新たな務め
「ただいまぁ。おい帰ったぞ、爺い」
ある日の夕方。リオスが家の扉を開け、手に持った農具を土間に放り出すと、家の奥から少女が走り出てきた。
「お帰りなさいリオス。今晩御飯にするからね」
それはイリーナだった。少年に微笑みかけると、すぐにエプロンを身に着け、竈に薪を足して火を熾し始めた。すると鍋から湯気が立ち昇る。
「おぉリオス。ご苦労だったのぉ。お前ひとりにやらせてしもうて。骨が折れたじゃろ」
食卓についていた老人が言った。
「別にどってことねぇよ。身体動かすのはもう慣れたからな」
少年は肩を回すと、洗い場で顔を洗って水を一杯飲んだ。
「それはそうとイリーナ、お前また来てたのかよ。爺いの世話なら俺でもできるのによ」
リオスが呟くと少女は鍋を掻き混ぜながら振り向いて答えた。
「でも、あんたが旅に出てた間はずっと私が世話してたのよ?慣れちゃったし、ドシュトお爺も喜んでくれてるから」
「そうなのか、爺い?」
少年がコップを手にしたまま尋ねると老人は喜びを隠し切れない顔で呟いた。
「いやぁ...イリーナは、お前と違って気が利くからのぉ」
「ヘッ...若い女の子に世話してもらうのが嬉しいんだろ。このスケベジジイが」
「いや....ワ...儂はそんなつもりでは...........」
リオスが毒を吐くと、老人は慌てて手を振って否定した。だが、それでもその皺だらけの顔からはニヤニヤ笑いが去らなかった。
やがて少女が三人分の食事を配膳した。
「リオス、祈って」
イリーナが言う。
「お...俺?」
少年は驚いて目を丸くしたが少女が促すので結局言われた通りにした。しどろもどろでどうにか祈りを終えると、三人は食事を始めた。
「お前、日が暮れたのに家に戻らなくっていいのかよ」
「大丈夫よ。だって親にもちゃんと言ってあるし」
リオスが尋ねると、彼女はまた微笑んで続けた。
「それになんかこの家の台所慣れちゃった。自分の家みたい」
「勝手知ったる他人の家か?ま、俺は助かるからいいけどよ」
「ねぇ、代りと言ったらなんだけど、今度私の家に来てくれる?」
「ぁ..えぇ?なんでだよ」
それを聞いたリオスは面食らって尋ねた。心臓がドキンと鳴るのを感じた。
「実はね、こないだの大騒ぎで家の屋根に穴が開いちゃったの。雨は降らないから大丈夫って言えば大丈夫なんだけど、いずれ塞がなきゃと思って」
「...な...なんだ。そんなことか。お安い御用さ」
食事が済むとイリーナは立ち上がった。
「じゃあ...私は帰るね。また明日」
「あ...明日...か。おう。明日..な」
リオスは挨拶を返しながらも、少女を送って外に出た。
「家まで送るよ」
「そんなの大袈裟よ。だってもう魔物はいないんでしょ?」
「そ...そうだけどよ...」
「じゃ、真ん中あたりまで送って?」
そんな会話をしながら二人は夕暮れの町を並んで歩いた。
ゆっくりとした歩調で歩きながら、頭上に広がる茜色から濃い群青色に移り変わる空を見上げる。星が瞬き始めていた。
「いい空だな」
「...そうね」
途端に会話が途切れた。少年は戸惑った。幼馴染で、共通の友人も多く、相手の家庭も知っている。話題なんていくらでもあるはずだった。
だが言葉が出てこない。
心臓が苦しい。深く呼吸ができない。
――――な...なんなんだよ、これ――――
リオスは困惑しながら歩き続けた。時折、イリーナは少年の顔を見上げてきた。そしてふと笑顔を見せると、また前を向く。
散歩はあっという間に終わった。少女はリオスの前に立つと、手を後ろに組んで言った。
「...送ってくれて..ありがと。じゃね」
「ああ」
イリーナが去っていくのを見送りながら、少年は首を振った。
「俺...ヘンだよな。絶対」
胸に手を当てる。まだ締め付けられるような痛みがある。
――――告白は早く、よ。迷っちゃダメ――――ー
唐突に、言葉が脳裏に浮かんできた。
地上で一緒に戦ったゴロン族の女戦士リメイラの言葉だった。
――――距離を縮めてからなんて悠長なこと言ってないで――――
耳の中に再び言葉が響く。だがリオスは途方に暮れて呟いた。
「そ...そんなこと言われたってよぉ....」
* * * * * * * * * * * * *
「よし、こんなもんでいいか」
翌日の昼下がり。リオスは板葺きの屋根の上で立ち上がって額の汗を拭いた。
顔を上げると、広々としたカボチャ畑の向こう側が唐突に切れて崖になっている。精霊ナリシャと竜との戦いの余波で生じた亀裂だ。
だが空は晴れ渡っている。崖の向こう側は見渡す限り白い雲だ。
「リオスぅ!お祖母ちゃんがクッキー焼いてくれたから。来て!」
下からイリーナの声が聞こえてきた。
「おう、悪りぃな」
少年は返事をすると、道具を纏め、脚立を伝って地面に降りた。
家に入ると、食卓の上に菓子が並べられている。
「すまないねぇリオス。あんたも自分の畑仕事があるだろうに」
台所にいた老女が声を掛けてきた。口から湯気を上げたポットを運んでいる。
「いいってことよ、イリーナにいっつも手伝ってもらってるからさ」
少年は微笑むと食卓についた。並んだ菓子は大ぶりなクッキーだ。
「ヘヘヘ...じゃ早速いただくとするか」
「私も。頂きます!」
イリーナも隣に座を占めて菓子に手を伸ばした。
「うめぇ。この味はうちじゃ作れねぇな」
「じゃ私が覚えて今度焼いて持って行ってあげるから」
少年が声を上げると、イリーナも応じた。それを笑顔で見つめていた老女は、やがて改まった様子で口を開いた。
「ねぇリオス。あんたに.....話さないといけないことがあってね...」
「な..なんだよ祖母ちゃん」
クッキーを頬張りながら、リオスは目を丸くした。老女はやや沈んだ表情になると続けた。
「あんたの母親のことさ。今までずっと黙ってたんだけど、もう頃合いだと思ってね...」
* * * * * * * * * * * * * * * *
「巫女の...血筋?」
リオスは口元にティーカップを運ぼうとしてその手を止めた。老女は自分のカップを置くと言った。
「あんたの母親は孤児だったからね。最初はあたしらも気づかなかったもんさ。でも、間違いなかったよ。遠縁ではあっても、あたしら巫女の一族の血縁だったのさ」
「そ...そうなのか...」
老女の説明に、少年は呟いた。
「それって...先祖をずっと辿れば...ってことだよな」
――――もしも俺とイリーナが近い親戚だったら...――――
胸中に心配が浮かんできたリオス。すると老女は答えた。
「もちろんそうさ。共通の先祖は何代も前のことだよ。でもそれだけじゃなく、はっきり分かることがあってね」
老女は少し言葉を切ると、こう言った。
「あの子は...リナハは『夢見る者』だったのさ」
「『夢...見る者』?」
「そうさ。未来のことや、遠く離れたところで起きたことを夢に見るのさ。あたしら巫女の一族はその能力のせいでよく気味悪がられたものさ。だから、家族や仲間以外にはよほどのことがない限り、夢の内容は話さないのさ」
「そ...そうだったのか....」
説明を聞いて少年は口をつぐんだ。母から、夢の話を聞いたことなどは一度もなかった。
「でもね...リナハは...あんたの父親がいなくなって、あの子自身も病気に倒れたとき、あたしらに話してくれたんだよ。あの子が見た夢の内容をね....」
老女の言葉を聞いたリオスは思わず身を乗り出した。
「....ど...どんな夢だ?教えてくれ」
イリーナも真剣な顔で耳を傾けている。老女はしばらく言葉を切ると、また口を開いた。
「.....あの子は言っていたよ。あんたが生まれる前くらいから、地上に魔物が溢れ返る夢を何度も見るようになったって。それで、つい夫であるあんたの父親にそのことを話してしまったっていうのさ」
老女は悲し気に溜め息をつくと、言葉を継いだ。
「...それからというもの、あんたの父親は毎日のように真剣な顔をしてひとりで考え事をしていたらしいねぇ....。でも、リナハは...あの子は...亡くなる前にこう言ってたよ。『夢の内容を話しさえしなければ、私の夫は今も傍にいてくれたはず』ってね」
「そ...それってつまり、親父は地上が魔物で溢れ始めたことを、お袋の夢で知った...ってことなのか?」
少年が尋ねると、老女は首を縦に振った。そしてまた言った。
「...そして、あんたが五歳の頃のことだよ。あの子は...リナハは見てしまったのさ。地上に降りたあんたの父親が....死ぬ....夢を」
「なッ.....」
リオスは絶句した。そして顔を伏せた。老女は静かに溜め息をつくと、両目を指先で拭った。
「だから...あたしらは不憫でならないのさ。あんたの母親が言うのを聞いて.....『自分のせいで愛する人を死に追いやってしまった』って...『最後までそのことだけが悔やんでも悔やみ切れない』って....」
少年は言葉を失ったまま茫然と前を見つめた。老女は小さな声でこう締めくくった。
「あの子はいまわの際、息子が小さいうちはこのことは言わないでくれろ、とあたしらに遺言してねぇ。でもリオス...あんたも一人前の男になったから、もう聞いても大丈夫だろうと....」
その瞬間だった。傍らにいたイリーナがわっとテーブルに突っ伏して慟哭し始めた。
少女は背中を激しく震わせ、感情を爆発させるように泣きわめいている。少年は呆気にとられつつも、彼女の背中をさすりながら言った。
「お...おいイリーナってばよ。お...お前がそんなに泣くとこか?」
「だって....だって.....」
激しくしゃくり上げながら、イリーナが言った。言葉にならない声だった。老女が茶をもう一杯入れ、少女に飲ませると、彼女はようやく落ち着いた。
「な...もう泣くなよ。過ぎたことだからよ」
リオスは言った。イリーナは頷きながらもまだ肩を震わせ、手で目尻を拭っていた。
「なぁ祖母ちゃん。それにイリーナ.........」
少年はイリーナが落ち着いて少しすると口を開いた。
「確かに...悲しい話だけどよ。でも、俺は....思うんだ」
彼は窓の外に目をやると言葉を継いだ。
「俺、親父の足跡を辿ったから、わかるんだ。親父は自分の戦いを最後まで戦い切った。だから、悔いはないと思う。お袋のところに生きて戻れなかったのは残念だけどよ」
リオスは続けた。
「それに...お袋もひとりの男をそこまで愛し抜くことができたんなら....長生きはできなかったけど、良い人生ではあったんじゃねぇのか?」
老女は黙って微笑んでいる。イリーナはまだ時折啜り上げていた。
「それに...今頃二人とも天国でイチャイチャしてんじゃねぇの?わかんねぇけど」
リオスがおどけて言うと、やっとイリーナは笑顔を見せた。すると、戸口が開いて農具を抱えた男たちが二人入ってきた。
「おお!リオスじゃないか」
「あ...ども。お邪魔っす」
「お父さん、お兄ちゃん、リオスに屋根直してもらったわ」
「す...すまねぇなあ、リオス。俺たちでやろうと思ってたんだが...」
イリーナが言うと、リオスより五つほど上の青年が答えた。すると少女は言った。
「違うの。お祖母ちゃんが、リオスにどうしても話したいことがあるから連れて来いって。その口実に頼んだだけだから」
「どっちにしても軽いモンっすから。気にしねぇでくださいよ」
少年が立ち上がろうとすると、男たちは目の前に来て彼の両手を握った。少年はギョッとして尋ねた。
「なっ...なんすかッ?」
「リオス。ありがとう。俺たちが守れなかったイリーナを、お前が守ってくれて...」
イリーナの兄が言うと、その父がこう続けた。
「こんなこと言うのはなんだが....これからも娘を頼む。お前なら安心だ」
「い...いや...そ...そんなこと言われても....」
「ちょっとお父さん!変なこと言わないで!」
すっかり笑顔を取り戻したイリーナが叫ぶ。しばらく笑い声が続いたあと、ようやくリオスは言った。
「じゃ...俺はこのへんで」
「うちで晩飯も食べていきゃいいじゃないか。イリーナがしょっちゅう呼ばれてるんだろ?たまにはお返しさせてくれ」
イリーナの父が言うと、少年は遠慮がちにこう返した。
「いや。ちょっと用事があるもんっすから」
「用事?どこに行くの?」
少女に尋ねられると、彼は躊躇ったあと小声で言った。
「...神殿さ」
* * * * * * * * * * * * * * * * *
「た...大した用事じゃねぇんだよ。この剣を返すだけさ」
太陽が傾き始めるなか、リオスは神殿へ通じる階段を登りながら左手に握った鞘入りの剣を示した。イリーナがその少し後ろをついて階段を登る。
「ううん。あんたが神殿に行くんだったら私も一緒に行かなきゃ」
「な...なんでだよ?」
「なんでもよ。だって嬉しいんだもの。私、感謝の祈りをしたいの」
「へぇ...」
階段の横にあったはずの神官官舎は綺麗さっぱり消え、更地になっている。少年は階段の後半を登りながら、生唾を呑み込んだ。
「こ...これってもう完全にデートじゃねぇ?」
「リオス、何か言った?」
「い...いや、なんでもねぇ」
階段を登り切ると、ふたりは神殿の石塀に開いた入り口をくぐった。その先にあるのは女神像だ。
「一週間ぶりね。あれからもうそんなに経っちゃったなんて信じられないわ」
イリーナが何気なく言った。リオスも答えた。
「そうだな。みんな大忙しだったもんな」
中庭を横切り、女神像の足元まで行った。
「でも剣を返すって....どこに返すの?」
「ここさ」
少女に尋ねられるとリオスは像の台座を指さした。不思議なことに、ふたりがその目の前まで辿り着くと、台座の正面に人が通れそうなほど大きな穴が開いているのが見えた。
「こんな入り口があったなんて知らなかった....」
少女が驚いて立ち止まる。リオスは躊躇わず台座の内部に足を踏み入れた。
「急ごう。日が暮れると面倒だ」
短い通路を抜けると小部屋に出た。まだ表から射し込む光があるお陰で、内部の様子が見えた。奥に祭壇らしきものがあり、部屋の中央には低い四角形の台座がある。
「確か...この辺だ」
リオスは剣を抜くと台座の中央にあるスリットにゆっくりと突き刺した。
「...よし、これで完了だ。帰ろうぜ」
少年がそう言って顔を上げた瞬間だった。青白い光が宙空に現れたかと思うと、みるみるうちにそれがケープを纏った少女の姿をとった。
「ファイ...」
リオスは驚いて声を上げた。イリーナが畏れを感じたかのように一歩下がり、片膝をついた。
『―――マスター....いえ、リオス。あなたは務めを立派にやり遂げました』
ファイは浮遊したままそう言った。その顔は以前と変わらず無表情だった。だが、声には心なしか感情が籠っているように聞こえた。
『巫女の血は守られ、浮島は保たれました。世界は救われました。礼を申し上げなければなりません』
「いや、礼を言うのは俺のほうだよ。ファイ。お前が導いてくれたその旅のお陰で俺は男になれたんだから...」
少年が答えると、ファイは軽く手を差し伸べてこう言った。
『それはあなたがハイリアのこころに忠実に従ったからです。それが、あなたの元々持つ勇気を引き出したのでしょう』
「...そんなもんかな。お前や仲間たちに会えなくなるのは寂しいけど、一生忘れねぇよ。お前のことも」
一抹の寂しさを顔に浮かべながらリオスがそう言って踵を返そうとすると、ファイはまた口を開いた。
『―――リオス。あなたにはいまひとつの務めがあります』
「えっ....」
少年は耳を疑い、絶句して立ち止まった。
「な...なんだよ務めって。もうやるこたぁ全部やったよな?」
『まだあります。それは.....................』
ファイは少し間を空けてから続けた。
『結婚し、子をもうけることです。ハイリアは、あなたの胤から勇者を起こすことを決められています。ですからこれが今後のあなたの務めとなります』
「け...結婚?子ども?んなこと言ったってよぉ....」
リオスは困り果てた表情で頭を掻く。
「俺まだ十六になったばっかだぜ。自分の家さえねぇのに結婚なんて...」
『存じています。ですが、この務めは非常に重要です。必ず行ってください』
「で..でも相手あってのことだしなぁ....」
いつもの冷厳な調子でファイが畳みかけてくる。リオスは溜め息をついた。
その時だった。
イリーナが立ち上がり、前に進み出てきた。
「ファイさま。その務め、私にお任せください」
少年はそれを聞いた瞬間、またも耳を疑った。驚きに口を開ける以外のことはできなかった。
「...え...?え...?イリーナ...お前いま、なんて...」
『―――イリーナ、あなたの申し出、嬉しく思います』
するとファイが答えた。
『あなたも巫女の血を引く身。今私にもはっきりと分かりました。勇者の血と巫女の血はこのようにゆるやかに交わり、また離れ、そしてまた交わるのでしょう』
彼女は高く浮かび上がると、片手を高く掲げた。その発する光がますます強くなった。
『リオス、あなたの父は巫女の血を引くあなたの母を救い、あなたは巫女の血を引くイリーナを救いました』
ファイの右手の前に画像が浮かんだ。それを見てリオスははっと息を呑んだ。
懐かしい父の顔。優しく微笑む母の顔。
『――――これは、将来起こるべきことの『型』です』
ファイはそう言うと、一層強い光を発し、そして唐突に姿を消した。
* * * * * * * * * * * * * * *
リオスとイリーナのふたりは女神像の台座から出て、中庭を歩いた。
どちらも口を開かなかった。
特に、少年は自分の思考を言葉にできないほど混乱していた。
――――――新たな務め?――――――
――――――それをイリーナが?――――――
だが、神殿の敷地を出たところで、イリーナが立ち止まった。
神殿の出口を出ると、眼下の風景が一望できた。
浮島は、いまや当初の五分の一程度の大きさだ。市場の建物の向こうに光の塔の広場があるが、それは半分ほどに断ち切られている。
塔の脇を流れていたはずの清い川は、そこから滝となって流れ落ちていた。
太陽が傾き、全てのものが橙色に染まっていく。
「...ご...ごめんね。私、ヘンなこと言っちゃったかも...」
少女は遠慮がちに口を開いた。少年は何かを言おうとしても言葉が出ない。やっとのことでこう返事をした。
「え?....ヘンなことって.....」
「ヘンよね。私があんなこと言うなんて。だって将来誰と一緒に生きるかはリオスが決めることだもの」
イリーナは前を向いたままそう呟いた。
だがリオスは腹の奥底から何かの感情が湧いてくるのを感じた。
――――お...俺は...もう....決めたんだ―――
「ごめんね。もしあんたが嫌だったらこのことは忘れて?」
「い...いや...ちょっと待てって...その...なんつうか」
少年はイリーナの肩に手をかける。その肩は小さく震えていた。
少女は振り向いた。そして微笑んだ。だがその両目から涙の筋が流れ落ちてきた。
「私ね...。あんたがこうやって生きてここにいてくれるだけでうれしいの。だって...私何度も夢に見たから...」
「夢...?」
するとイリーナの頬にみるみるうちに大粒の涙が流れ始めた。
「怖かった....ずっと怖かったの...。あんたが地上を旅している間、毎晩怖い夢ばっかりで....」
イリーナはそう言いながら手で顔を覆う。少年は茫然として相手の身体を支えた。
少女は途切れ途切れの声で話し続けた。
「あんたが数え切れないくらいの魔物に取り囲まれてる夢とか....物凄い大きさの化け物と戦ってる夢とか....縄で縛り上げられているところとか....。その度に私、夜中でも叫びながら起きたの。だから...だから....」
――――お...俺は...もう....決めたんだ―――
リオスの心の中に激しい渦のようなものが生まれ、それがみるみるうちに込み上げてきた。
「だから....私祈ったの。神さま、リオスを生きて戻してくれたら、私....どんなことでもしますって」
「イリーナ」
相手がそう言った瞬間、少年は意を決した。彼は少女の両肩を支え、その目を見つめながら口を開いた。
「俺、お前のことが.............」
ゆるやかな夕暮れの風が吹き抜けていく。少年は絞り出すように残り三つの音節を口にした。そうしてしまうと、まるで魔物との凄絶な戦いを終えたあとのように力が抜けてしまった。
だがそれは相手も同じのようだった。
少女もまたリオスの顔を驚いて見つめ、そして微笑み、それから手で涙を拭い、
自らの身を預けるようにして少年の胸の中に飛び込んできた。
――――この娘が...おれの『務め』なんだ....な――――
リオスはそう念じながら、いつまでも少女を抱きしめていた。