『マスター、あなたが察したとおりです』
ファイはやがて、少年の心を読んだかのように口を開いた。
『私のほかのきょうだいたちは、ギラヒムに殺されたのです――――それも、ひとり残らず』
リオスは言葉を失った。彼は天井から射し込む薄明かりに照らされた肖像画を見つめ、生唾を呑み込んだ。そしてようようの時間が経ったあと、頭を振りながら呟くように言った。
「......ちょ.....ちょっと待ってくれ。あんたは...その...今1,000歳で..。兄ちゃんがひとりいて...。そんでもって他のきょうだいたちはみんなその兄ちゃんに殺されて.....」
そこまでまとめるとリオスは顔を上げた。
「...ていうかよファイ。あんたってそもそも何なんだ?」
『精霊です』
ファイは簡潔に答える。リオスは思わず言った。
「精霊?....幽霊じゃなかったのか?」
そう言うと少年は彼女の足元を指さした。
「初めて会ったときからずっとフワフワ浮いてるもんだから、俺...てっきり幽霊だとばっかり...」
『精霊は幽霊とは異なります。精霊は神々に仕えるためだけに造られた霊的存在です』
「..そ...それで1,000年も生きてるんだな。でも...ちょっと聞きにくいんだけど...」
ファイの答えを聞いて好奇心を刺激されたリオスは、遠慮がちに尋ねた。
「なんで兄ちゃんはあんたのきょうだいたちを殺したんだ?喧嘩するくらいならわかるけど、なにも殺さなくたって....」
その質問を聞いた瞬間、ファイが固まった。数秒の間、微動だにせず瞬きもしない。リオスは困惑し、頭を掻きながら謝罪した。
「ご...ごめん。触れちゃいけない話題だったら...別に答えなくても...」
『ギラントロフィリス―――終焉の者。そして今は封印されし者』
するとファイは唐突に話し始めた。
『ギラヒムは彼の助け手として創造されたのです。そして次に私が造られました。神々と精霊たちは調和の中で生きていました。....あの者が反乱するまでは』
リオスの頭脳の中でやっと事の成り行きが像を結び始めた。彼は合いの手を入れた。
「そ...そうか。外の穴の底であの石の杭に閉じ込められてる奴が、悪の親玉ってわけだったんだな?」
『そうです』
ファイは頷くと続けた。
『....ギラヒムはあの者と共に反乱する道を選びました。しかし私ときょうだいたちは彼を説得しました。女神ハイリアをかしらとする神々の秩序は古代の神が定めたもの。それを覆すことなど決してできない。あの者とともに破滅の道を下ることになるだけだ、と』
リオスは返事をするのも忘れ、ファイの無表情な顔をじっと見つめていた。
『しかしそれは功を奏しませんでした。彼はきょうだいたちをひとりまたひとりと殺しました。それによってあの者への絶対的な忠誠を示したのです。そして私だけがその手を逃れて生き残りました。それが千年前のことです』
そこでファイは言葉を切った。少年は息を詰めるように沈黙を守った。この少女の形をした者の過去のあまりの重さには、自分などがどんな慰めの言葉をかけようとも釣り合わないと思ったからだ。
静寂の中、少年はファイの横顔を見つめた。そして気づいた。
常人であれば正気を保つことさえ困難なほどの凄まじい惨劇と愛する者たちの喪失。
この少女の無機質な喋り方。感情というもの一切を欠いたその性質。それには理由があったのだ。
* * * * * * * * * * * * * *
『マスター、参りましょう。フィローネの森はあの扉の先です』
ファイが口を開き、リオスは我に返った。彼女の指さす先には入ってきたのとは別の扉がある。少年は溜め息をつくと、その扉に向かって歩き始めた。
『ここから先は魔物の生息地域となります。どうか十分にご注意を』
ファイが言葉を継ぐ。リオスは背負った剣に目をやりながら答えた。
「ヘッ...面白れぇじゃん。そういうときのためにこの剣を持ってきたんだろ?」
『遭遇する可能性が高いのはボコブリンです。知能は低いですが耐久力が高く、一撃では倒せません』
「わかったわかった」
リオスは答えながら背中の剣を抜いた。短めの直剣だ。重すぎず軽すぎず、少年の体格には丁度良いように感じられる。
そして少年は気づいた。心の中にあった父の像が、今は変わっている。
母と幼かった自分を置いて出ていった無責任な男ではない。
巨大な悪の勢力に対して立ち上がって戦い、これを食い止めた男。
彼は深呼吸した。
―――親父。見直したよ―――
リオスは心の中で言うと、扉に手を掛けて押し開いた。
外の光が眩しい。建物から出ると、眼前には石敷の通路が伸び、短い階段に繋がっている。その先には巨大な木々が林立する森が見えた。
「よし、行くか」
リオスは呟くと歩を進めた。階段を登り通路を抜けると、岩壁に囲まれた円形の広場に出た。そこを横切ると、少し下る段差の先に同じような広場が続いている。
リオスは段差を降りると二つ目の広場に足を踏み入れた。
だが、直ぐに奇妙な雰囲気に気づいた。
向こう側、広場の隅に何者かがいる。目を凝らすと、人のような姿をした、だが微妙に異なるシルエットが座り込んでいるのが見えた。それも複数だ。
向こうもこちらに気づいたらしい。身体を起こすと岩壁の影から出てきた。
その者たちの姿が陽光に照らされてはっきり見えると、少年は思わず息を呑んだ。
牙の突き出した口。吊り上がった目。上半身は裸で、服は腰蓑のようなものを身に着けているのみだ。
体格は大人の男と同じくらいで、粗い造りの鉈のようなものを肩に担いでいる。
ぜんぶで五体ほどの群れだった。広場を横切り、こちらに近づいてくる。
少年の心臓が急激に早鐘を打ち始める。明らかに友達になれそうな連中ではない。
「...ふぁ...ファイ....あれって...人間じゃぁない...よな?」
リオスが言うとファイが答えた。
『予測した通り、ボコブリンです。最下層の魔族の一種です』
彼女は冷静な声で付け加えた。
『初めての戦いの相手が五体の群れとは上手くありませんね。マスター、一旦神殿まで引き返すこともできますがいかがいたしますか?あの神殿は封印の影響で魔物を寄せ付けにくい霊場となっていますから』
それを聞いた瞬間、リオスの心に火が付いた。
「引き返す?んな意気地のねぇ真似するわけねぇだろ」
右手に持った剣を握り直す。掌に汗が滲んでいたが、リオスは自らも歩を進めた。
距離が詰まると相手方の様子がよく見てとれた。皆一様に、ニヤニヤ笑っている。その目には嗜虐的な悦びが浮かんでいた。
「てめぇら!やんのかこらぁ!」
リオスは剣を両手で中段に構えると叫んだ。だが魔物どもはキョトンとした顔をしたかと思うと、一斉に馬鹿笑いし始めた。
「なめてんじゃねぇぞ!」
少年は再び叫んだ。だが敵は一向に気にする様子もなく余裕の表情だった。彼らは肩から鉈を下ろすとリオスを取り囲み始めた。
心臓が破裂しそうなほどの勢いで脈を打つ。息が荒くなってきた。掌が濡れ、剣の柄が滑りそうなほどだ。おまけに膝が震え始めている。
リオスは忙しく左右を見回した。何をする暇もなく、全方位を囲まれてしまっている。
「く...クソッ...負けねぇぞ」
少年は呟くと剣を上げ、正面の相手を睨みつけた。相手は殆どやる気のない顔でこちらを眺め、こちらを指さしながら何か理解のできない言葉を発している。ただ、それが侮蔑であることだけは理解できた。
その途端、何かが動く気配を感じ、リオスは振り向いた。
目の前に鉈の刃。少年は咄嗟に頭を下げた。空を切った金属が髪を何本か断ち切る。
「うわッ.....」
リオスは反射的に剣を振り回した。背後から襲ってきた鬼の腹部に剣が当たり、浅い傷ができた。遮二無二武器を振ると、相手の胸にもう一本傷が走る。
その鬼は小さく罵声を上げながら後退した。だが効いていないのか、またニヤニヤ笑いを浮かべると、鉈をこちらに向けながら何かを喚く。
再び予感がした。リオスは振り向くと反射的に剣を水平に差し上げた。
真後ろから来た斬撃が剣に直撃し火花が散る。先ほど正面にいた、やる気のなかったはずの敵が、歯を剥き出しにして鉈に体重をかけてくる。
「ク...クソォッ!」
リオスは必死でそれを押し返す。だが周囲に素早く視線をやると、残りの者たちも武器を振り上げるのが見えた。時間がない。
その途端、父との稽古の思い出が電撃のように脳裏に蘇った。
剣を回転させ、相手の勢いを受け流す。何度も何度も練習させられた動き。
リオスは剣を操作して正面の鬼の鉈を流すように逸らした。次いで袈裟斬りを相手の肩口に浴びせる。
正面の敵が驚きの表情を浮かべる。だが背後からも攻撃が来ている。
少年は振り向くと必死で剣を払った。こちらに突き出された鉈に剣が当たり、けたたましい音を立てる。
鬼どもは簡単な獲物ではないと理解したようだった。だが、だからといって諦めた様子もない。彼らはニヤニヤ笑いを納めると、目に怒りと嗜虐の炎を浮かび上がらせ始めた。
敵に距離を詰めさせないよう、リオスは剣を振り回しながら牽制した。四方八方から鉈が突き出されるのを必死で弾き返す。
だが相手は慎重に距離を取っているのがわかった。相手の攻撃も届かないかわりに、こちらの剣も届かない。
息が続かない。足元がふらついてくる。
『マスター。退却しましょう。このままでは敵の思うつぼです』
ファイの声が聞こえた。
「だ...だけど....」
そう抗弁しかかって、リオスは気づいた。
敵は最初から斬り合うつもりなどなかったのだ。ただこちらを疲労困憊させ、動けなくなった後で料理するつもりだったのだ。
『マスター、お急ぎ下さい。力が残っているうちに』
悔し涙で少年の視界が歪んだ。
―――悪い奴と戦う?それどころか何もできずに尻尾を巻いて逃げ出すなんて―――
思わず剣先が下がった。それを見逃さず、正面の敵が号令をかけた。
『マスター。早く』
ファイの声が敵の喚き声で掻き消される。気配に振り向くと、斜め後ろから鉈の刃が飛んでくる。
腕に疲労が溜まって、剣を上げるのが間に合わない。リオスは反射的に膝を緩めながら身体を反らした。刃が顔の近くをかすめる。勢いで流れた敵の身体が近くに迫った。
―――一番効くのは突きだ。―――
父の言葉がまた脳裏に蘇った。
このまま終わってたまるか。
少年は力を振り絞ると剣を握り直し思い切り突き出した。ボコブリンのだらしない腹に剣が突き刺さる。敵は初めての深手に悲鳴を上げた。
前蹴りを放ち、相手を突き放す。鬼は鉈を放り出すと狼狽した表情で尻餅を突いた。
だがリオスは完全に息が切れていた。もう剣を上げることもできない。まだ四体のボコブリンどもが残っている。彼らは怒りに燃え上がっていた。
殺意。
憎悪。
侮蔑。
自分は今それを一身に浴びている。親父はこんなものを経験してきたのか。
―――ごめん、親父―――
リオスは心の中で呟いた。残った鬼どもが一斉に叫び声を上げながら斬りかかってくる。
イリーナの顔が唐突に目の前に浮かんだ。幼い頃一緒に遊んだ情景も。
その刹那だった。
* * * * * * * * * * * * * * *
何かが風を切る鋭い音が聞こえてきた。かと思うとリオスの前にいた鬼が動きを止めた。
顔を上げると、その側頭部に何かが突き刺さっているのが見えた。細い矢柄だ。
風切り音が次々に近づいてくる。それに鈍い命中音が続いた。
背後と左右にいた鬼どもが悲鳴を上げる。振り向くと、その頭や胸に何本も矢が刺さっていた。
腹に深手を負い倒れていた鬼がよろよろと立ち上がり、森の方面に向けて駆け出した。だが、またも風切り音が響き、そいつは額と喉と胸に矢を喰らってそのまま崩れ落ちた。
広場に静寂が訪れた。戦闘は終わったのだ。
だが、一体誰が?
リオスは茫然としながら辺りを見回した。鬼どもの死体と自分以外は誰もいない。
「ふぁ...ファイ。今のっていったい....?」
リオスが尋ねたその時だった。広場を囲む岩壁の上の樹木の間から影のように何者かが滑り出てきた。
驚いて見ていると、粗いチュニックを着た、肌の浅黒い男たちが猫のような身軽さで岩壁を飛び降りている。皆、手に弓を持ち矢筒を背負っている。その髪の毛は白に近いほど明るい色だ。
男たちは十名ほどだった。リオスが何をする間もなく、彼らの半数はこちらを取り囲んで弓矢を構え、残り半数が鬼どもの死体を検分し始めた。
「あ...あの....俺...別に怪しい者では....」
地上に降りて初めての人間の姿に安堵しながらも、リオスは困惑して言った。男たちの目つきは厳しい。その矢の先は真っすぐにリオスに向けられている。
検分をしていた男が顔を上げると仲間に何かを言った。やはりリオスには理解できない言葉だった。取り囲んでいた者たちが手を伸ばし、リオスから剣を取り上げると、両脇から二人がかりで捕まえながら引き立て始めた。
「お...おい。なんなんだよ!どこに連れてくつもりだ?」
そう問いかけると、リーダーらしき男が振り向いて何かを言った。だがやはり聞き取れない。
一行は広場の先の小道に入ると、やがて針路を変えて森の中に入っていった。
* * * * * * * * * * * * * * * *
リオスは男たちに引っ立てられるようにして歩かされていたが、小一時間ほどもすると木々が切り払われた広場に出た。原始的な茅葺屋根の住居が立ち並んでいて、そこここで女たちが手仕事をしたり、子供たちが遊んでいる。
リオスは広場の奥に連れていかれた。そこには老人が一人座っていた。
歳の頃は六十過ぎだろうか。長衣を着て、やはり浅黒い肌に白く長い髪をしている。
男たちは乱暴にリオスをその前に座らせた。少年は混乱したまま顔を上げ、老人を見た。その威厳のある雰囲気から村の長老であることは見て取れた。
「あ.....あのさ。俺、怪しいモンとかじゃねぇし、とりあえず剣、返してもらえませんか?」
リオスが両手を広げ敵意のないことを示しながら頼むと、老人は鋭い目でじっとこちらを見つめていたが、やがて言った。
「―――ヴィエネスデアリバス?」
「ご...ごめん。俺、あんたらの言葉わかんねぇし」
そう言うとリオスは困り果てて呟いた。
「ファイの奴どこ行っちまったんだよ。肝心って時に役に立たねぇんだからなぁ....」
すると老人は何かを了解したように軽く頷き、再び口を開いた。
「....小僧。お前は『上』から来たのじゃな?」
リオスは驚いて目を丸くした。そして苦笑いしながら言った。
「なあんだ。爺さん、言葉喋れるじゃん。最初から言ってくれよな」
その途端、リオスを引っ立ててきた集団の長らしき男が彼の肩に手をかけた。
その力の入れ具合にただならぬ気配を感じ、少年は顔を上げて相手を見上げた。
男の厳しい目つきは、明らかにこう語っていた。
―――質問に答えろ―――
リオスはやや怖気を振るうと、老人に向き直って話し始めた。
「わ...わかったよ。俺、空の上から降りてきたんだ。まぁ...なんつうか」
そう言ってから、恥ずかしくなってしまった少年は付け加えた。
「信じてもらえるかわかんねぇけど、女神さんの力で空に浮いてる島さ。そこから飛び降りてきたんだ」
「....浮島、か。そこから降りてきた者と会うのは二人目じゃな」
老人は言うと軽く咳払いをした。
「....ハイリア語を話すのは久しぶりじゃ。小僧、お前は敵ではないようだ。少し話しがしたい」
彼はそう言うと、手で合図した。すると取り上げられていた剣が目の前に放り出された。
やれやれと溜め息をつくと、リオスは剣を拾い上げた。だが視線を感じて顔を上げると、老人はじっとこちらを見ている。老人はやおら問いかけてきた。
「小僧、お前の名はなんと?」
「あ、自己紹介遅れてゴメン。俺、リオスってぇんだ。助けてくれてどうも」
少年は照れ隠しに頭を掻きながら名乗った。すると矢継ぎ早に老人が問うてくる。
「お前の父の名は?」
「親父?....あぁ。俺の親父はフロウ。本当はドシュトフロムンドってんだけど...」
リオスが答えたその途端だった。老人は驚愕したように目を見開き、口を閉ざした。少年は戸惑ってこう言った。
「どしたんだよ爺さん。もしかして知ってんのか?」
老人はしばらくの間顔を伏せて黙っていた。その瞳の中に様々な感情が去来しているのがリオスにも見て取れた。
「....儂の名はリゴールじゃ」
しばらくの時間が経った後、老人は名乗った。リオスは軽く頭を下げてそれに応えた。だが、またも沈黙が漂う。不安になってきた少年は、気を紛らわすように口を開いた。
「あ...あのさ、長老さん。俺、あんたらの縄張りを荒す気とかねぇし、地上に来たのは行方不明になった親父がどうなったのか知りたいだけで.....」
すると老人は片手を上げてリオスを制した。そして溜め息をつくと、こう言った。
「....お前の父フロウと儂は....共に戦った仲間じゃった」