地上へ降りた少年
リオスが木道から一歩脚を踏み出すと、身体が宙に浮いた。
そして少年の身体は眼下の雲海に向かって真っすぐに落下し始めた。
すると、横ざまに吹く強風で身体が煽られ、服の裾が激しくはためいた。少年の身体はたちまち制御を失い、木の葉のように吹きまわされた。
リオスは思わず叫んだ。
「うわ....うわ.....うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
『マスター。身体を水平にし、両腕両脚を広げて下さい』
ファイと名乗ったあの少女の声が耳の中で聞こえた。
だがリオスはそれどころではなかった。
口から勝手に悲鳴が噴き出してくる。
身体がグルグルと回転している。眼下に真っ白な雲が見えたかと思えば、今度は途方もなく巨大な岩の塊に入れ替わる。
どちらが上でどちらが下かも分からない。
『繰り返します。身体を水平にし両腕両脚を広げ、落下姿勢を安定させてください』
再び声が聞こえる。だがリオスは聞いている余裕がなかった。
「ヒイイイイイイイ!死ぬ!これ死ぬ!死ぬよ!」
涙が込み上げて来る。恐慌状態だった。酷い吐き気もした。
『浮島の真下は乱気流が生じやすいため、落下姿勢がとりづらいのは理解できます。ですが、既に高度を五百メートルほど下降しているため、乱気流の影響は無くなっているはずです』
ファイが言う。その口調は腹が立つほど平静だった。
「馬鹿!悠長なこと言ってる場合かよ!何とかしろ!」
リオスは叫んだ。だが、ファイは一向に慌てた様子もない。
『マスター。私は物理世界に直接干渉する能力を制限されていますから、それはできかねます。先ほど説明した通り、両腕両脚を広げ落下姿勢を安定させてください』
その時だった。
父の声が頭の中で聞こえた。
―――リオス。深呼吸しろ―――
唐突に幼い頃の思い出が蘇った。
転んだとき。大事なものを落として壊してしまったとき。
そんなとき父は決まって、深呼吸しろ、と言ったものだ。そうすれば大抵のことは乗り越えられる、と。
リオスは深呼吸を試みた。だが凄まじい風圧が顔を襲う。そこで少年は両手で口を覆った。
一度。二度。三度。ゆっくりと胸いっぱいに呼吸すると、どうしたわけか自然に身体が安定し、彼はうつ伏せの姿勢で落下し始めた。
両脚を、次いで両腕を広げる。視線を落とすと、いつの間にか雲海を抜けたようだ。眼下には一杯に緑が広がっている。
『上首尾です、マスター。姿勢が安定しました。開傘地点までこのままの姿勢を保って下さい』
ファイが言った。余裕を取り戻したリオスは眼下の風景を観察し始めた。巨大な樹木群。その間から覗く荒々しい岩肌。
眺めていたリオスの背筋に軽い戦慄が走った。
平坦で平和な故郷の風景とは全く様相が異なる。
風景そのものが、人間の安易な立ち入りを厳しく拒んでいるかのような表情を醸し出している。
「....ファイ。まだか?」
リオスが尋ねると、ファイは答えた。
『あとわずかです。合図したら両脇から出ている把手を引っ張って保持して下さい』
少年は頷いた。眼下の森が近づいてくる。だが、一本一本の木が途方もなく巨大なのか、数秒間経過しても距離があまり変わっていないように見えた。そのときファイが言った。
『今です。開傘してください』
リオスは手を伸ばすと背中に背負った袋から飛び出た把手を引っ張った。
その瞬間、袋から布が勢いよく飛び出して広がった。そしてそれが一杯に風を孕み、ボンッと音を立てた。手に強い衝撃が走る。それと同時に落下速度が一気に落ちた。
「....た...助かったみてぇだな。あぁ良かった....死ぬかと思ったよ」
少年は溜め息をつき、片手で額の汗を拭きたくなるのを我慢しながら呟いた。するとファイが澄まして答える。
『マスターの命が保たれたのはあのイリーナという少女のお陰です。彼女は私が夢で示したとおり忠実に作業しましたから。彼女に感謝すべきですね』
「そ...そうか。じゃあいつかまた会ったらお返ししねぇとな」
そう言うと、リオスはゆっくりと落下しながら眼下の森をもう一度見た。
「なあ、これって木の枝に引っ掛かったりしないのか?」
『落下地点は封印の地です。じゅうぶんなスペースが用意されています』
ファイが答える。やがて高度が下がると、屹立する巨木の群の間から緑の芝生の生えた空き地が顔を覗かせた。
もはや地表は近かった。巨木の頂上の辺りを通り過ぎると、リオスは自分がいま人工的に掘削されてできた盆地の上にいることに気づいた。
盆地の中央に向かって落下していくと、剥きだしの岩壁が周囲に見える。どうやら渦巻状に掘られているらしく、底から螺旋状に登っていく通路が形成されている。その頂上には石造りの建物があった。
数秒すると、リオスは地面に降り立った。しばらくの間脚で重さを支えるのを忘れていた少年は思わずよろけたが、どうにか踏みとどまった。
風を孕んでいたパラショールが萎んで背後にバサリと落下する。少年は覚えずして顔を上げ、周囲を見回した。
百メートルはあろうかという巨木が無数に屹立している。そして、あちこちに鳥が飛び交っている。どれも、故郷では見たこともないような彩りの羽をしていた。
そして、何よりもその場の雰囲気が異質だった。
そこにあるのは、飼いならされた家畜でもなく、整備された畑や森でもない。荒々しい手つかずの生命たち。
リオスはゴクリと生唾を呑み込んだ。
「....なんかヤバそうなとこに来ちまったな....」
* * * * * * * * * * * * * *
『マスター。マスター。応答して下さい』
リオスが顔を上げ我を忘れて風景を見ていると、ファイと名乗った少女の声が聞こえた。
「...ごめん。聞いてなかった。いまなんつった?」
少年は慌てて答えた。すると目の前に彼女の姿が浮かび上がった。
『マスター。パラショールを畳んで下さい。他の場面でも使用する可能性がありますから』
「あ...そ...そうか」
リオスは地面を見やると、両手で布を手繰り寄せ、背中から下した袋に押し込もうとした。
『違います、マスター。それでは次回の落下時に正しく開傘できません』
ファイが注意する。彼女は布の畳み方を細かく指示してきた。リオスは何度も注意されながら、やっとの思いでパラショールを畳んで収納した。
「こ...これでいいのか?」
『よくできました、マスター。次回の使用時も忘れずに行ってください』
ファイが無機質に答える。リオスは腰のポーチからパンを取り出すと齧った。
「で...次はどこに行きゃいいんだ?」
咀嚼しながら尋ねると、ファイは螺旋状の坂の上の建物を指さした。
『あの建物を通ってフィローネの森に行きましょう。そこであなたに会わせたい人物がいます』
「人物?」
それを聞いてリオスは咀嚼を止めた。
「...おい待てよ。年寄りたちの話じゃあ女神さんは人間たちを救うため村ごと空に上げたんだろ?」
彼はやっとの思いでパンを呑み込むと続けた。
「だとしたら、人間なんてもう地上には一人もいないはずじゃねぇか。やっぱその話は嘘だったんだな?」
『そう伝えられてきたのですね。無理もありません....ですが....』
ファイは意味ありげに目を伏せ、少し間を置くと言葉を継いだ。
『ですが、その言い伝えは真実の一部しか語っていません。女神ハイリアが悪しき者たちとの戦いに先立って浮島を造ったとき、地上に残ることを決断した人間が少数ながらいたのです』
そして彼女はリオスを見ると言った。
『.....あなたの父も、そのひとりです』
「え?親父が?.....ど...どういうことだよ?」
『これから会う人物は、あなたの父を直接知る者のひとり。彼の口からその一部始終を聞かれるとよいでしょう』
ファイはそう答えた。リオスは困惑したまま歩き始めた。するとすぐにファイがその注意を引いた。
『マスター。あれを』
「なんだよ。今度は何だってんだ?」
ふた口めのパンを齧りながら振り向くと、ファイが指さす方向の先に何かが見えた。
盆地の底に、石でできた巨大な杭のようなものが突き刺さっている。
『あれが封印されし者です。今はまだ封印が新しいため、彼は動くことができません』
ファイの説明にリオスは訳も分からず聞き返した。
「ふ...封印?何のことだよ?」
『彼はかつてハイリアに
彼女は淡々と説明した。リオスは頭が混乱してきた。彼はパンを食べ終わると、歩を進めながらもどうにか考えを整理しようと格闘し始めた。
螺旋状の坂道を登りながら、リオスは頭の中の考えを口にした。
「つまりこういうことか?....悪い奴らがわんさか出てきたから女神さんは人間たちを村ごと空に上げて逃がした。でも、中にはここに残った連中もいた。で......」
そこまで言うと、リオスの脳裏にある推論が浮かんできた。
「....もしかすると、その残った連中は女神さんと一緒になって悪い奴らと戦った...とか?」
『その理解はおおむね合っていると言えます。ですが、厳密には....』
ファイが答え始めると、俄然興味をそそられてきたリオスはさらに問うた。
「じゃあ、親父も女神さんと一緒に戦ったのか?」
『厳密には違います。彼と仲間たちはハイリアの降臨前に終焉の者の軍勢を食い止めたのです。そして、その後降臨したハイリアが悪しき者どもを打ち倒すさまを目撃しました』
だが、ファイの説明を聞けば聞くほどリオスは頭が混乱してきた。
年寄りたちから聞いた話と違い過ぎる。
大叔父ドシュトをはじめとして、長老たちは皆口を揃えたようにこう言ったものだ。女神ハイリアは善良な者たちを地上から挙げ、楽園のような今の土地に住まわせたのだ、と。地上に誰かが残ったとか、残った連中がどうなったとか、そんな話は一切聞かされていなかった。
ましてや、終焉とかいう悪い神がいたとか、戦争があったなんてことは欠片も耳にしたことがない。
延々と続く坂道を登っているうちに、少年は次第に息が切れてきた。ファイはその目の前を浮遊しながら先導していく。
『神殿の内部を通りましょう。あの内部でも、真実の歴史を知るための手がかりが見つかるでしょう』
脚で歩いていないのをいいことに、ファイは涼しい顔でそう言いながら、頻りに早く登るよう促してくる。
「.....わ....わかったよ。でもこの坂道どこまで続くんだ?」
『もうすぐです、マスター』
顔を上げると、ようやく坂道の終わりが見えてきた。盆地の上端だ。道の傾斜が緩やかになり、その先には厳めしい石造りの建物が見える。ファイは説明した。
『ここはかつて女神ハイリアに捧げられた神殿でした。ですが今では打ち捨てられて数百年が経過しています』
坂道を登り切ると、リオスは歳月を経て黒く変色した建物の壁に近づいた。巨大な両開きの扉がついている。
少年は扉に手をかけると力を込めて押した。すると扉は軋んだ金属音を立てながらゆっくりと開いた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
建物の中は薄暗かった。だが、天井の破れ目から僅かに太陽光が射し込み、内部の様相が見てとれた。
広い空間に六本の巨大な四角柱が屹立している。屋根を支えているのだろう。そして前方には短い階段があり、その先は円形の小さな踊り場があった。さらにその奥には三方を階段で囲まれた舞台がある。
異様な静寂が辺りを包んでいる。リオスは用心深く左右を見回しながら前に進んだ。
だが、ふと四角柱を見ると、何か絵のようなものが描いてある。経年劣化で剥がれ始めているが、それでも複数の人物が描かれているのが見て取れた。
「...へえ。セバルスが見たらきっと喜ぶだろうなぁ。あいつ、古い建物を探検するのが大好きだもんなぁ」
リオスは何気なく言うと、四角柱の一つに近づいて眺めた。
だが、少年はすぐに違和感に気づいた。
描かれている人物の一つに見覚えがある。
ケープを羽織った少女。風変りな短い髪。
少年はその絵をしげしげと眺め、そして視線を転じ、近くを浮遊しているファイと名乗った少女を眺めた。
視線を何度も往復させた後、リオスはおずおずと口を開いた。
「あ......あのさぁ。この絵って....何百年も前の絵...だよな?でもこれってどう考えても........」
『これは私です、マスター』
ファイは事も無げに答えた。そして近づいてくると、一連の人物画を指さして説明し始めた。
『やや脚色が入っていますが、おおむね真実の通りです。これはおよそ千年前の私の姿です。そしてその隣が........』
「ま......待ってくれ!待ってくれ!待って!」
リオスは慌てて遮る。少年は首を激しく振ると聞き返した。
「い...今...千年前って言ったよな?じゃあ、あんたっていま...少なくとも...1,000歳ってこと...?」
『私が創造されたのはもっと前のことです。しかし、世に出されたのは確かにそれくらいの年代で間違いありません』
ファイの答えを聞いて、リオスは半ば茫然自失となった。
目の前の少女は、その奇妙なほど落ち着いた口調を除けば、どう見てもあのイリーナと同い年か、あるいはもっと幼く見える。それが1,000歳?
『その隣が私の兄、ギラヒムです』
ファイが説明を再開し、リオスは我に返った。視線を上げファイの指さすほうを見ると、同じような髪型の青年が描かれていた。
「あ...兄?....兄ちゃんがいるのか?その兄ちゃんも1,000何歳ってこと?」
『そうです。その周囲にいるのは私のほかのきょうだいたちです』
引き続きファイが言う。だが、リオスはまたしても奇妙なことに気づいた。
ファイの兄であるという青年の足元には、彼と似た外見をした者たちが多数描かれている。だが彼らの身体は皆、横倒しに描かれているのだ。
しかもその身体のあちこちに傷のようなものがあり、そこから血が噴き出すさまが描写されている。
リオスは目をこするともう一度凝視した。どう考えても、その『きょうだい』たちは無事な様子ではない。
『マスター、あなたが察したとおりです』
心を読んだようにファイは口を開いた。
『私のほかのきょうだいたちは、ギラヒムに殺されたのです――――それも、ひとり残らず』