余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
最初に首を傾げたのは、招待客のひとりの老伯爵だったという。式の招待状と、後から届いた一通。二枚の紙を並べて、家令に問うたという。さて、どちらを信じたものかね? ……その問いが人づてに当家の家令の耳へ入り、私のところへ上がってきた時には、同じ手紙が七つの家に届いていた。
曰く――諸般の事情により、式は延期と相成りました。日を改めて、ご案内申し上げます。
差出はラインフェルス侯爵家。文面は丁重、紙は上物、そして家印の印章の写しまで押してある。……精巧な、偽物である。
手に取ってみると、腹の立つほど良い出来だった。紙の
見破ったのは、丁稚の網だった。帳場に出入りする刷り屋の筋で、見覚えのある符丁が動いた――ルッツ様が、月晦の給金袋より速く走らせてきた報せである。青札の筋の刷り屋。偽の招待状で一度死んだ手口が、今度は偽の延期状で生き返ったわけだ。前は日付ずらしの小細工、今度は延期の大芝居。同じ手が二度動けば、それはもう筆跡である。
報せの文の末尾には、丁稚の字で一行。『兄上には僕から報せます。そちらは招待客を』。……帳場仕込みの、手際のいい分業である。義弟の字は、この一年でずいぶん整った。
狙いは、読むまでもない。
招待客が「延期らしい」と足を止めれば、式の席は歯抜けになる。歯抜けの式は、成立しても半分死ぬ。あわよくば混乱で刻限が狂えば――大帳三の一点が、三千枚ごと的中する。
〈金天秤〉には、抜け目なく小帳も立った。
『宮中披露の宴が、式の前夜に開かれない』
命題側、八口、金貨二十枚。受け手側、三十口、金貨九十枚。期日は式の前夜、精算は宴の夜のうち、と掲示も出ている。
……宴が開かれない方に、まだ八人。偽状の効き目を信じた方々である。
八口、金貨二十枚。最初の帳は二百十七口だった。潰して回ったこの一年の勘定の、これが途中経過である。とはいえ、八人の狙いは配当ではあるまい。祝いの席に泥のかかる方へ張る手が残っている、というだけで、あちらの筋には十分な広告なのだ。
――さて、潰し方である。
偽状を偽と言い立てて回れば、言い立てた分だけ「延期」の二字が耳に残る。噂の打ち消しは、噂の餌にしかならないのだ。
こういう時は、新しい事件を作らないことである。
既にある事実を、置いて回るだけでいい。
大公妃の触れ――「式の前夜、宮中にて花嫁の披露の宴」。聖夜より前に公示された、日付入りの、動かぬ紙である。私はその写しを人数分仕立てて、招待客の当主たちへ順に届けて回った。口上は、ひとつだけ。
「延期の式のために、宮中が前夜の宴をお張りになると? ――触れの日付を、どうぞお検めくださいまし」
それだけ言えば、あとは向こうの帳が勝手に答えを出す。宮中の触れは、宮中の後続の公示でしか動かせない。取り消しも延期も、同じ公示録に載らなければ効力を持たない――家格のある家なら誰でも知っている理屈である。そして公示録に、撤回の一行はない。つまり宴は開かれる。宴が開かれるのに式だけが延びるということは、理屈の上で、あり得ないのだ。
差出人の知れない延期状と、日付の生きた宮中の触れ。どちらの紙を信じるかは、家格と日付が決めるのである。
効き目は、家によって色が違った。即座に偽状を破って火にくべる家。念のため、と二枚を並べて見比べる家。例の老伯爵は触れの写しを一読して、
「宮中の触れと差しで勝負する偽状とは、豪気なものだ。――出席するよ、無論。宴もな」
偽状は、一夜で死文になった。八人の期日は、宴の夜まで生き恥を晒すことになる。
――回覧は、三日三晩かかった。
冬の夜道を、馬車で回る。当主が同乗したのは、当主の同席が要る家格の家が半分あったからで、それ以上の理由は、帳面のどこにも書いていない。
冬の夜道は、馬車の中まで冷える。膝掛けを分け合うほどの間柄ではまだなく、火鉢を積むほどの旅程でもなく、つまりは外套と我慢である。三晩目には、雪がちらつき始めた。膝の上の触れの写しの束は、一軒ごとに軽くなっていく。
三晩目の帰り、車輪の音を数えているうちに、視界が斜めになった。
頬に、外套の肩の布地。羊毛と、微かに書斎の匂い。
温かい、と思ったところまでは、覚えている。
……あら。頬がブワっと火照ってくる。
三つ数えてから、私は身を起こした。起こしてから、言うことにする。
「――読み違えましたわ。肩の位置を」
「そうか」
「揺れましたの、馬車が」
「そうだな」
温かい手が優しく私の髪をなでた――。
そのあまりに自然な仕草に目が泳いでしまう。
温かい……。
読み違いを帳面につけるかどうかは来年の私が決めることにして、今夜のところは繰り越しである。
窓の外を、雪が街灯の光を横切っていく。降り始めの雪は、灯りのそばでだけ見える。……この冬の帳尻も、似たようなものかもしれない。近くにいた者だけが、降り始めに気づくのである。
――屋敷に戻ると、報せが待っていた。
ルッツ様のもとへ、川向こうから最後の使いが来る、という。