『――――マスター。最悪の場合、巫女たちをのみを生かし、他の住民全てを切り捨てるご判断も必要かと』
ファイはそう言った。その声音は無感情で無機質だった。
「お..おい...ファイ。お前本気か...?」
リオスが驚愕して言う。彼女は続けた。
『ボコブリンたちは既に光の塔広場の手前で陣を張っています。その数は百を超えます。浮島に登った者たちの生き残り全てを集めたようです』
女たちも驚きと怯えを浮かべた目で少女を見つめる。少年は手を上げて相手を遮ろうとした。
「ま...待てよ。ちょっと待て。そりゃわかる。だけど....」
『彼らは組織を立て直しています。それに入り組んだ市街地と違って中心部では隠れる場所は少なく、容易には崩せないでしょう』
ファイは畳みかける。
『マスターひとりで女性たちを守り、彼らと戦って全てを退けることは極めて困難です。ですからご提案しました。墓地下の隠し部屋に逃れ、木道を落とせば誰も近づくことができませんから』
「....き...切り捨てる...って言ったよな。それ、要するに見殺しって...ことだよな」
少年は言葉に詰まりながらも呟いた。ファイは頷いた。
『はい。そうです』
「な....なぁファイ....。セバルスとロドに俺を助けるよう頼んだのはお前自身だろ?あいつらも見殺しにするのか?」
リオスが尋ねると、ファイは数瞬考えた後答えた。
『彼らには私から知らせましょう。ふたりだけなら監視下ではあっても脱出できるかも知れません』
「じゃあドシュト爺いはどうなる?」
重ねて尋ねると彼女は黙り込んだ。
「....ドシュト爺いはもう脚も思うようには動かねぇ。人目を忍んで脱出なんて無理だ。ましてや梯子を降りるとか木道を渡るとかもな。てことはお前の作戦じゃ助けられねぇ」
リオスは腕を組むと自分に言い聞かせるように確認した。イリーナも、他の女たちも不安そうな顔で二人を見ている。少年は少し考えた後、口を開いた。
「悪いがお前の作戦は却下だ。俺が...全ての鬼どもを倒す。ついでにギラヒムの野郎もな」
『しかし...マスター。その可能性は....』
「ファイ。じゃあ俺はいつドシュト爺いに謝ればいいんだ?」
そう問うとファイは再び口をつぐんだ。リオスは静かに続ける。
「それに...ファイ。俺は思うんだ。親父だったら絶対に誰かを見殺しにしたりはしねぇってな」
『―――データがありません。私がマスターの父、フロウと行動を共にしていた頃、同様の状況に陥った事例がありませんので』
「そうかい。だけど俺には分かる。なぜなら―――」
リオスはそう言うとファイに顔を近づけ、自分の胸を指さした。
「俺は、親父の息子だからだ。同じ血が流れてる。だから分かる」
少年は少し身を屈め、少女に目線を合わせた。
「なぁ、ファイ。お前、言ったよな。俺を選んだのはハイリア本人だって」
『―――はい、その通りです』
「お前、ハイリアを信頼してるんだよな?」
『―――はい、信頼しています』
それを聞いたリオスは少し微笑んで言った。
「...なら、俺を信じろ」
再び上空から竜の咆哮が聞こえてくる。風が吹き、破れていないガラス窓がガタガタと揺れた。窓の外から見える空にはいつしか灰色の雲が立ち込めている。
『――――はい。マスターを信じます』
しばらくの後にファイは言った。リオスは身体を起こすとパンと手を叩いた。
「決まりだ。作戦を練り直そう」
その時、廊下のほうからドヤドヤと人が入ってきた。助祭たちだ。ぐったりとした神官の身体を数人で抱えている。彼らは食堂の床に彼を横たえると、介抱し始めた。
「おい!あんたらは神殿のほうに避難したほうがいいぜ。この辺りは戦場になるかも知れねえ」
リオスは呼びかけた。だが、助祭たちは途方に暮れた顔で少年を見る。一人が答えた。
「だ...だけど...我々は住民皆に恨まれてる。女たちを連れ去るとき、その夫や父親たちが怒り狂って暴動寸前になったんだ」
「じゃ謝ればいいだろ。とにかく避難しろ」
だが助祭たちは互いに顔を見合わるばかりだった。
「し....しかし....」
「じゃ勝手にしろ」
リオスが言うとファイが口を開いた。
『マスター。作戦の再検討が終わりました。階段下の市場の建物に避難。三つの出入り口をすべてバリケードで封鎖。マスターは光の塔広場でボコブリンを迎え撃つ。これでいかがでしょう』
「わかった。それで行こう」
『ただし避難先に火をかけられたら終わりです。彼らを近づけないことが必須条件になります』
「了解だ」
リオスは戸に手をかけて開くと、女たちに手招きした。イリーナを始め十人ほどの女たちを外に出すと、少年はその後ろから扉を出て、階段を降り始めた。
その瞬間だった。
―――――ドオ....ンッ....―――――
巨大な衝突音が空に響く。同時にファイが口を開いた。
『―――高速で接近してくる物体を感知。速やかにここを離れることを推奨します』
それを聞いたリオスは顔を上げた。灰色に雲った空を背景に、巨大な黒い物体がこちらに近づいてくるのが見えた。
「走れ!走れ!」
少年は叫ぶと、イリーナの手を引いて階段を駆け下り始めた。他の女たちも慌てて続いた。階段を下りきった瞬間、頭上を何かが高速で通過する風圧で皆がよろめき、手で頭を覆った。
爆発のような轟音。衝撃が地面を揺らす。
「キャアッ!」
女たちが座り込み、リオスはイリーナを庇うように抱き抱える。頭上を凄まじい風が通り過ぎ、石や木の細かい破片がパラパラと降り注いだ。
目を上げたリオスは驚愕した。
さっきまで自分たちがいた神官官舎が丸ごと吹き飛んでいる。そして、それがかつてあった場所では黒い巨大な生物がうごめいていた。
竜だ。
―――――グルルルル.....―――――
その生物は唸りながら顔を上げた。リオスは反射的に剣を引き抜くと、女たちを庇うように立った。だが竜の目はリオスたちに向けられてはいなかった。彼は身じろぎし、横倒しになった身体を立て直すと、顔を上げ空を見上げた。その目はらんらんと怒りに燃えている。
その視線の先には巨鯨のようなナリシャの姿があった。
「ヘヘヘ....兄ちゃんよ、こんな老いぼれにあしらわれて悔しいか?」
老精霊の声が響いてきた。
「ケンカっつうのはよぉ、力じゃねぇんだ。アタマだよ、ア・タ・マ!」
竜は首をもたげると一声吠え、翼を広げて羽ばたいた。たちまち強風が生じたかと思うと、竜は上昇しまっしぐらにナリシャに向かって突進していった。
「今のうちだ!早く市場へ!」
リオスは女たちに叫ぶと、ファイに向き直った。
「ファイ、ナリシャの爺っちゃんに伝えられるか?市場は壊すなって」
『了解しました』
ファイが浮上していく。少年は女たちを先導して市場の建物に向かい、導き入れた。全員が駆け込む。だが後尾にいたイリーナがリオスに言った。
「私、荷物を積んで入り口を塞ぐわ」
「頼む。できるだけ厳重にやれよ」
「わかった。あんたも....気を付けてね」
イリーナが一瞬リオスを見つめた。その目には祈りのような必死さが込められていた。だが少年は相手の背を軽く叩くと答えた。
「任せとけ。また後でな」
リオスは市場の建物から離れると、光の塔の広場に目を向けた。
「よし...やるか」
* * * * * * * * * * * * * * * *
『――――マスター、ボコブリンが総攻撃を開始するまであとわずかと思われます。具体的戦術を詰めましょう』
ファイが戻ってきて言った。リオスの目の前には段差の下に街道があり、それが光の塔の広場へ続いている。その左には川が流れていた。上空の雲からはわずかに雨滴が落ち始めている。少年は広場に目をやりながら尋ねた。
「敵の装備は?弓兵の数を知りたい」
『大部分は鉈と棍棒です。弓兵は計六体』
リオスは自分の矢筒に手をやった。矢はあと五本しかない。
「塔の台座の上から弓兵を狙う。最後の一匹は飛び降りて接近戦で始末。その後は片端から斬り捨てる」
少年はそう告げたあと、ファイのほうを見てニヤリと笑った。
「袋の鼠...って言いたいんだろ?でも今回はヒットアンドアウェイはできねぇからな。逆にあいつらをできるだけ俺に集中させねぇと」
『承知しています』
彼女は答えた。上空に強い風が吹いているのか、雨雲が物凄いスピードで視界を横切っていく。遠くで再び竜の咆哮が聞こえてきた。
『―――敵が進軍を始めました』
――――ブォォォォ....ブォォォォ....――――
ファイの声と同時に、角笛の音が聞こえてきた。リオスは段差を飛び降り急いで広場を横切ると、光の塔の台座についた梯子を登り、塔の後ろ側に身を隠した。
「ファイ、あいつらの目を引き付けてくれねぇか?あいつらの上を飛び回るとか演説するとか、なんでもい」
『かしこまりました、マスター』
リオスが言うと、ファイは答えて浮上した。その身体から発する青白い光が強くなっていく。
『――――ボコブリンたちに告げます。私はハイリアに仕える精霊ファイ』
彼女は広場の上空に位置すると、口を開いた。奇妙な声だった。いつも通り無機質で平静な口調なのに、声量だけが空に響き渡るほどの大音声なのだ。
鬼どもの先陣が市街地から広場に侵入してきた。だが、ファイから発する光の強さは、もはや太陽がもう一つあるのかと見まごうほどだった。それを見た鬼どもは顔をしかめたり、手を前にやって眩しさを凌ごうとしている。
『かつては善に仕えるため造られた低級精霊であったあなたたちは、自らの役割を厭うて、ハイリアに対するかの者の反乱に乗じて堕落を選んだのです』
「...へへへ...うまいぞ、ファイ。その調子だ」
リオスは塔の陰から様子を伺いながら呟いた。広場に続々と入ってきた鬼どもは皆足を止め、ファイに注目していた。リオスの位置に気づいている者はいないようだ。
『そして、今では、奪い、傷つけ、殺すこと以外に何一つできない魔物に成り果てました。今、知りなさい。あなたがたには破滅の道のみが用意されています』
その途端、鬼どもの群れからブーイングが湧きだした。武器を振り上げ罵声と喚き声を上げる者たちの中から、弓矢を携えた個体が何人か進み出た。彼らはファイに向かって矢を射かけ始めたが、矢は彼女の半透明の身体を通過するだけで何の害も与えない。弓兵どもは首を傾げながらも再び矢をつがえて放とうとする。
リオスは塔の陰からそっと出ると、自分の弓に矢をつがえ、一番遠くにいる弓兵を狙った。静かに引き絞り、深く息を吸い、止める。
『愚かなボコブリンたち。その肉が滅び去ったあとには永遠の裁きを受けることになるでしょう』
ファイがそう言った瞬間、リオスは矢を放った。
空気を裂きながら飛翔した矢が、弓兵の側頭部に命中した。
その個体がまだ立っている間に少年は二の矢をつがえ、その次に遠くにいる弓兵を狙った。
『女神ハイリアのご計画は必ず成就します。あなたがたの頼みにしているかの者は必ず滅び去るでしょう。―――いつか現れる勇者の手によって』
ファイがそう締めくくった瞬間、鬼どもは異変に気付いた。だがまだリオスの位置には気づいていない。少年は矢を放った。飛んでいった矢が、二人目の弓兵に命中した。
その時、最初のひとりが大きな音を立てて倒れ、ボコブリンの群れが騒然となった。少年は三の矢を弓につがえた。その時、鬼どものうちの何匹かがリオスのほうを指さして喚き始めた。
時間がない。少年は三人目の弓兵を狙った。相手は慌てて弓をこちらに向けようとしている。だがリオスが先に放った。矢が相手の胸に刺さる。だが、号令が響き、残りの弓兵たちが一斉にこちらに狙いをつけて矢を放ち始めた。
「おおっ....っと」
リオスは慌てて身を伏せた。頭上を何本も矢が通過し、塔にぶち当たってけたたましい音を立てた。少年は低い姿勢のまま台座の上を移動し、塔の裏に回ると反対側からそうっと顔を覗かせた。
弓兵どもはこちらの姿を見失ったらしい。リオスは弓に矢をつがえると身体を起こし、生き残りの弓兵のひとりを狙った。
鬼どもの警告の声が上がる。三体の弓兵が一斉にこちらを向いた。リオスが放つ。矢が一体の弓兵の胸に刺さる。だが残り二体が射撃を開始した。
またもや床に伏せざるを得なかった。二体の弓兵が交互に矢を射かけてくる。少年の頭上数センチを矢が通過していった。
「クソッ...らちが明かねえ」
少年は罵ると、伏せたまま塔の後ろまで後退し、弓に矢をつがえた。塔の石材に矢が当たり、ひっきりなしに金属音を立てている。
だが、その音を聞いていたリオスは気づいた。
二人の射手の練度には差がある。一方は他方に比べると射撃の間隔が長い。
―――ガンッ....!ガンッ....!カカン...ッ!――――
二人の射手が放つ矢が塔に当たる音が次第に重なっていく。やがてそれがほぼ同時になった。
リオスはその瞬間に塔の陰から躍り出た。弓に矢をつがえ、眼下に狙いをつける。
敵方の二人の射手の姿が見えた。こちらに近づきながら弓に矢をつがえている。その姿勢はリオスとほぼ同じだった。
敵が矢を放つ。リオスも一人を狙って放った。二本の矢が真っすぐに向かってくる。
空気を鋭く裂く音。
少年は身体を半身にしながら後ろに倒れた。チュニックの胸の部分を矢がかすめ、布地が裂けたのが分かった。それと同時に鬼の悲鳴が聞こえた。
鬼どもの怒号と罵声が響き渡る。同時に、いつの間にか戻ってきたファイが言った。
『―――マスター。負傷が確認されました』
リオスは台座の床に横たわったまま思わず自分の胸を探った。手に血がついた。僅かに痛む。
再び矢が頭上をかすめる。少年は塔のほうに転がって退避した。
『裂傷レベル1。出血あり。止血措置を推奨します』
ファイの声が聞こえる。少年は塔の陰で身を起こすと、ポケットから手拭いを取り出して傷に押し付けた。剣を背中から下ろすと、傷の上からストラップをきつく巻いて固定した。
鬼どもの声が押し寄せてくる。顔を上げると、ボコブリンどもが塔の台座の梯子を登ってきていた。先頭が梯子を登り切り、台座の床に手をかけている。
「おやおや、お客さんがご来店だ!」
リオスは立ち上がるとダッシュし、相手に足蹴を喰らわせた。登ろうとしたボコブリンがたまらず墜落する。だが眼下からは生き残りの弓兵が狙ってきている。リオスは迷わず台座から飛び降りた。身体の近くを矢がかすめる。
少年は着地すると前転し、剣を抜いて鞘を投げ捨てた。弓兵までの距離はもう数メートルもない。
雄たけびを上げながら突進する。最後の弓兵は慌てて弓に矢をつがえた。だが、弦を引き絞っているうちに少年は到達した。胸に突きを喰らわせ、蹴倒す。
「さぁ、パーティの始まりだ」
リオスは周囲を見回すと言った。
* * * * * * * * * * * * *
雨が強くなり、広場の空気が一気に冷たくなった。見渡す限り、鬼、鬼、鬼。皆、鉈や棍棒を振り上げ怒りの声を上げている。
だが、リオスは知っていた。正面にいる敵はすぐには斬りかかってこないのだ。彼らは気勢を上げながらもこちらの様子を伺っている。
背後から駆け寄ってくる足音が聞こえる。予想通りだった。肩越しに振り向くと、鬼が三体ほど殺到してくる。
一人目。振り下ろされる鉈。上体を反らして躱す。体重の乗った袈裟斬りで首筋を断ち斬る。二人目。横から襲う棍棒。剣で上に跳ね上げ喉に突きを見舞った。
だが背後からの風圧。ギリギリで前転し、立ち上がる。鉈の一撃を外した鬼がたたらを踏む。ジャンプ斬りを浴びせ、回転斬りを叩きつけると、その鬼はよろよろと後ろに倒れた。
「来いよ!人数ばっかり多くても意気地なし揃いか?」
リオスは大声を上げて挑発した。その時、ファイが言った。
『マスター。ナリシャと竜が上空で戦い始めています。余波が来る確率が60%ほど....』
竜の吠え声が聞こえた。一瞬目を上げると、蝙蝠のような翼を広げた黒い影が上空を高速で横切っていく。ナリシャの一撃を喰らったのか、激しく羽ばたいて態勢を立て直そうとしていた。
「いや、ファイ、このままここで戦おう!」
少年は叫んだ。
『しかし、危険が...』
「落っこちてきたら直前で逃げるから教えてくれ!」
リオスはそう言うとボコブリンたちに向き直った。挑発に怒った鬼どもが武器を振り上げて迫ってくる。
鉈の一撃を躱す。ギリギリで少年の頭髪を切らんばかりにかすめる刃。次の瞬間にはリオスの突きが相手の胸を貫いた。身を沈め次の個体の攻撃を回避し横に剣を振り抜く。一度。二度。鬼の脇腹と首筋から血が噴き出る。
鉈を躱し、また剣で斬り上げる。棍棒を回避し、斬り下げる。周囲を包囲する鬼どもが一人また一人と倒れる。だがその後から次々押し寄せてくるボコブリンたち。
『マスター。上空からの落下物を感知。衝突まであと三秒』
ファイが言う。リオスは叫んだ。
「場所は!?」
『現在地から五メートル周辺。退避推奨』
少年はダッシュした。正面の鬼どもが武器を突き出してくる。剣を払って弾くと、リオスは遮二無二走った。
―――ドシィッ....ンッ!―――
背後に重い何かが落下し、衝撃と振動が走る。立ち止まって振り返ると、竜の尻尾がバウンドし、その周囲に鬼が何人も倒れていた。
「――――気分はどうだ、竜の兄ちゃんよ?」
上空からナリシャのからかうような声が聞こえてくる。
「まさか尻尾を噛みちぎられるとは思わなかったろ。え?卑怯だってか?」
見上げると、老精霊の巨体が見えた。その口から黒い血がしぶきのように垂れてきている。その向かい側で竜が痛みにあえぐように吠え声を上げていた。ナリシャがまた言った。
「ケンカに卑怯もクソもねぇんだ。覚えときな!」
広場に落ちた竜の尻尾は、独立した生き物のようにバタバタと暴れている。無事だった鬼どもが数匹、横ざまに張り倒されて吹き飛んだ。リオスは苦笑しながら剣を構え直した。
――――爺っちゃん、なんつうエグイ手ぇ使うんだよ―――
動転した鬼たちに向かって少年は悠々と歩み寄った。気を取り直した個体が鉈を振り上げた。ギリギリで躱し、一刀のもとに首を刎ねた。隣の鬼がやけくそになって突っ込んでくる。身体を半身にして足払いをかけ、背中から三度刺してとどめを刺す。
いよいよ雨が激しくなってきた。同時に横殴りの風。
『マスター。雨による視界の悪化、聴覚の攪乱が懸念されます。ファイがサポートを...』
「大丈夫だ。必要ない」
リオスは動き回るのをやめ、周囲に鋭く目を配りながら下段に構えた。石畳に溜まった水を跳ね除けながら襲ってくる足音。音がした瞬間に振り向き、斬撃を躱し、斬り捨てる。また一人。また一人。そしてまた一人。
だがその時だった。
――――ズシ...ンッ....――――
遠くから地響きが聞こえてきた。数秒遅れて、不気味な振動。
リオスは思わず顔を上げた。ボコブリンたちまでもが、戦うのをやめ、周囲を見回している。
『マスター。浮島の基部に強い衝撃が加わりました。原因は不明。現在調査中...」
――――ズシ...ンッ....――――
再び地響きが起き、振動が襲ってきた。
『マスター。浮島周縁部からこの近辺に向け亀裂が生じ始めました。広場からの退避を推奨.....』
ファイの声が聞こえた瞬間、広場全体が沈むように揺れた。
石畳が波打った。雨水が跳ね、ボコブリンたちが一斉によろめく。
「おいお前ら聞け!...ちぃと厄介なことになっちまった!」
上空からナリシャの声が響く。
「竜の野郎タイマンではおいらに勝てねぇってわかってから作戦を変えやがった。この浮島そのものをぶっ壊す気だ!」
リオスは足を踏ん張りながら叫んだ。
「爺っちゃん!喰いとめてくれ!」
「言われるまでもねぇ!だがおめぇも鬼どもと遊んでねぇで避難しろ!」
ナリシャは言うと、猛スピードで飛び去った。少年は尋ねた。
「ファイ!亀裂の位置はどこだ!」
『――――広場南側の街道沿いに沿って亀裂が進行中。広場の南側にも崩落が生じる見込み』
目を上げたリオスは息を呑んだ。広場の向こう側の市街地がまるで布のように裂けていく。地面が沈み、建物の壁が崩れていった。
それだけではなかった。広場の端も崩壊を始めた。遠くにいたボコブリンが何体か悲鳴を上げながら落下していく。
――――ズシィ……ンッ……!――――
再び地響き。今度は広場の中央にまで亀裂が走った。
鬼どもが恐怖に駆られ、怒号ではなく悲鳴を上げ始める。
リオスは剣を構え直しながら、ファイに怒鳴った。
「ファイ!崩落の進行速度は!」
『――――加速しています。浮島の基部に連続して加わっています。このままでは広場全体が……』
――――ドオオオオオオオオオッ!!――――
ファイ言い終わる前に、衝撃が、まるで雷鳴のように浮島全体を揺らした。
広場の中央が大きく沈み込み、石畳が崩れ落ちていく。ボコブリンが何十体も、地割れの中へ吸い込まれるように落下していった。
『マスター!崩落がこちらへ向かっています!塔へ退避してください!』
リオスは走り出した。背後では、広場の石畳が次々と崩れ、鬼どもが悲鳴を上げながら落ちていく。少年は塔の台座に辿り着くと急いで梯子を登った。
雨が激しく降りしきり、空は灰色の渦のように回っていた。
「坊主!坊主!頼みがある!」
その時、ナリシャの声が近づいてきた。顔を上げると、老精霊の巨体が低空に降りてきている。
「あいつぁ逃げ足が速ぇ。おいらが追い立ててここに連れてくる。おめぇの弓矢で一瞬だけ足止めしてくれ!一瞬だけでいい」
「わかった、爺っちゃん!」
リオスは剣を収め弓を背負うと、台座の上に落ちていた矢を拾い、口にくわえて塔の梯子を登った。二十メートル以上もある塔を登り切るとその頂上で弓に矢をつがえ、身を低くした。
もはや広場は真っ二つになっていた。裂けた向こう側の地面が、少しづつこちらから離れていっている。眼下にいる鬼の生き残りももはや戦いどころではなく、右往左往して逃げ回っていた。
竜の吠え声が聞こえた。それがみるみる前方から近づいてくる。目を上げると、翼を広げた黒い影がこちらに接近してきていた。その背後を巨鯨のようなナリシャが追っている。
リオスは腰を浮かせながら弓の弦を引き絞った。竜が再び吠える。横殴りの雨が降るなか、距離が縮んだ。
だが、少年は違和感に気づいた。
竜の胸のあたりにオレンジ色の炎が浮かび上がっている。羽ばたきながら彼は口を開けた。口の中にも炎が満ちている。
――――まずい!――――
リオスは直感した。急速に接近してくる竜。その顔、表情が見えた。残忍そうな目がニヤリと笑っている。
それと同時に、牙だらけの竜の口から炎が噴き出た。こちらに奔流のように押し寄せてくる。
リオスは反射的に横跳びした。身体の横を高温の炎が通過していく。
両足が支えを失う。下には何もない。いや、広場がある。だが二十メートル以上も下だ。
竜が目の前に迫っている。その両脚の凶悪な爪が大きく開いている。
だが、少年はそのまま弓を引き絞り、相手の頭に狙いをつけ、放った。
空気を裂く音。矢が真っすぐ飛んでいき、竜の顎の下に刺さった。
―――ギエェェッ!―――
竜は唸り声を上げると、黒い首をうねらせて矢を振り落とそうとする。
「おぉら、追いついたぜ!」
一瞬速度を緩めた竜の背後上方に、ナリシャが迫る。
だが、その頃には少年の身体は落下を始めていた。
――――このままじゃ―――――
その時だった。ファイの声が聞こえた。
『―――マスター!パラショールの開傘を!』
「どっせぇいッ!」
巨鯨の尾びれが竜の背中に強烈な一撃を叩きつける。竜は猛烈な勢いで床に衝突した。
衝撃音で我に返ったリオスは手を伸ばし、背中から背負ったパラショールの把手を引いた。
空気を一気にはらんだパラショールが勢いよく開いた。落下の速度がわずかに緩み、少年は床に落下すると横に転がって衝撃を逃がした。
「いてて...命拾いしたぜ」
リオスは立ち上がるとパラショールを投げ捨て、肩や腰をさすった。軽い打ち身で済んだようだ。
目の前には、巨大な竜が横たわっている。まだ生きているが、その動きは弱々しい。
「ったく手こずらせやがって...おい坊主!おめぇ止め刺すか?竜殺しって自慢できるぜぇ」
ナリシャが上空から声をかけてくる。リオスは苦笑いすると首を振った。
「自慢は別にいいよ、爺っちゃん。でも、早いとこ片づけるのは賛成だぜ」
少年は剣を抜くと、だらりと頭を垂れた竜に近寄っていった。竜は片目を開いてリオスを見た。だがもはやその瞳は濁っている。
頭部の前で逆手に剣を持つと、額に突き立てた。三度ほど試して、やっと刃が徹った。剣を抜くと、竜は断末魔の悲鳴を上げながら首を反らせ、そして翼を震わせながら息絶えていった。
雨が急速に止み、雲が晴れていく。空を見上げると、ナリシャが口を尖らせて雲に息を吹きかけている。雨雲がみるみるうちに吹き散らされていった。
周囲を見回すと、鬼どもはいなくなっている。リオスは叫んだ。
「ファイ!敵はあとどれくらいだ!」
『ゼロです。パニックを起こして逃げているうち亀裂から墜落した模様』
返事が返ってくるとリオスはふうと溜め息をついた。目を上げると、広場の先にあったはずの市街地が遠くに離れていく。浮島そのものが割れたのだ。
「やっと終わったか....しっかしヒデえ有様だな」
少年が呟いたその時だった。
―――――パチンッ。
乾いた指の鳴る音が、不気味に響いた。
リオスは反射的に振り返った。
そこに立っていたのは体にぴったりと貼りついた白い衣装と赤黒いマントを纏った若い男。そしてその傍らには、少女がいた。
それはイリーナだった。
若い男は、少女の肩に手を置くと、薄く微笑んだ。
「――――見事な戦いぶりだったよ少年。君の年齢にしてはね。それに幸運にも恵まれたようだが」
忘れもしない。ギラヒムだ。そして彼はもう一度指を鳴らした。途端に刃の反った剣がその片手に握られた。
「さあ、武器を捨てたまえ。罪のない少女を傷つけたくなければね」