岩の影に隠れて見えなくなっている。
リオスは木道の上を歩き始めた。時折吹きつける風が服を煽る。下に目をやると、もしも落下したら、という恐怖感が込み上げてくる。少年は前だけを見ることにした。
やがて木道の終端が見えた。岩壁に設えられた鉄の扉に突き当たっている。
リオスは扉に近づき手をかけて開けると、飛び込むように内部に入った。そこは家具も何もないガランとした部屋だった。
少年はその床に座り込んだ。そして考えをまとめた。
あの不思議な少女の幻影は、彼を剣の持ち主だと言った。
しかし神官たちは、リオスを盗っ人と決めつけている。だが事実そうだった。彼は黙って剣を持ち出したのだ。
仮に、「剣を台座から引き抜いたらファイと名乗る不思議な少女が現れて『あなたがこの剣のマスターです』と告げた」などと神官に説明しても気が触れたと思われるのがオチだ。
「――いったい何がどうなってんだよ。わけわかんねぇよ」
リオスはそう言うと、剣を床に置いて横になった。そうしてしばらく時間が経った。全速力での逃避行で早まった鼓動と呼吸が落ち着いてくると、眠気を催してくる。
どれくらいの時間が経過しただろうか。リオスはやがて、ドアを軽くノックする音で我に返った。
少年は身体を起こし、片手に剣を持ちながら用心深く扉に手を伸ばした。ほんの僅かに戸を開ける。
だが向こう側にいたのは意外な人物だった。イリーナだ。
リオスが思わず戸を大きく開けると、少女はリオスがそうしたのと同じように、飛び込むように内部に入ってきて、床に座り込んだ。彼女は荒い息をつくと、少年を見上げて言った。
「....こ...怖かったぁ!落っこちるかと思った...いったいここって何なの?」
* * * * * * * * * * * * * *
「パン。あと干し肉。お腹空いたでしょ?あ.......それと.....」
そう言って少女はポーチに入った食料を手渡してくると、次いで大きな布の袋を差し出した。
「...これ。私も何がなんだかわからないけど、とにかく言われた通りに持ってきたの」
リオスは訳も分からないままそれらを受け取りながら、問い返した。
「.....ていうか、俺もわけわかんねぇよ。そもそもお前なんで俺がここにいるってわかったんだ?」
すると、少女はしばらくの間口を閉ざして思案していた。そして深呼吸すると、彼女はリオスを見つめながら話し始めた。
「....こんなこと話したら、きっとあんたは私のこと変なヤツだって言うと思う。でも、こう説明するしかないの。だから聞いて?」
リオスが頷くと、彼女はこう続けた。
「昨日の夜ヘンな夢を見たの。同い年くらいの女の子がいて、私に言うのよ。あんたが墓地の横の扉の先にある隠れ場所にいるから、食料を持っていってやれって。でもその子ってば、まるで私よりずっと年上みたいな落ち着いた口調で言ってくるもんだから、私思わず『はい』って返事しちゃったの。それだけじゃないわ」
イリーナは、リオスの手にある袋を指さした。
「その子、『大きな布を繕って、その両端に把手をつけろ』って私に言うの。それで、その布をリオスに渡せって。本当に意味が分からなかったんだけど、とにかくそうしたの。もしかすると......これって女神様からのお告げじゃないかって思ったから」
「おい、そいつ名まえは何ていったんだ?」
リオスが問うと少女は答えた。
「ファイ。聞いたこともない名前だったけど、確かにそう言ったわ」
少年の背筋に鳥肌が走った。するとイリーナは少年に取りすがり、訴えかけるような口調でせがみ始めた。
「ねえリオス、一体何が起こってるの?神官さまたちは総出であんたを探してるわ。あんたが泥棒を働いたから捕まえるんだって。どうしてそんなバカなことをしたの?」
「.......あ......あぁ。こいつのことだな」
リオスは手に持った剣に目をやった。すると少女は重ねて言った。
「お願い、リオス。その剣を返して、神官さまに謝って?そうすれば軽い罰で済むかもしれないじゃない。ね?今すぐそうして?」
だがリオスは首を振った。
「悪りぃけど...そいつはできねぇよ」
「どうして?どうしてなの?そんなに神殿や神官さまが憎いの?」
「いや..............」
リオスは宙を見上げると呟くように答えた。
「そのファイって奴が言ったんだ。この剣は....もともと俺のものだって」
「...はぁ?」
少女は眉をひそめ、信じがたいといった表情をした。だが少年は構わず続けた。
「なんでもそいつが言うには、俺には果たさなきゃいけない務めってものがあるんだとよ。それでこの剣はその務めが終わるまで.........」
「お願いリオス!目を覚まして!」
イリーナは最後まで聞かずに、少年の肩に手をかけて揺さぶり始めた。
「お父さんが失踪して、お母さんも病気で亡くなって....寂しいのは良く分かるわ。でも、こんなことをしたってご両親は戻ってこないのよ?お願い!正気に戻って!」
そう訴えながら、少女は涙を流し始めていた。
「私...ずっとずっとあんたのことが心配だったの。五歳のときから大叔父さんと二人暮らしで、家のことたくさんやってきて...口では何も言わなかったけど、思ってたでしょ?なんで自分だけって。とっても辛かったのは分かるわ。でも...だからってこんなことしなくたって....」
少女の嗚咽の声を聞きながら、リオスは黙然と口をつぐんでいた。
「ね...?だから...一緒に神殿に戻ろ?私、神官さまにお願いするから。リオスは反省してるから、どうぞ軽い罰にしてくださいって」
啜り泣きながら少女はそう言った。少年が何も答えずにいると、やがて部屋を沈黙が覆った。
その時だった。突如として青白い光が迸るように空中に浮かぶと、人のような形を取り始めた。
イリーナは泣くのをやめて顔を上げた。リオスもまた驚いてその光を見た。
光は瞬く間にケープを羽織った少女の姿になると、口を開いた。
『――準備が整いました。いつでも出発可能です、マスター』
二人は言葉を失ったまま、しばらく彼女を見つめていた。イリーナは少年の腕にしがみついたまま、目に畏怖と驚愕の色を浮かべながら固まっている。リオスもまた、動けずにいた。その心の中には多くの思考が渦巻いていた。
―――地上に行く?―――
―――正気なのか?―――
―――何が待っているかわからないのに?―――
そうしていると、ファイと名乗った少女が再び口を開いた。
『....出発するか否か...は、マスター、すべてあなたの決断に委ねられています。ファイはあなたのご決断をお待ちしております』
その時イリーナが耐えかねたように声を上げた。
「女神様...ほかに...ほかに方法はないんですか?本当にリオスは行かなきゃならないんですか?」
『私は女神ではありません。あなたたちと同じように女神ハイリアに仕えるために造られたしもべのひとりに過ぎません』
ファイと名乗った少女は無機質な声で訂正すると、こう続けた。
『マスターは出発しないという選択をすることもできます。出発しないことを選択した場合でも、女神ハイリアは別の方法でそのご計画を成し遂げることがおできになるでしょう』
二人がじっと耳を傾けるなか、少女の幻影はこう締めくくった。
『先ほども言ったように、決断は彼の手に委ねられています。しかし同時に、彼の運命は既に定められています。女神ハイリアの目から見てこの二つは矛盾しません。ただ、視点が異なるというだけです』
そう説明を受けたイリーナは、混乱した表情でリオスを見た。だが、その泣き濡れた目は、何かを悟ったようだった。少年は、ゆっくりと深呼吸すると、口を開いた。
「行くよ。別にあんたが命令するからじゃあねぇ。ただ.....」
リオスはそう言ったあと、言葉を探した。
「...俺は...親父がなんで出ていったかを知りてぇだけだ。別に『務め』がどうとかいうのも興味はねぇよ。やりたくねぇって思ったらやらねぇさ」
『結構です。では参りましょう』
ファイが答える。イリーナは少年の腕にかけた手に力を込めると震える声で尋ねた。
「リオス...本気なの?」
少年は黙って頷いたあと、呟くように告げた。
「...悪りぃな。折角俺のこと心配してくれてたのに。でもこれだけは分かってくれ。俺は神殿が嫌いだからとか、神官どもに追われてるから、逃げるために行くわけじゃぁねえ。親父の本当の姿を知りてぇから行くんだ」
「リオス....」
イリーナは再び啜り泣き始めた。彼女は押し出すような擦れ声でこう言った。
「必ず帰ってきて?お願いだから」
「わかった。あと、頼みがあるんだ。爺いの様子を時々見に行ってやってくれねぇか?最近身体が言うことを聞かねぇってこぼしてるんだ」
リオスが言うと、少女は涙を拭きながら請け合った。
「うん。わかった。ドシュトお爺の世話は私がするから、安心して?」
イリーナは少年から手を離した。リオスは扉に歩み寄ると、それに手をかけて開いた。外の風がたちまち吹き込んでくる。
「あぁ...忘れてた。セバルスとロドにもよろしく言っといてくれ。心配するなってな」
リオスは肩越しに付け加えた。返事を待たずに木道に歩を進めると、その縁から下を覗き込んだ。
『マスター。その袋はパラショールという道具です』
少年が剣のストラップを身体に巻きつけ、食料のポーチを腰に固定していると、ファイが声をかけてきた。
『本来であれば降下訓練を行ってから任務に出発するべきですが、あなたの場合はリハーサル抜きとなります。パニックを起こさぬよう心づもりをお願いいたします』
「ナメたこと言ってくれるじゃねぇか。俺がチビガキみたいに泣きわめくと思ってんのか?」
リオスはやや腹を立てて言い返した。だがファイは取り合わず、冷静に答えた。
『その袋を背部に固定し、両腕両脚を広げた状態で降下を開始してください。地表に近づいたら合図いたします。その合図でパラショールの把手を引っ張り、展開してください。落下速度が減速し安全に地表に降り立つことができます』
「なんだ、思ったよりちょろいモンじゃねぇか。何時間くらいかかるんだ?」
言われた通りに袋を固定しながら尋ねるとファイは言った。
『予測される降下時間は約五分ですが、姿勢保持のため相当の筋力を使いますのでそれもご覚悟を』
支度をしながらもう一度木道の縁から覗き込む。遥か下方に見える雲。その下に何があるのかも一切分からない。
急激に恐怖が込み上げてくる。呼応するように、横から吹き付ける風が強まってきた。
『全ての装備が固定できましたら、お知らせください』
ファイが相変わらず無機質に言う。リオスは額に汗が浮かんでくるのを感じた。
「....こ...こっちはいつでも行けるぜ」
辛うじて平静を装いながらも答えたが、口が回らなかった。
『了解です。では参りましょう』
ファイが手短かに応答した。だが、脚がすくんで動かない。踏み出そうとしても、言うことを聞かないのだ。リオスは口の中で罵声を発した。
「く....クソッ........」
その時、背後から声が聞こえた。イリーナの声だった。
「リオス!頑張って!私、毎日祈ってるから」
振り向くと、彼女は必死の笑顔を浮かべながら手を振っていた。リオスは急激に平常心が戻ってくるのを感じた。少年は自分も笑顔を浮かべると、片手で拳を作って親指を突き出した。
そして前方に視線を戻すと、一歩脚を踏み出した。
身体が宙に浮いた。
そして少年の身体は眼下の雲海に向かって真っすぐに落下し始めた。