余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~   作:月城 友麻

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11. 黒手袋の理事

 大帳一の精算から半月。夏の入りの王都は、石畳が朝から熱を持ち始める。

 

 〈金天秤〉の黒板は、拭かれたそばから新しい白墨で埋まった。

 

『ラインフェルス家の婚約、収穫の舞踏会の閉会までに破談の届けが出る』

 

 八枚目にして、大帳の二枚目である。

 

 命題側、九十口、金貨四百枚。受け手側、百三十口、金貨四百五十枚。

 

 口数はとうに受け手が上回り、金貨でも上回った。それでも私は、命題側の数字の前で足を止めた。

 

 九十口で、金貨四百枚。一口あたり四枚半。今までの帳の、倍を超える張りの太さである。しかも家令の筋によれば、そのほとんどは開帳の直後、たった数人の代理人の手で一度に積まれたという。素人の財布の開き方ではない。負けを取り返しに行く熱でもない。冷えた、勘定ずくの金である。

 

「損な側へ、玄人の金。……手前ども、こういう帳がいちばん眠れませんので」

 

 と、ザロモンは掲示を見上げて言った。眠れないのは、こちらも同じである。

 

 夏の帳場前は、朝から見物が絶えない。撒いた水が石畳の上ですぐに乾いて、白墨の粉と埃が同じ白さで浮く。数字を眺める顔ぶれも、この頃は様変わりした。嗤いに来る顔が減って、成り行きを追う顔が増えている。読み物になってきたのだ、私たちの婚約は。

 

 ――その週、貴族院の夜会があった。

 

 理事のお歴々が主催する、堅苦しい席である。夏の夜会は、扇が実用になる。三年間、顔を隠す道具だったものが、今夜はどの手の中でも風を送っている。

 

 祝辞の列の、いちばん最後に、その人は来た。

 

 五十半ばの伯爵。仕立てのいい灰色の礼服に――真夏だというのに、黒い手袋。

 

 革は上物で、けれど妙に、働いた革だった。指の腹のところだけ、艶が違う。数えるものを数え続けてきた手の艶である。

 

「ギースベルトと申します。貴族院の理事を務めております。……このたびは、見事な興行でした」

 

 興行。

 

 帳場の言葉である。貴族の祝辞の口から、出てくる言葉ではない。

 

「あら。興行主は帳場ですわ。わたくしどもは、ただ負けないだけですの」

 

「ええ、ええ。それがよろしい」

 

 伯爵は目を細めた。細めた目の奥が、読めない。

 

「ですがな、ご令嬢。賭けというものは、潰すより、育てる方が儲かりますぞ。……ご参考までに」

 

「ご忠告として承りますわ。どなたの帳簿のお言葉かしら?」

 

「年寄りの独り言ですよ」

 

 一礼して、去っていく。背筋の伸びた、急がない歩き方である。

 

 扇の風が、急に生ぬるくなった気がした。気づけば、手にびっしょりと汗をかいている。

 

 ――読めなかった。

 

 視線は泳がない。値踏みの間もない。世辞の狙いも出てこない。あの当主の白紙とは、違う。白紙ではなく、帳が厚すぎるのだ。頁をどれだけめくっても背表紙に届かない、そういう厚みである。

 

 壁際三年の目が、初めて空振りをした。

 

 数日して、家令が調べの首尾を持ってきた。大口の代理人は三人、いずれも雇い主を明かさない稼業の者。金の出た筋を遡ると、川向こうのどこかで、糸がぷつりと切れる。切り口は毎度同じだという。

 

「切り口が同じ、というのは?」

 

「同じ(はさみ)で切られている、ということでございます」

 

 家令は、それだけ言って下がった。物静かな人の言う怖い話ほど、怖いものはない。

 

 帳の中身も、変わり始めた。

 

 破談が出る出ないの見物の下に、この頃は妙な囁きが付いて回る。曰く、花嫁には隠れた恋人がいるらしい。曰く、侯爵家の完済は作り話らしい。転ぶか転ばないかの見世物から、泥を掛け合う醜聞へ。……賭けの育て方をご存じの方が、餌の配合を変えたのである。

 

 その夜会の帰りの馬車で、当主は珍しく、長いこと黙っていた。

 

 窓から入る夜風が生ぬるい。遠くでゴロゴロと雷が鳴っている。夏の雷は、鳴るだけ鳴って、なかなか落ちないものである。

 

 石畳の音だけが続いて、やがて、ぽつりと言った。

 

「……あの男が、苦手だ」

 

 理由は、付いてこなかった。

 

 理詰めの人である。苦手の後ろには理屈が三つも四つも畳んであるはずで、そのどれも口にしないと決めた声だった。

 

 私は、裏書きを検めなかった。検めるまでもない。理屈を全部呑み込んで、それでもはみ出した一語だけが、隣に落ちてきたのである。素の言葉というものは、裏を読むものではなく、重さを量るものだ。

 

「承りましたわ」

 

 と、私は言った。

 

「苦手は、覚えておきますの。理屈より、正直ですもの」

 

 当主は窓の外を見たまま、少しだけ頷いた。

 

 雷が、また遠くで鳴った。落ちない雷ほど、長く続くのである。

 

       ◇

 

 同じ夜、川向こうの倉庫街、灯りを絞った奥の間。若い者が伺いを立てた。

 

「表の〈金天秤〉へ、仰せの通り、代理を三筋に分けて金貨三百を」

 

 黒い手袋の主は、帳面から顔を上げない。「結構。……いい帳に育つ。水をやりなさい」。若い者は短く一礼して、闇へ下がった。棚の奥では、符丁の判を押した青い札の束が、封をされたまま次の出番を待って眠っている。

 

      ◇

 

 ――数日後。

 

 社交界に、妙な紙が出回り始めた。

 

 署名のない、熱烈な恋文の写し。宛て名は――私、である。

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