『―――マスター。この地上は一部を除いてほぼ全域が魔物に支配されているとお考えください』
目の前に浮かび上がったファイが無機質な声で言った。
それを聞いた瞬間リオスは意味を把握しきれず、口ごもってしまった。
「ちょ....ちょっと待ってくれ。い.....今なんつった....?」
『―――この地上は一部を除き、全体的に魔物の支配下にあります。ですから、フィローネ地方を抜けオルディン地方やラネール地方に行っても状況は同じです。いえ―――』
彼女はそこで言葉を切ってやや訂正した。
『ラネール地方はギラヒムの本拠地です。監視の目は一層厳しいと考えてよいでしょう。敵の数も多く、組織化されています』
少年は何も言葉が返せず、黙り込んだ。ただ目をパチクリさせることしかできなかった。ファイは淡々と続ける。
『ですが、マスター。この務めを行うことができる者はあなたしかいません。その聖なる剣もてギラヒムのたくらみを打ち破り....』
「...ふ...ふざけんなよ。誰がそんなこと決めたんだよ」
リオスは顔を伏せながらも、やっとの思いで呟いた。両肩が震え、拳を握りしめていた。
「できるわけねぇだろそんなこと。俺、昨日まで畑仕事と野遊び以外何も...」
『―――マスター。あなたを選んだのはいと高き女神ハイリア。このファイもまた、そのご意思に従っているに過ぎません。それをご理解ください』
だが被せるようにファイが答える。少年は生唾を呑み込むと、蒼白な顔を上げて言った。
「お....おい。冗談じゃねぇぞ。俺、ただの十五のガキだぜ。戦いどころか狩りもしたことねぇのに、そんなに鬼どもがうようよしてるところに行って何をしろってんだ?おかしいだろ?」
リオスはパニックを起こしかけていた。首を振ると、両手を広げながらファイに詰め寄った。
「頭イカレてんじゃねぇのか?それとも気まぐれで俺を実験材料かなんかにしようとしてんじゃねぇだろうな?」
『女神ハイリアは理由あってあなたを選んだはずです。気まぐれなどではありません』
「じゃあその理由ってなんだよ?いったい何なんだよ?」
『私にはわかりません』
問い詰めてもファイの答えはにべもない。とうとう少年は怒鳴った。
「わかんねぇ?ふざけんな!そんな無責任なことあるかよ!」
傍らで聞いていた狩人が立ち上がると、展望台の下の平原に神経質そうな目を配り、そしてリオスの肩に手を置いた。
「わ...悪りぃ。つい興奮しちまった....。でもよ、ファイ。少し考えればわかるだろ?」
リオスは一呼吸してやや落ち着くと、言葉を継いだ。
「女神さんが、本当にそんなギャンブルみたいなことすると思うか?だったら、それこそラジーブみてぇな奴にやらせればいいじゃねぇか。俺なんかじゃなく」
『シーカー族にはシーカー族の務めがあります。しかし、マスター。女神ハイリアはあなたの父の血筋から勇者の胤を起こすと決められました。それは変わることのないご意思です』
「ゆ...勇者....だって?」
リオスが尋ねるとファイは頷いた。
『終焉の者はおそらくいつの日にか目覚めるでしょう。彼を滅ぼすには人間である勇者の力が必要です。それはまだ先のことです。ですが、ハイリアはあなたの父の血筋を通して、弱い人間でありながら勇気をもって戦う勇者を....』
「だ...だめだ。だめだ。そんなこと俺にできるわけねぇ。他をあたってくれ。な?」
少年は涙の浮かんだ目で相手を見上げた。
「俺...地上に降りてわかったんだ。故郷ではイキがって、悪ぶって、ドシュト爺ちゃん相手に精一杯威張り散らしてたけど、本当はただの意気地なしだったって。俺は親父にはなれねぇって。だってボコブリン一匹ひとりじゃ倒せねぇどころか、あいつらが近くに来るだけで心臓がバクバク鳴って怖くて怖くて仕方ねぇんだ...」
ファイは黙って聞いている。リオスは涙声で訴えた。
「頼むよ。俺、わかったんだ。俺には無理だって。だから...もう終わりにしてくれ。帰らせてくれ。な?頼むよ」
少年は傍らにいる狩人に向き直った。
「ごめん、ラジーブ。あんたにも迷惑かけちまった。でも、俺はもう家に帰りたいんだ。だから、まずあんたの村まで連れてってくれ。そんで、そこから帰る方法を探すから。いや...待てよ...そうか」
リオスは気づいたように声を上げると、再びファイに言った。
「ファイ、あんたは俺がどうやって浮島に帰ればいいか、知ってるんだろ?だって俺がどうやって降りればいいかあれだけ詳しく....」
『―――マスター。残念ですが、帰る方法は私にもわかりません』
ファイは言った。それを聞いたリオスは息を呑んだ。そして数秒沈黙すると、ふらつきながら後ろに下がった。
『帰る方法は私にもわかりません。まだ示されていないのです』
少女の声は冷厳だった。驚愕に目を丸くして絶句しているリオスを前に、悪びれる様子もなく彼女は続けた。
『ですが、マスター。お聞きください。マスターがこの務めを行うべく歩み続ければ、必ずその道は示され....』
「も...もうだめだ...もうだめだ」
少年は最後まで聞かず、がっくりと膝を折って地面に手を突いた。
「な...なんてバカなことしちまったんだろ。ハハハハ.....俺、大馬鹿だよな」
目から涙が勝手に溢れてくるなか、リオスは独り言のように呟いた。
「親父のことを知りたいとか言ってよ....。そんで地上に来てみたら地獄みてぇな場所じゃねぇか。........務め?なんかの冗談だろ?」
ラジーブは展望台の下を警戒しつつ、困惑した表情で少年の様子をチラチラと伺っている。
「ああ...浮島にいれば今頃は畑仕事終わって...家で飯食って...日曜には礼拝サボってあいつらと遊んでよ...それが...それがいったいどうしてこうなっちまったんだよ...」
『マスター。少し落ち着きましょう。マスターはひとりで務めを行うわけではありません。このファイがサポートいたします。それに....』
ファイが言うと、ラジーブが展望台の端から離れ近づいてきた。
「お前、弱い。我、守る。我、命。終わる」
狩人がかがみ込み、少年の目を見ながら言う。リオスは泣き濡れた目で相手を見返し力なく笑った。
「...命が終わるまで守ってくれるって?それはありがてぇけどよ....んなこと言ったって、もしあんたが死んだら俺、実質ひとりだろ?どう安心しろってんだよ...」
リオスは顔を袖で拭うと相手に取りすがった。
「なあラジーブ...俺をあんたの村に住まわせてくれよ。どんな雑用でもするからさ。こんな魔物だらけの場所をうろつくよりよっぽど天国じゃねぇか。そうだろ?」
それを聞いた狩人は困り果てた顔をした。だがリオスは懇願し続けた。
「な?あんたの村にだって畑のひとつやふたつはあるだろ?少しは役に立てるかも知れねぇだろ?な?頼むよ.....」
少年はまた泣き出した。狩人は少年の両肩を支えながら言葉を失っている。
だが、次の瞬間狩人は何かに弾かれたように顔を上げた。彼は立ち上がると聞き耳を立てる仕草をした。
驚いたリオスが見上げると、ラジーブは矢筒から矢を一本取り出して弓につがえ、身を低くしながら慎重に展望台の端に進んでいった。
その刹那、平原から音が聞こえた。
―――ブォォォォォ....ブォォォォォ....―――
それは角笛の音だった。
* * * * * * * * * * * * * * *
―――ブォォォォォ....ブォォォォォ....―――
角笛の低く不吉な響きが平原に響き渡る。それも一本や二本ではない。いくつもが呼応しあうように一斉に吹き鳴らされている。
「ど...どうしたんだよラジーブ...」
リオスはフラフラと立ち上がると、展望台の端にいる狩人に近づいた。だがラジーブは振り向くといきなり手を伸ばしてリオスを掴み、地面に引き倒した。
その瞬間、放物線を描いて飛んできた飛翔物が頭上をかすめた。矢が背後の石床に当たり鋭い音を立てる。
―――ヒュン...ヒュン...―――
矢の飛行音が連続して近くを通り過ぎる。リオスは頭を抱えながら必死で伏せた。
目を上げると、ラジーブは一瞬の弾幕の間を突いて身を起こし、矢を放つとまた伏せた。ボコブリンの悲鳴が平原から聞こえてきた。
狩人は二の矢をつがえながらも肩越しに振り返った。
「お前!行く!」
ラジーブはそう言うと、弓を引き絞りながら体を起こした。矢が飛んできたのか、彼はバネ仕掛けのように上体を反らし、そのまま自分の矢を放った。再び鬼の悲鳴が聞こえた。
「お前!急ぐ!我、止める!」
狩人は怒鳴った。リオスは頭を低くしながらも相手の背を見つめた。展望台の下の平原からは、鬼どもの汚らしい喚き声が一斉に聞こえてきた。その数、十や二十ではない。
「お前!務め!大事!行く!」
少年が迷っていると、狩人が振り返りまた言った。矢がかすめたのか、彼の頬には切り傷がついている。その目をまともに見たリオスは、催眠術にかかったように腰を浮かせると、展望台の背後の崖に近づいた。
『マスター、伏せて!』
ファイの声が聞こえた。反射的に地面に転がると、また矢が頭上を通過し石床に衝突した。リオスは無我夢中で奥の崖に駆け寄り、上から垂れ下がってきていたツタに掴まってよじ登った。
どうにかして段差を登り切り、振り返る。ラジーブは敵の矢襖の間を縫うようにして眼下の平原に向け矢を放っている。そのたびごとに敵の悲鳴が聞こえた。だが、リオスはすぐに洞窟に顔を向けると駆け出した。
* * * * * * * * * * *
洞窟は短く、すぐに向こう側に抜けた。少年は両膝に手をついて荒い息を鎮めた。無性に涙が出た。嗚咽も口から洩れてきた。
―――お前、弱い。我、守る―――
ラジーブの言葉が脳裏によみがえる。初めて会ったときから狩人はこの言葉を何度となく口にした。だが、いまのリオスには、最初に聞いたときの苛立ちと屈辱感を伴う言葉とはまったく違って聞こえた。
「そうだよ...俺...弱えぇよ....」
リオスは啜り泣きながら言った。だが同時に燃えるような悲しみと痛みが胸を満たした。まるで本当に火がついているかのように、少年は自分の胸を掻きむしった。そして呻いた。
「だ..だからって....あいつを置き去りにしていいのかよ...そんなこと許されるのかよ...」
新たな涙の流れが目から溢れ出す。だがリオスは顔を上げ、歯を食いしばった。
「いいわけ...ないだろ。俺の...命の恩人だぞ......」
少年は自分に言い聞かせると、ますます歯を食いしばった。歯と歯が擦れあうギシギシという音が聞こえた。リオスは目を閉じると叫んだ。
「俺は...俺は........俺はぁァァ....ァァァァァァァァァッ!」
叫び終えた少年は背中の剣に手を伸ばし鞘から抜き放った。そして踵を返すと、洞窟の中に駆け込んだ。
洞窟を駆け抜けると、外の光が見えた。
リオスは出口の前で一瞬だけ足を止めた。呼吸が乱れ、涙で視界が滲む。凄まじい恐怖感が胸に迫り上がってくる。
耳に届くのは、ラジーブの弓から矢が放たれる乾いた音と、鬼どもの汚らしい喚き声だった。
「ラジーブ……!」
少年は叫ぶと洞窟の出口から飛び出した。
展望台の上に立った狩人は、左右に伸びた階段を登って押し寄せてくるボコブリンどもをたった一人で食い止めていた。
至近距離で矢を放ち一匹の額を射抜いたかと思えば、背後から鉈で斬りかかってきたのを躱し、短剣を逆手に抜いて目にも止まらぬ速さでその個体の背中を五度ほども刺し貫く。さらに矢を矢筒から抜くと、それを突き出して迫ってきた別の鬼の目を貫き、すかさずその矢を弓につがえて次の個体の胸を射抜いた。
平原からは何度となく角笛を吹き鳴らす音が聞こえてくる。
―――行かなきゃ!―――
リオスは無我夢中で目の前の段差を飛び降り、展望台に駆け寄った。
狩人は、片目を潰されながらもなお斬り掛かってきた鬼を投げ飛ばすと、地面に倒れたそいつの額に目掛けて矢を放とうとしていた。だが、その背後からもう一匹が襲い掛かる。
少年は雄叫びを上げながらダッシュすると、跳躍して剣を振り上げた。
思わぬ方角からの奇襲に驚いた顔をしたボコブリンの頭に、真っ向から剣を振り下ろす。柄を握った手が痛むほどの手応えがあった。棒立ちになった相手の左胸目掛けて突きを放つ。刃が深く貫通した。
―――倒した―――
本能的にわかった。
「ラジーブ!そっちを頼む!」
リオスは叫ぶと、もはや力を失ったボコブリンの身体を蹴りで突き放した。背後では狩人が矢を放つ音と鬼の断末魔の叫びが聞こえてくる。
目の前の階段を続々とボコブリンどもが登ってくる。だがリオスは相手が登り切る前に動いた。殺到すると、思い切り体当たりをぶちかました。よろめいた先頭のボコブリンが転倒し、後続の個体を巻き添えにして転げ落ちていく。
『マスター!姿勢を低く!』
またもファイの声が聞こえた。首をすくめると、頭の数センチ上を矢が通過していく。その時、ラジーブが駆け寄ってきて弓を構え、階段の下にまだ生き残っていた鬼の弓兵を射殺した。
だが、その狩人の背後から新手のボコブリンが迫ってきた。リオスは迷わずに突進した。鉈を振り上げようとした相手の胴を思い切り払う。さらに袈裟斬りをかけると、ラジーブが振り返ってリオスの肩越しに矢を放つ。額に一撃を喰らったボコブリンはゆっくりと崩れ落ちた。
「お前、戦う、ゆっくり!倒す、一撃!」
ラジーブが叫びながら持ち場の階段に向き直る。
「うっせぇよ!こっちだって一生懸命やってんだよ!」
リオスは怒鳴り返しながらもう一つの階段に向き直った。
『マスター!剣を天に向けて振り上げてください!』
またファイの声が聞こえ、少年は聞き返した。
「なんだ?なんだって!?」
階段下を覗き込むと、体勢を立て直した鬼どもがまた駆け上がってきている。
『剣先を天に向けてください!剣にパワーを充填します!』
「パ...パワー?なんかよくわかんねぇけどそれ役に立つのか?」
『威力は物理的斬撃の比較になりません』
「わ......わかった!」
リオスは返事をすると右手に握った剣を高々と振り上げ、その切っ先を天に向けた。数舜ののち、剣がまるで生きもののように震え、そして声を上げた。高い周波数の音が響き渡る。目を上げて剣の刀身を見ると、それは淡い光を発している。
『敵に向けて振り下ろしてください』
ファイが指示する。目を下げると、ボコブリンたちはもはや展望台の数段下まで迫っている。リオスは眦を決して歯を食いしばると、思い切り剣を振り下ろした。
―――バシュッ―――
剣から光の塊が飛んで行ったかと思うと、目前に登ってきたボコブリンに直撃した。その途端、そいつは白目を剥いて棒立ちになり、空気が抜けたように崩れ落ちた。その背後にいた二・三匹も同じように倒れ、階段を転げ落ちていく。後続の者たちは足をとられ、罵声を上げながら転倒した。
「行く!今!」
背後から声がして振り向くと、狩人が展望台の奥を指さしている。リオスは頷くと、崖の方に向けて駆け出した。狩人は展望台の床に転がった鬼どもの死体から手早く矢を引き抜いて回収すると、後ろから追いかける。
少年と狩人は段差をよじ登り、洞窟に駆け込むと、必死で走った。
* * * * * * * * * * *
洞窟を抜けると、両側を岩壁に挟まれた狭い道が前方に続いている。道はやがて二股に分かれた。
「こっち!」
狩人は叫びながら左手の道に駆け込んだ。リオスが後に続くと、道はすぐに高い段差に阻まれた。背後からは、再び角笛の音が鳴り響き始めた。
「ど...どうすんだよこれ!」
リオスは段差を見上げた。四・五メートルはありそうだ。到底越えられそうにない。
「道、ある!」
狩人は弓を背負い、片手に短剣、もう片手に手裏剣を抜いて逆手に持つと、崖に突き立てて登り始めた。あっと言う間に段差を登りきると、腰につけたロープをほどいて投げおろしてきた。
リオスがロープを掴み無我夢中でよじ登ると、狩人はその腕を掴んで引き上げた。
「行く!」
ラジーブはロープを回収し、再び走り始めた。その頃には洞窟の出口から鬼どもの喚き声が聞こえてきた。リオスは相棒の後を追ってひたすらに走った。
もはや太陽は傾き始めている。やがて前方に巨大な建造物が見えてきた。壮麗なファサードを持つ神殿のようだ。だが、その生気のない様相は一見して廃墟だと分かった。
道は下り坂になっていく。段差を飛び降りながら進むと、ふたりは神殿を囲む鉄柵の前に出た。
周囲に鬼どもの姿はない。リオスは荒い呼吸を繰り返しながら歩を緩めた。だが狩人は用心深く周囲を見回し、神殿の左手にあった崖に近づくと、両手をかけて登り始めた。
「お....おい!どこ行くんだよ!」
リオスが見上げると、狩人は途中の岩棚からまたロープを下ろしてきた。急ぐよう手招きしている。少年は息を鎮める間もなくよじ登った。岩棚まで到達すると、狩人はまた同じ方法で崖を登っていき、上からロープを垂らす。それを何度も繰り返し、二人はとうとう崖の上まで到達した。
「ここ、休む」
狩人は初めて手を休めると、そう言った。リオスは頷くと崖の頂上の茂みの陰に座り込んだ。
なかなか鎮まらなかった呼吸がようやく落ち着いてくる。少年は地面に横になった。疲労感で自然に瞼が落ちてくる。やがて彼は目を閉じた。
そして激しい疲労感の中、彼は眠りに落ちて行った。