余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
次に出回ったのは、恋文より質の悪い紙だった。
古い借用証の写しである。署名は、先代のラインフェルス侯爵。宛先は伏せてあるが、金額は目を疑う桁で、日付は十年ほど前。写しは丁寧に封筒へ納められ、蝋で封じて、社交界の噂好きの家々へ届けられていた。
曰く、賭博の家系。曰く、完済は作り話。曰く、署名はいまも軽いまま。
〈金天秤〉の十枚目は、その噂をそのまま帳にした。
『季次の債務名簿の公示に、ラインフェルス家の残債が載る』
命題側、十五口、金貨三十八枚。受け手側、四十五口、金貨百二十枚。期日は公示日、判定は貴族院の名簿である。
名簿は季節ごとに貴族院の壁へ貼り出される、貸し借りの公の記録だ。載れば事実、載らねば作り話――判定として、これ以上なく堅い。堅いのに、命題側に十五人。写し一枚の焚き付けで、人はまだ、転ぶ方に金貨を出すのである。
届いた封筒を、私はひとつ、手元に取り寄せた。
……匿名の手紙に、判で押したような封蝋。
妙な取り合わせだこと。私は紋の形を、胸の帳面に写し取っておいた。
恋文は、私を笑い者にしに来た紙だった。笑い返して、それで済んだ。
この紙は、違う。あの方が三年かけて閉じた帳を、こじ開けて売り物にしに来た紙である。読み終えて、指先が冷えているのに気づいた。怒りにも温度の低い側がある、というのは、三年の見物でも知らなかった勘定である。
◇
その週の夜会――。
当主は自分から満座の前に立った。
噂というものは、当人に届く場所では囁かれない。ざわめきの止み方で、それと知れるだけである。当主が壇の際に立つと、広間の扇がいっせいに角度を変えた。見たいけれど、見ていると思われたくない角度である。
祝いの杯を借りて、短い挨拶を、と前置きして。
「近頃、私の父の署名が入った古い紙が、皆さまのお手元を巡っているそうです。……本物でしょう。父は晩年、賭けに沈みました」
会場が、しんとした。醜聞の的が、醜聞を自分の口で読み上げている。
「父は、弱い人でした。ですが、父を沈めたのは
一拍おいて、当主は静かに付け足した。
「ラインフェルスの署名の重さは、これから利子をつけて、返してもらいます」
誰に、とは言わなかった。言わない、という凄みだった。
静けさのあとに、拍手は来ない。代わりに、年配の紳士がひとり、無言で杯を掲げる。ひとつ。またひとつ。あちこちで杯が上がり、乾杯の声のない、静かな杯の森ができた。醜聞を焚き付けた側が望んだ絵とは、ずいぶん違う絵である。
――三年かけて、閉じた帳。
雨の書庫の一語が、遅れて帳尻を合わせに来た。あの日この方が私の傷に押してくれた「完済」の印は、借り物の言葉ではなかったのだ。自分の手で三年、父の負けを一枚ずつ閉じてきた人の、手垢のついた言葉だったのである。
壇の下へ戻ってきた当主の指が、卓の杯を取り損ねて、一度だけ空を掴んだ。
「……あなたの型を借りた」
と、当主は言った。
「恥は、人に暴かれる前に、自分の声で語る。あなたが披露の夜にやってみせた型だ。……存外、膝が震えるものだな、あれは」
「震えても、声は真っ直ぐでしたわ」
扇の内で、私は本当のことだけを言った。
「それに、お行儀のいい借り方でしたもの。型の貸し賃は、結構ですわ」
本当は、震える指に扇を貸して差し上げたかったのである。やめておいた。この方の震えは、隠すための震えではない。払い終えた者の、勘定の済んだ震えである。隣で見届けるのが、正しい作法というものだ。
――公示日は、日盛りだった。
貴族院の壁の名簿の前に、日傘の人垣ができる。白い壁は日を撥ね返して目に痛く、焼けた石の匂いがする。ラインフェルスの項に、残債の記載は、ない。完済の登記だけが、去年の冬の日付で、涼しい顔でそこにあった。三年かけて閉じた帳の、閉じ終わりの日付である。
夕刻、ザロモンの口上である。
「本帳、期日をもって不成立。命題側十五口・金貨三十八枚は没収、口銭を引いて受け手四十五口へお配りします。……配当は、二割に欠けます。儲け話とは、もう呼べませんな」
儲からない賭けに、それでも受け手が四十五人。白墨の数字の意味が、少しずつ変わり始めているのだ。転ばない方に張るのは、この頃の王都では「儲け」ではなく「見立て」の表明になりつつある。あの二人は転ばない――そちらに名を連ねること自体が、ちいさな社交なのである。
――その晩、劇場通りから報せが来た。
コンスタンツェの、舞台のよく通る声がそのまま乗ったような筆で、一行。
『見つけたわ。三連で畳みかける癖の筆。……ずいぶん、怯えているけれど』