「お前、違う。こっち」
リオスが森の中を歩き始めると、弓を左手に持ち、矢筒を背負ったラジーブが言った。少年が進もうとした方向の反対を指さしている。
「あ....悪りぃ悪りぃ」
少年は肩をすくめると、男に従って方向を変えた。ふたりは森から出るどころか、より深い森に向かって進んでいった。足元には道らしい道もない。下草を掻き分けながら歩くしかない。
まだ時刻は朝なのに、頭上から射し込んできていた陽光が暗くなっていく。
「なあラジーブ。あんたらってなんで違う言葉喋ってんだ?見たところ肌の色以外は俺らと一緒なのに」
リオスは何気なく尋ねた。するとラジーブは用心深い視線を周囲に投げかけながら言った。
「シーカー、隠れる。よそ者、知らない」
相手の答えは要領を得ない。そこにファイの声が聞こえてきた。
『古来シーカー族は情報漏洩を防ぐため隠語としてフロル語をしばしば用いていました。おそらくリゴールの一族もそうしたのでしょう』
「へえ...そうなんだ」
分かったような分からないような気持ちで少年は生返事した。だが、リオスは歩いているうちに不安になってきた。周囲に立ち並ぶ木々はどれも同じようにしか見えない。
「なあ、本当にこっちでいいのか?」
「木、ない。見える。木、ある。見えない」
リオスは一瞬キョトンとしたが、すぐ意味を飲み込んだ、
「ああ、なるほど。目立たないようにってことか。用心深いんだな。地上ってそんなにうようよ鬼どもがいるのか?」
尋ねるとラジーブは言った。
「いる。どこにでも。お前、弱い。戦わない」
それを聞いたリオスは返事をしかかってから、言葉を呑み込んだ。そして機嫌を損ねた様子で吐き捨てた。
「クソッ...さっきから弱い弱いって言いたい放題じゃねぇか。会ったばっかなのに少しは遠慮ってもんがねぇのかよ」
「お前、弱い。鬼、倒れない」
だが相手の声音は微塵も変化しない。侮蔑しているというわけでもなく、淡々とした語調だった。
「鬼、死なない。矢一本、剣一振り」
ラジーブは続けた。その左手にはまるで母の胎から出てきたときから持っていたような様子で弓が握られている。彼は右手で自分の眉間、次に左胸を指さして続けた。
「額。心臓。外れる。鬼、生きる。お前、死ぬ」
相手のたどたどしい説明を聞いているうちに、リオスの不機嫌はすぐに収まってきた。この男の話には嘘も誇張もないと分かってきたからだ。
少年は思い出した。腹を深く刺し貫いたはずの鬼が、立ち上がって走り始めるのを。普通の人間では有り得ない。もしもラジーブたちが駆けつけてくれなければ、一対一でも勝てたかは分からない。
「わ...わかったよ。だけどあとで見てろよ。きっと次は倒してやるから」
リオスはそう呟いた。数時間ほども歩くと、ようやく木々が開けてきた。
顔を上げると、周囲の木々の枝葉の先に、巨大な影が見える。一体何かと目を凝らしていると、ラジーブが声を掛けてきた。
「休む。行く、厳しい。休む」
「こっから先がキツいから今のうち休んでおけ、ってか?」
リオスは溜め息をつくと、装備を外して地面に腰かけた。持参した干し肉を齧り、相棒にも分け与えた。
「なあ、あれっていったい.....」
食事しながら、前方の巨大な影を見上げていると、少年にはその正体がおのずと見えてきた。
それは恐ろしく巨大な樹だった。
* * * * * * * * * * * * * * * *
「巨木、大事」
休憩中、ラジーブはやおら茂みの向こうの巨樹を指さして言った。
「―――巨木、人間、恐れる。精霊のもの」
「ははぁ、あれだな、なんか聖なる場所って感じなんだな?」
リオスが納得すると、ラジーブは言葉を継いだ。
「巨木、住む。龍」
「龍が?あの木に住んでるってのか?」
リオスは返事をしながらも、内心ではやや相手に対する優越感を感じた。
―――精霊ってのは分かったけど、龍なんてものはファンタジー過ぎだろ―――
そんなものをいまだに信じているこの相棒は、肉体は自分より強いのかも知れないが、頭はそれほどでもないのかも知れない。そんな思いが図らずも湧いてきてしまうのを覚えた。
休憩を終えたふたりは再び歩き始めた。木立を抜けた先は切り立った崖だ。低まったところに緑地が広がり、その中央に先ほど見た呆れるほどの巨木が屹立している。高さはゆうに数百メートルはありそうだ。
ラジーブはそこで待っているようにリオスに合図すると、まるで小動物のように身軽に崖を降りていった。そして用心深く周囲を警戒しながら、今度は降りてくるよう手ぶりで指示してきた。
苦労して崖を下ると、全身に汗が噴き出す。息を整えていると、ラジーブが言った。
「急ぐ。崖の上、日暮れ。急ぐ。神殿、越える」
「.....崖の上?神殿?」
当惑して尋ねるとまたファイが言う。
『フィローネ地方北方、いわゆる「森の奥」に天望の神殿があります。その先の崖の上を野営地にする計画のようですね。ならば日暮れまでに到達する必要があるということでしょう』
「走る。隠れる。鬼、見ない」
ラジーブが平原に点在する灌木を指さしながら続けた。それを聞いたリオスは答えた。
「物陰に隠れながら行くんだな。わかったよ。でも見つかったとしても、一匹二匹だったらあんたなら倒せるんじゃねぇのか?」
「鬼、角笛吹く。仲間、増える」
ラジーブが厳しい表情で言う。リオスはようやく理解し始めた。
もし隠れ場の少ない平原で敵に仲間を呼ばれたら。剣で深手を負わされても死なないボコブリンの群れに包囲されたらどれほど面倒か、リオスにも想像がついた。
「――とりあえず言う通りにするしかなさそうだな。まあお手柔らかに頼むぜ」
リオスはそう言って立ち上がると、相棒に従って歩き始めた。
だがラジーブはいきなり歩調を速めた。用心深く構えながらも、重心を落とし、まるで滑るように前進している。
「ま...待てよ!そんなに急ぐのか?」
リオスは慌てて駆け出した。追いかけると、ラジーブは平原の中に生えていた灌木の影に入り込んだ。
リオスがその後ろから追いつこうとしたその瞬間だった。近くの地面からガサッと音がしたかと思うと、人の背の半分ほどの大きさの塊が飛び出してきた。
「うわッ!」
少年は面食らって尻餅をついた。辛うじて立ちあがると、見たこともない生物がこちらを見つめている。乳白色の腹と緑色の背をした、短い毛の密生した生き物。尖った小さな口吻の先には髭が生えている。
どうやら驚いたのは相手も同じのようだった。そいつは数秒間髭を震わせていたが、やがて踵を返して駆け出した。目で追っていると、平原の端まで全速力で逃げていく。
「なんなんだよあいつは....」
ようやく驚きから覚めて呟いていると、ラジーブが急いで近づいてきた。そしてリオスを捕まえると、灌木の影に引きずり込んだ。
「お前、忘れる。隠れる」
「わ...悪リぃ悪リぃ。うっかりしてた」
リオスは頭を掻いた。するとラジーブが付け加えた。
「キュイ族。魔物ない。平気」
「キュイ族?なんだそれ?動物か?」
リオスが尋ねると、ラジーブは首を振った。
「動物ない。言葉喋る。亜人」
「言葉をしゃべるのか?あいつが?」
少年はまた驚いた。だが、ラジーブは無駄話をしている暇はないとばかりにまた顎をしゃくって針路を示すと、前進し始めた。
狩人は速足で進みながら息ひとつ乱さない。そのあとからリオスは懸命に走った。たちまち息が苦しくなる。そうして灌木や茂みの間を縫うように、二人は巨樹の見下ろす平原を横切っていった。
だが、中頃まで進んだときラジーブが前進をやめ木の影で立ち止まった。
「見る」
彼が指さすほうに目をやると、巨木から平原の端まで、行く手を阻むように土の壁が立ちはだかっている。
「鬼、壁、立てる。我、知らない」
ラジーブの目つきが険しくなっていく。壁によく目を凝らすと、巨木から平原の端までの間の中ほどの地面に接する場所に穴が開いていて、そこから抜けられるようになっていた。だが、穴の回りには数匹のボコブリンたちが見張りに立っていた。
「こ...これじゃ見つからないで進むのは無理....だよな」
リオスも呟いた。そして相棒に提案した。
「巨木の反対側に回るのはどうだ?そこなら別の道があるかも....」
だがラジーブは首を振った。
「時間、ない。日、暮れる」
「突破するしかないってことか?」
リオスが言うと、狩人は彼を引き寄せて囁いた。
「お前、囮。鬼、誘う」
「え......俺が?」
少年は面食らって尋ねた。狩人は淡々と指示する。
「お前、行く。鬼、来る。我、射つ」
「マジかよ............」
リオスは絶句した。ラジーブが強いのは雰囲気でわかる。だが出会ったばかりのこの男をそこまで信頼しなければいけないのか。
リオスは敵の方角を見た。ボコブリンが全部で七匹ほどもいる。
「お...囮って、あの囮だよな。相手に近づいて、油断させて...」
「我、射つ。全部。お前、傷、ない」
確認すると、ラジーブは応じた。険しい表情だが、かといって焦りも気負いもない顔だ。
数秒考えたあと、リオスは溜め息をついた。選択の余地はなさそうだ。少年は剣を抜くとその刀身を確かめた。すると狩人はまた付け加えた。
「お前、戦わない。鬼、近い。矢、当たる」
「ちょ...ちょっと。そりゃねぇだろ。もし襲ってきたらどうすりゃいいんだよ」
「逃げる」
抗弁しても相手はにべもない。愕然とした顔でリオスは剣を鞘に納めた。
―――まじかよ...命丸ごと預けろってのか?―――
身体を起こし、木の影から出ると、少年は土の壁に向かって歩き始めた。
距離は数百メートル。近づくにつれてボコブリンどもの様子が見えてきた。
それぞれ鉈で武装し、そのうち一匹が腰に角笛を下げていた。暇そうな顔で座り込んだり、仲間と雑談している様子だ。
やがて向こうがこちらの姿に気づいた。ボコブリンどもは顔を上げたが、こちらが少年一人と見て取ると、皆面白そうな顔をして指さしながら笑い始めた。
距離が百メートルを切った。リオスはさらに歩を進めた。鬼どもはまるで出迎えるように横に並び、口々に何事か囃している。
リオスは無性に悔しさを感じた。自分はこの地上では何の役にも立たない。ラジーブの村の子供たちと比べても、それ以下だ。戦うどころか、狩りすらしたことがない。
ボコブリンたちの一匹が、自分の喉に指先を当てて掻き切る仕草をした。するともう一匹が悲鳴を上げる真似をし、身体をくねらせ始めた。
それを見た瞬間、リオスの胸の奥で何かが弾けた。
―――ふざけるな―――
殺される時の人間の姿を真似しているのだ。それが分かった瞬間、少年は燃えるような怒りを感じた。
リオスは剣を鞘から抜き放った。すると、鬼どもはわざとらしく驚いた声を上げ、次にさも可笑しそうに笑い始めた。
「ふざけんな!そうやって人間を舐めてると痛い目に遭うぞ!」
リオスは精一杯の怒声を放った。だがボコブリンたちは全く怯んだ様子もない。もはや互いの表情がハッキリ見えるほどの間合いだ。
―――ラジーブ....いつ射ち始めるんだ?―――
リオスは心の中で尋ねた。だが、背後の木の陰に隠れている相棒から答えがあるはずもない。少年は唾を飲み込むと、さらに前に足を踏み出した。
だが、まだ動きはない。心臓が跳ねるように鼓動し始める。呼吸が浅くなってきた。鬼どもは悠々とした歩調で前に出てきた。ゆっくりとこちらを囲むように並び直している。
「ま...まさか逃げたんじゃ...ねぇよな....」
リオスは肩越しに振り向くと呟いた。額の汗が止まらない。リーダー格なのか、角笛を腰から下げた鬼が一歩前に出てくると、鉈をこちらに突きつけ、ニタニタと笑いながら何かを言った。侮蔑の言葉だということは分かった。
その瞬間だった。後方から空気を裂く音が近づいてきたかと思うと、そのボコブリンの左胸に矢が突き刺さった。そして二・三秒もしないうちにもう一本がそいつの額に命中した。
驚いたリオスが振り向くと、背後二十メートルほどの場所に狩人が立っていた。泡を喰った鬼どもが一斉に沸き立つ。
だが狩人はまるで射撃練習をしているかのような落ち着きようだった。次々に矢をつがえ放つ。残りの鬼どもは、一匹また一匹と額と心臓に矢を喰らって動きを止めた。
「クソッ...ヒヤヒヤしたじゃねぇか。見捨てられたかと思ったぜ」
リオスは振り返って相棒に言った。するとラジーブはいきなり突進してきた。呆気に取られているうちに、狩人に体当たりされ二人して地面に転がった。
「な...ッ...なにしやがッ....」
そう罵声を上げた瞬間、頭の上を矢が通過していった。前方からだ。見上げると、土の壁に開いた穴から新手のボコブリンどもが姿を現していた。そのうちの一匹が弓を構えていた。
ラジーブが身を起こし素早く弓に矢をつがえて放つ。鬼の弓兵が頭に矢を喰らって立ち尽くす。だが、四匹ほどの集団が鉈を振り上げながらこちらに走り寄ってきた。
もう距離がない。ラジーブがさらに矢を放つ。もう一匹が動きを止めた。だが三匹が斬りかかってきた。
―――俺だって―――
リオスは立ち上がって剣を構えた。一匹が組みやすしとみたのか、少年に挑みかかってきた。剣をかざし鉈を受け流すと、リオスはすかさず反撃の横斬りを放った。
だが相手は思いのほか巧みに鉈を立ててこちらの斬撃を防いだ。罵りながらもリオスは袈裟斬りで追撃した。
だが剣が空振りした。ボコブリンは大きく身を引くと、鉈を振りかぶっている。
―――まずい―――
こちらは体勢が流れている。自分が窮地にいることが本能的にわかった。鉈が頭上に飛んでくる。必死で身を低くして躱す。鬼がさらに迫ってきたところに、膝立ちで逆袈裟斬りを放った。初めて当たった。相手の身体にバッサリと切り傷が走る。
やや怯んだ様子で鬼が引き下がる。その瞬間、ボコブリンは我に返ったように周囲を見回した。もはや残り二匹も近くの地面に倒れている。
味方全てを失ったことに気づいたボコブリンは踵を返して逃げ始めた。だが、まるでそれを読んでいたかのように、壁の手前にラジーブが立っていた。
ボコブリンは喚きながら鉈を振り回す。狩人は難なく回避し、短剣で相手の喉を切り裂き、胸を二度刺し貫いた。ボコブリンは立ち止まると、ゆっくりと倒れた。
平原に静寂が戻った。リオスが剣を納めて荒い息を沈めている間、狩人は鬼どもの死体を回って素早く矢を回収していった。
* * * * * * * * * * * * * * *
「行く」
狩人が告げる。土の壁に空いた穴を抜けた相棒を追って、リオスも向こう側に抜けた。ラジーブは姿勢を低くし、用心深く周囲を警戒している。
「....さっきは助けてくれてありがとな」
リオスが低い声で囁くと、狩人は振り向きもせず答えた。
「お前、死ぬ。我、名折れ」
「ヘッ...そういうことか。一度引き受けた仕事は何がなんでもってわけだな」
リオスは苦笑した。友情でも善意でもない。ただ名誉のために狩人は命をかけてリオスを守ろうとしているのだ。
前方に目を凝らすと、同じくらいの広さの平原が広がり、その終端にある高い岩崖の手前に巨大な石造りの構造物が見える。ラジーブが説明した。
「高見台。先、神殿」
「わかった。行こう」
少年が頷くと狩人は走り始めた。その独特の進み方に慣れてきたリオスは次第に遅れることがなくなってきた。茂みや灌木まで全速力で走り、遮蔽物の影で休憩する。
それを繰り返しているうち、二人は誰にも見つかることなく平原の向こう側にあった石の構造物に到達した。それは二つある壮麗な階段の上に設えられた展望台だった。
狩人はまるで鹿か何かのように素早く階段を登っていく。リオスも必死でついていった。
階段を登り切り、展望台の上の安全を確認すると、狩人はようやく警戒を解いた様子で少年に休むよう促した。
「...でもまだ道なかばなんだろ?」
リオスは安堵して座り込むと尋ねた。すると狩人は答える。
「森の奥、平原ない。見えない。もっと急ぐ」
狩人は展望台の奥にある崖を指さした。二メートルほどの段差の上が道になっており、崖にぽっかりと口を開けた洞穴に続いている。
「あ?要するに隠れる必要はないけど、もっとペース上げるのか?カンベンしてくれよ」
ぼやきながらリオスは笑った。だが、先ほどの戦闘で狩人への信頼が生まれてきたのを感じた。義務感であろうとなんだろうと自分を見捨てない存在がいる。この危険な地上ではこのうえもなく有難い。
「おい、ファイ。いるのか?」
リオスはふと尋ねてみた。するとすぐ返事が来た。
『―――はい、マスター。なんでしょう』
「なあ、あんたが言ってた俺の『務め』っていったいなんなんだ?」
何気なく尋ねてみた。族長リゴールの家でおおまかな話は聞いたが、今一つ具体的なことがわからない。
『マスター。その聖なる剣を使いこなせる者はこの地上でマスターただひとりです。その剣を用いて、ギラヒムが復活させようとしている時空の門を初期状態に戻していただきます』
ファイが言った。だがそうは聞いてもリオスにはよく理解できなかった。
「...ていうかよ、その門ってのは『時の神殿』ってとこにあるんだろ?たしか、ええっとラネ....ラネ....」
『ラネール地方です、マスター。これからマスターにはオルディン地方を経由してラネール地方に向かっていただきます』
「そのオルなんとかって場所にもボコブリンが一杯いるのか?」
少年が尋ねると目の前に青い光の塊が浮かび上がり、すぐにファイの姿をとった。彼女は無機質な声で言った。
『―――マスター。この地上は一部を除いてほぼ魔物に支配されているとお考えください』