余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
筆の主は、劇場通りの外れ、質屋の二階に住んでいた。
売れない座付き脚本家、通り名は「先生」。年の頃は四十がらみ、着た切りの上着の袖口で、指先だけがインクに若い。コンスタンツェの案内で軋む階段を上がると、先生は書き物机の前で、私たちを見て紙のように白くなった。
「ち、違う。私は何も」
「まだ、何も伺っておりませんわ」
「……何も書いていない」
「あら、それは嘘ですわね。夜の湖は、あなたの沼でしょう?」
観念するまで、四半刻もかからなかった。机の抽斗には私宛ての恋文の下書きが束であり、その下から、見覚えのある韻律の紙が出てきた。
求婚の口上の、控えである。
「……仕事は、選べる身分じゃないんです。青い札の借りがある。断れば、証文が回る。書けば、一枚破ってもらえる。それだけで」
語尾が、消え入った。この人は悪党ではない。悪党の道具箱に入れられた、筆である。
「書付が、あるんですのね?」
先生は頷いた。
「三流には三流の知恵があります。昔、一度書き逃げされましてね。以来、依頼は書付がなければ受けません。仲介の署名入りで、全部取ってあります」
抽斗の奥から出てきた書付の束には、依頼の文言と、癖の強い仲介人の署名。……紙を残さない流儀のお方も、筆一本は書かせずに済まなかったのである。仕掛けの末端には、どうしても紙が要る。
「先生。それで、逃げますの?」
「に、逃げるしか……川向こうに知れたら、私は」
「隠れた人は、消えても誰も気づきませんの」
私は、机の上の書きかけの台本を指した。
「番付に名前の載った人は、消えれば王都中が気づきますわ。――先生。逃げ場ではなく、仕事はいかが?」
後ろでコンスタンツェが、舞台のよく通る声で笑った。
「うちの一座、筆の速い座付きを探していたのよ。三流? 結構。直せば二流になるわ。うちのお客は、二流がいちばんお好きよ。ふふっ」
◇
――先生の名が一座の新作の番付に載った翌日、〈金天秤〉に十一枚目が立った。
『一座の新作、初日の幕が開かない――座付きの名が番付から消える』
命題側、十口、金貨二十五枚。受け手側、三十口、金貨八十枚。
人ひとりが消える方に、金貨二十五枚。賭けの質が変わり始めている、とは前から感じていたけれど、ここまで来ると質の話ではない。底の話である。……よろしい。底まで見えれば、あとは潰すだけだ。
物証は、もうひとつ増えた。
帳場帰りのルッツ様が、封筒をひとつ、兄に差し出したのである。中身は、半分に裂かれた証文――余興の「報酬」として破られ、本人へ返された一枚だ。裂け目の下に、符丁の青い判が残っている。
「僕の恥です。……でも、恥の書付は、証拠にはなるでしょう」
受け取った当主は何も言わず、弟の肩を一度だけ叩いた。兄弟の帳尻に、言葉は要らないらしい。
◇
――その夜、子爵家の食堂の卓に、紙が三種類並んだ。
求婚の口上の控え。依頼の書付の束。裂かれた証文の写し。
燭台の火を挟んで、当主と私は出し方の順番を詰めた。どの紙を先に出すか。誰の口で語らせるか。貴族院のどの扉から入れるか。茶が二度冷めて、蝋が一段短くなった。
「証言は、僕がします」
帰りぎわのルッツ様は、「あの口上を読んだのは僕だ。なら、破るのも僕の口です」と言い置いていった。言葉の帳尻が、ちゃんと合っている。
「……揃いましたわね」
「揃った。あとは、指してください」
当主は紙の束を整えて、目元だけで笑った。
「あなたが指して、私が動く。――いい分業だ」
対等、という言葉の座り心地を、私はこの夜、初めて知ったのだと思う。読むだけの三年に駒が付き、盤が付き、隣に、同じ盤を見る人が付いたのである。
◇
――初日、幕は開いた。
番付の墨の名前は、消えなかった。
ザロモンの口上は、短い。
「本帳、不成立。命題側十口・金貨二十五枚は没収、受け手三十口へ。……人さまの
帳場の主が口上に私情を挟んだのを、私はこの夜、初めて聞いた。
◇
初日の劇場通り。木戸の前の番付に、新しい座付きの名が墨も黒々と掛かっている。呼び込みが節をつけてその名を歌い上げ、木戸銭の列は角を曲がってなお続く。袖では当の本人が、幕の隙間から満員の客席を覗いて泣いていた。三流の筆の新作は、身の程知らずの大入り。「消える」方に張った十人だけが、財布ごと静かに消えていった。
卓に残った三種の紙を、私はもう一度眺めた。
これが貴族院に届けば、「最初の求婚は賭けの余興だった」が公の事実になる。帰責の条項に、手が届く。届けば――私に、三十日の解消権が生まれる。
……届いてしまうのだ。
選べるようになる、ということが、こんなに落ち着かない勘定だとは思わなかった。扇を閉じて、開いて、また閉じる。夜の食堂の燭台が、じじ、と小さく鳴いた。