余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
最後の小帳が立った。
『期日の朝、令嬢は宣言の場に現れない』
命題側、十五口、金貨四十枚。精算は明朝、と帳場も公示した。
宣言の場、というのは、貴族院が期日の朝に設ける席である。行使か、不行使か。本人の口から聞き届けて、権利の帳を閉じる。このたびは異例の注目ゆえ、傍聴も入るという。
……現れない、に張るとは。
大帳二の受付は、三日前に締め切られた。前日までに、さらに五十口が降りた。
命題側、千二百五十口、金貨二千九百枚。受け手側、五百口、金貨千八百枚。
もう、数字は動かない。あとは明日を待つだけの、前夜の静けさである。帳場の前の人垣も、今夜は口数が少ないという。祭りの前の晩は、誰でも少し、静かになる。
当家はといえば、父が昼から三度も「明日は何を着るのだ」と聞きに来た。着るのは私で、答えは三度とも同じである。母の若草色を仕立て直した、あの一着。あの方と初めて並んで出た夜と、同じものだ。
――夕刊の社交紙に、小さな記事が載った。
貴族院の定例の議事で、ラインフェルス侯爵が発言を求めたという。議題は別件だったが、締めにひとことだけ添えたそうだ。
曰く――明日、エルツベルク子爵令嬢が何を選ばれても、ラインフェルスは異を唱えません。
私に宛てた言葉では、ない。公務の席の、公務の発言である。禁の外から、禁を破らずに届く、たった一つの窓をこの人は選んだ。中身はといえば、期日の前夜にわざわざ「どちらを選んでも構わない」と重ねる、念押しである。
……最後の最後まで、圧を抜きにかかるのだ、この方は。
囲わない。追い詰めない。逃げ道の灯りを期日の前夜にもう一度だけ点け直して、あとは黙る。三十日前、応接間で盤の駒を全部引き上げていった人の、これが最後の一手だった。
――夜、来客があった。
ルッツ様である。帳場の勤めを終えたなりの、白墨の粉のついた袖のまま。
「明日の前に、どうしても、お話ししておきたいことがあって。――先に申し上げますが、兄は僕がここへ来たことを知りません。知られたら、たぶん止められました。これは使いじゃない。僕が勝手に払いに来た、僕の借りの話です」
応接間で、父が茶を出してくれる。出してから、気を利かせたつもりの顔で、壺と一緒に下がっていった。
「兄の話です」
と、ルッツ様は切り出す。
「僕は、兄が苦手でした。正しくて、静かで、隙がなくて。……でも帳場に勤めて、勘定の裏が少し読めるようになって、分かったことがあります」
父の借金の話を、この人は弟の目の高さから語った。
二十五で、家督と一緒に金貨の穴を継いだ兄。舞踏会を断り、狩りを断り、執務室の暖炉を細くして、それでも使用人の恩給だけは削らなかった三年。完済の登記が済んだ去年の冬の晩、祝杯も上げず、閉じた帳簿の上に手を置いて、長いこと座っていたこと。
「兄は、賭けが嫌いなんです。数字は嘘をつかないが、賭けは人を嘘つきにする、って。……なのに、あなたのことだけは王都中に賭けられている。帳場勤めの弟としては、冷や冷やしますよ」
ルッツ様はそこで少し笑って、すぐに真顔へ戻った。
「三十日、兄が何をしていたか、教えましょうか? ――何もしない、を、していました」
何もしない、を、する。
「一度だけ、夜中に便箋を前にして座っているのを見ました。半刻。……一字も書かずに、仕舞いました。それが、兄の三十日です」
……ずるい報告である。
聞かされた側は今夜、その半刻の白紙を抱えて眠らなければならないのだ。
ルッツ様は帰りぎわ、玄関で振り返って、頭を下げた。
「明日、あなたが何を選んでも、僕も異は唱えません。ただ、その、これだけは」
言い淀んで、それでも言った。
「兄を、よろしくお願いします。……いや、違うな。あなたを、兄に――どっちでもいいや。おやすみなさい!」
逃げるように帰っていった。口上というものは、自分の言葉になった途端に下手になるらしい。下手な方が、ずっといい。
扉の閉まる音を聞きながら、私は義弟というものの帳尻について考えた。求婚の口上で始まった借りを、この人は今夜の下手な口上で、きれいに返していったのである。
――眠れない夜だった。
寝台の
一番いい席。嗤った連中が頭を下げに来る客席。泣かずに座り切ってみせる、床の真ん中。……数えるそばから、景色がすり替わっていく。浮かんでくるのは玉座めいた主賓席ではなく、馬車の隣、書庫の隣、帳場の掲示の前の、隣なのである。
欲しかったものの中身が、変わっている。
いつからか、なんて検めるまでもない。たぶん、あの朝――「あなたの目を、飾りにしないこと」と言われた、あの応接間からだ。
窓の外が、白み始めた。
期日の朝である。