余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~   作:月城 友麻

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20. 行使しません

 期日の朝は、上等の秋晴れだった。

 

 貴族院の前は、開院前から人垣である。宣言の場の傍聴札は夜明け前に尽きたそうで、入り損ねた見物が石段の下まで詰めかけている。

 

 定刻、私は馬車を降りた。

 

 人垣が、ざっと割れる。三年前、誰にも見送られずに夜会から逃げた娘の入場としては、上出来の花道である。

 

 ――これで、まず一枚。

 

 『期日の朝、令嬢は宣言の場に現れない』の十五口・金貨四十枚は、私の靴が貴族院の敷石を踏んだ瞬間に死んだ。現れない方に張った十五人は、朝食の前に負けたわけである。

 

 宣言の場は、認定の日と同じ議場だった。

 

 傍聴席は満員で、扇の音ひとつしない。議長役の書記官が、型どおりに問う。

 

「エルツベルク子爵令嬢。認定に基づく解消の権利につき、本日が期日である。意思を述べられよ」

 

 私は、立った。

 

 三年間、壁際で数えるだけだった量の視線が、今日は全部こちらを向いている。膝の裏は、震えていない。今日は、震える理由がないのである。

 

「解消権は――行使いたしません」

 

 ざわ、と議場が揺れた。

 

 揺れ切る前に、続ける。

 

「理由を申し上げますわ。わたくし、この婚約が――気に入っておりますの」

 

 二度目のざわめきは、一度目より大きかった。私は扇を、ぱちりと一振りする。

 

「賭けで始まったものを、いま、わたくしの意思で選び直しました。始まりがどうであれ、選び直したものは、わたくしのものですわ。――皆さま、どうぞお手元の札をご確認くださいませ」

 

 傍聴席の三分の一ほどが、気まずそうに視線を逸らした。皆さま、お手元に覚えがおありらしい。

 

 私は視線を上げ、高窓から差し込む朝日に大きく深呼吸をした。

 

     ◇

 

 ――夜。収穫の舞踏会である。

 

 行使の届が出ないまま日が暮れて、大帳二の命運は決まった。精算の口上は、舞踏会のはねた客が流れてくる頃合いを見計らって、帳場の前で読まれた。

 

「大帳、期日をもって不成立。命題側千二百五十口・金貨二千九百枚は、没収。口銭一割を差し引き、受け手五百口・金貨千八百枚へお配りいたします。配当――二倍と、三割五分」

 

 どよめきと、ため息と、あちこちで安堵の息。

 

「大儲けを狙った皆さまには残念な、堅い商いの倍率ですわね」

 

 と、私は掲示の前で言った。転ばない方は、もう大穴ではないのである。二千九百枚の「行使するに決まっている」は口銭を引かれて、この社交季を近くで見てきた五百人の財布へ流れていった。

 

 ――帳場は、休まない。精算の板の隣に、もう次の帳が立てかけてあった。

 

 『聖夜の宮中夜会の閉会までに、破談の届けが出る』

 

 命題側、四十口、金貨六十枚。

 

 千二百五十口が、四十口。崩落、という言葉はこういう数字のためにある。受け手側には九百口、金貨二千四百枚が積まれて、盤面は完全に裏返った。

 

「破談に的中すれば、三十七倍とありますけれど。……誰も張りませんの?」

 

「負け癖のついた札は、買い手がつきません」

 

 ザロモンは眼鏡を押し上げた。それから受け手の側の数字を眺めて、独り言のように呟く。

 

「……九百口。この倍率で、なお張りますか?」

 

 何か言いかけて、帳場の主はやめた。数字の話をする時だけ声の張る人が、数字を前に黙るのを見たのは、初めてのことである。

 

 ――舞踏会の大広間で、その人は待っていた。

 

 三十日ぶりである。焦茶の髪、姿勢のいい長身、余計な音のない所作。何も変わっていない。何も変わっていないことがこんなに効くという勘定に、名前のない一行がまた増えた。

 

 私は歩み寄って、扇を閉じた。

 

 慈しむ瞳がじっとこちらを見つめている。

 

「三十日ぶりに、口を利きますわね」

 

「長かった」

 

 即答である。

 

 短い返しに、三十日ぶんが全部乗っていた。便箋の前の半刻も、書かれなかった字も、公務の席の念押しも、ぜんぶ。

 

「あら。何もなさっていなかったと伺いましたけれど?」

 

「何もしない、は、存外働く」

 

「存じておりますわ。……こちらは三十日、その何もしないを読まされましたのよ」

 

 楽が、始まった。旧式の三拍子である。楽団の指揮台で、あの楽長がちらりとこちらを見て、ほほ笑んだ。

 

 差し出された手を、取った。三十日ぶりの手は、手袋越しでも、あの夜と同じ温度だった。

 

 曲の二拍目で、ようやく腑に落ちる。今朝、議場で言った「気に入っておりますの」は、私の帳の外へ出た、最初の言葉だったのだ。言葉にしてみれば、なんのことはない。三十日どころか、ずっと前から、そこに書いてあった勘定である。

 

       ◇

 

 同じ夜、川向こうの奥の間。若い者は、戸口から動けずにいた。表の大帳で没収された積み金の高。裏の帳場が胴で受けた「行使せぬ」の張りに、払わねばならぬ配当の高。二つの数字を並べた帳面を前に、黒い手袋は長いこと黙っていた。やがて、頁を一枚だけ静かに破る。「……次の帳を立てなさい。賭けは、育てる方が儲かる。――育たなくなるまでは、な」。破られた頁が、火鉢の中で短く燃えた。

 

 ――翌朝、子爵家に一通の招待状が届いた。

 

 王家の縁の、封蝋も(はく)も別格の一通である。差出人の名を読み上げかけた父が、壺を取り落としかけた。

 

 レオンティーネ大公妃殿下。

 

 ……宮中で一番お暇な、そして一番お暇にしておいてはいけない方の、お名前である。

 

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