余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
披露の前日、偽の招待状が出回りかけた。
日付を一日ずらした、上物の刷りである。かねて家令に指図して刷り屋の筋を洗わせてあったから、出所の工房は半日で割れた。招待客の家々には、正しい日付の確かめ状を偽状より先に届けてある。偽物は、誰の目にも触れないうちに死んだ。
――前日のうちに、まず一仕事。当日は当日で、本命がいらっしゃる。
〈金天秤〉の大帳は、期日の朝、こうなっていた。
『ラインフェルス家の婚約、披露の夜会の閉会までに破談の届けが出る』
命題側、二百四十口、金貨四百六十枚。受け手側、二十八口、金貨九十五枚。
二百十七で始まった帳が、二百四十。痩せるどころか、太ったのである。小帳で負けの込んだ方々が、大帳で取り返そうと積み増した勘定だ。負けを取り返しにいく張り方は、賭けの中で一番筋が悪い。壁際三年の見物の口で言うのだから、間違いない。
――披露の大夜会は、初夏の宵に開いた。
ラインフェルス邸の大広間は二百の燭台に火が入り、開け放した窓から、庭の薔薇の匂いが夜気と一緒に流れ込んでくる。三年前に私が逃げ出したのと同じ社交界が、今夜は花嫁の主賓席を磨き上げて待っている。世の中というものは、つくづく帳尻の妙な生き物である。
最初の仕掛けは、静かに来た。
晩餐の席札である。席次に従って歩き出した客の流れに、淀みが二つ。……あのお二方の家は、五年前の狩猟会の一件以来、口を利かない間柄である。その当主同士が、卓の角で隣り合わせ。祝宴で火種が燃えれば、恥は主催の侯爵家がかぶる。
席札の歩き方は視線と同じで、流れを読めば淀みが分かる。私は家令を呼び、席札を二枚だけ、静かに入れ替えさせた。誰も気づかない。気づかれない仕事が、一番上等な仕事なのである。
――席次で祝宴に火を点ける。古典で、けちな手だ。本命は、別にある。
本命の報せは、前夜のうちに楽屋の筋から届いていた。
余興の仮面劇。演目は『壁の花と臆病な騎士』。三年前のデビューの夜の一件を、お伽噺の衣装に着替えさせて嗤う趣向である。一座の手配は残党の息のかかった興行主、演目は当夜まで伏せる約束。主催が知らぬまま舞台へ上げれば、満座の恥は花嫁ごと侯爵家がかぶる、という筋書きだ。
断らせてしまえば、それで済む。……済むのだけれど。
断れば、種が残る。あの夜の一件はこの先もずっと、私を嗤うための在庫であり続ける。在庫の棚卸しは、自分の手でやるに限るのである。
余興の刻限の前に、私は当主にひとこと断って、壇に上がった。
二百人の視線が、正面から来る。三年前は、この量の視線に背を向けて逃げた。今夜は、正面から浴びる。膝の裏が細かく震えているのは、内緒である。
「皆さま。余興の前に、古株から一席」
扇は、開かずに手の中へ収めた。今夜は、口元を隠さない。
「三年前のデビューの夜、わたくし、生まれて初めて踊りを申し込まれましたの。……お相手のお目当ては、わたくしではなく、お仲間内の賭けでしたけれど。題目は『壁の花と踊れるか』。わたくし、断って、逃げましたわ。裏口までの廊下の、長かったこと」
会場のどこかで、扇の落ちる音がした。
「以来わたくし、賭けの種としては王都で一番の古株ですのよ。三年物ですわ。――本日より、銘柄が変わりますけれど」
一拍。
それから、笑いが来た。嗤いではない。丸い方の、軽い方の、あの音である。三年前の廊下で私の背中を細く削ったのと同じ人の群れから、今夜はこの音が出る。人というものは、と勘定しかけて、やめた。今夜は勘定より、舞台なのである。
余興の仮面劇は、幕が上がらなかった。種を本人に先に棚卸しされた笑い話を、いまさら仮面でなぞっても、客は笑わない。興行主は青い顔で演目を差し替え、ありきたりの恋歌がひとつ歌われて、それきりだった。
壇を降りる私に手を貸しながら、当主は満座へ届く声で言った。
「三年前にあなたと踊り損ねた男たちは、王都史上最大の目利き損ないだ」
……この方は時々、こういうことをなさる。
耳の後ろが熱い。三年物の古株にも、まだ火の入る場所が残っていたらしい。
――閉会の鐘が鳴った。
破談の届けは、出なかった。
精算は、その夜のうちである。帳場の前は見物の人垣で、ザロモンの口上は夜気によく通った。
「大帳、期日をもって不成立。命題側二百四十口・金貨四百六十枚は、没収。口銭一割を差し引き、受け手二十八口・金貨九十五枚へお配りいたします。配当、およそ五倍と三割」
開帳の日の見込みは、二十五倍だった。それが五倍と三割。ずいぶん堅くなったものである。二百四十人分の「壊れてほしい」は口銭を引かれて、転ばない方に張った二十八人の財布へ流れ込んだ。大帳一枚が丸ごと空振りした音は、白墨の掲示一枚で、王都中に響き渡ったのである。
――その夜、私は生まれて初めて、夜会の主賓席に座った。
床の真ん中の、一番いい席。三年間、壁際から遠目に眺めるだけだった席である。欲しかったもののはずだった。嗤った連中がこれから頭を下げに来る、あの席。実際、今夜は何人もが祝辞を並べに来て、下げ慣れない頭を下げて帰っていった。
――なのに、変なのである。
壁際からは、会場の全部が見えた。この席から見えるのは、祝辞の列と、燭台の火と、それから。
……気がつくと、隣ばかり見ている。
客あしらいの合間に当主がこちらを窺って、目が合うと、目元だけで笑う。ただそれだけのことが、三年欲しかった席の景色より、よほど効く。
――この勘定は、何の勘定かしら?
名前を、私はまだ知らないのである。
◇
精算の夜更け、人垣の引いた〈金天秤〉の前。黒い手袋の紳士がひとり、白墨の数字を長いこと眺めていた。没収、四百六十。配当、五倍と三割。読み終えた紳士は、独り言のように呟く。
「見事な興行だ。……だが、客を潰す興行は長続きせんよ。賭けは、潰す側より育てる側が勝つ」
店仕舞いの手を止めぬまま、帳場の主は目も上げない。その手袋の主がどこの誰か、とうに見当のついている顔である。