余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
『解消権の期日前日までに、侯爵が子爵家の門をくぐる』
命題側、三十口、金貨八十枚。判定は、社交紙の張り番である。
……禁を破るに決まっている、という読みだ。三十日も待つだけの我慢が利く男はいない、期日が迫れば談判に来る、その瞬間を紙面が押さえる――そういう筋書きに、三十人。
おかげで当家の門前には、朝夕交代の張り番が住み着いた。物陰の帽子が、日に日に寒そうになっていく。雨の日は軒下、風の日は壁際。壁際の住み心地なら王都で私が一番詳しいのだけれど、教えて差し上げる筋合いもない。三日目、父が見かねて
――さて、こちらの仕事である。
手口一覧は、父の書斎に置くだけでは勿体ない。
十七人の名前には十七の家があり、十七の家には、十七人の母親がいる。
私は、お茶会を開いた。名目は、秋の菓子の披露。お招きしたのは、一覧に名のあった家の奥方たちである。皆さま、息子の借金や醜聞で、多かれ少なかれ肩身の狭い思いをしてこられた方々だ。
茶菓子が一巡りしたところで、私は一覧の写しを、卓の真ん中にそっと置いた。
「ご参考までに。……型、と申しますの。賭けのお誘いが来て、証文に変わって、醜聞の駒に育ちますの。うちの義弟になる方も、この型にはめられましたわ。皆さまのご子息が弱かったのではありませんのよ。型が、よく出来ておりますの」
しばらく、誰も口を利かなかった。
やがて、いちばん年上の奥方が写しを手に取り、眼鏡を掛け直して、最後の頁まで読んだ。読み終えて、ひとこと。
「……うちの息子は、弱いのではなかったのね」
「ええ。型が、上手でしたの」
奥方は写しを畳んで、袖に納めた。拝借しますわ、妹の家にも息子がおりますの――それが、網の最初のひと結びだった。
誰を訴えるでもない。誰の名も挙げない。挙げられる証拠も、まだない。
ただ、型をお見せしただけである。
――母親というものを、私は少し、見くびっていたのかもしれない。
一覧は写しに写しを重ねて、半月で社交界の裏側を一巡りした。効き目は、招待状の数に出た。とある筋の集まりから、客が減る。とある筋の縁談が、音もなく引く。出入りの商人が、青札の匂いのする取引から手を引き始める。
誰も裁いていない。誰も訴えていない。ただ王都中の母親が、息子の財布と縁談の紐を、同時に締めただけである。
裁きより静かで、裁きより、よほど速い。
効き目のほどは、思わぬ筋からも聞こえてきた。〈金天秤〉のルッツ様の耳である。曰く、川向こうの取り立てが、この頃は手ぶらで帰ってくる。曰く、青札を嫌がる質屋が増えた。曰く――新しいお客が、この半月、ひとりも来ていない。
◇
裏帳場の帳面に、この秋、新しい頁ばかりが増えていく。貸し倒れ。貸し倒れ。また貸し倒れ。取り立てに行った先では、母親が仁王立ちしている。誘いの文は開かれもせずに暖炉へ入り、若い客は来ず、古い客は逃げ、青い札の束は棚で埃をかぶり始めた。それでも帳面の主は、表の大帳への積み増しをやめない。やめれば、負けを認める勘定になるからである。
――大帳の方にも、変化が出た。
千三百五十口まで膨れた命題側から、五十口がまとめて「降り」たのである。締切前なら、口銭一割を払って降りられる規則だ。儲け損なうより、一割の損で逃げる。玄人の判断である。素人はまだ「行使に決まっている」と笑っている。傾いた帳から先に逃げるのは、いつでも玄人の方なのだ。受け手は四百口、金貨千四百枚。
降りた五十口の顔ぶれを、私は掲示の前で読んでみた。読める。読めてしまう。いずれもモーリッツ様のお仲間筋――内輪の事情に近い方々である。内側から先に、信心が折れ始めているのだ。
――その週、借財の返済の手続きで、父の
廊下の向こうから、見覚えのある長身が歩いてきた。
公務である。向こうは書類を抱え、こちらは帳面を抱えている。立ち止まれば、張り番の思う壺。声を掛ければ、禁の際を踏む。
当主は歩調を変えず、すれ違いざま、遠目のまま浅く一礼した。
私も、扇の角度だけで返した。
廊下の高窓から、秋の薄い日が落ちている。靴音が二つ、重なって、離れていく。ただそれだけの音である。
それだけである。それだけのことが、妙に、三日ぶんくらい効いた。効いた、というのがどういう勘定なのか、名前はあいかわらず分からないままである。歩き去る背の伸びた後ろ姿を、振り返らずに済んだ自分を、少しだけ褒めておく。
――前日の夜が、来た。
侯爵は、門をくぐらなかった。
張り番の帽子が、街灯の下で所在なげに濡れている。小帳は空振り。三十人の描いた「我慢の利かない男」は、王都のどこにもいなかったのである。
明日は――期日である。