余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
貴族院の公開閲覧日は、月に二度ある。
登記の写しを誰でも検められる日で、普段は古い紙と埃の匂いの中、暇な書記官が
「隠しますか?」と当主は聞いた。
「いいえ。見せますわ」と私は答えた。
隠せば「後ろ暗い変更」の噂が育つ。噂という生き物は、隠し事を餌にした時がいちばん肥えるのだ。ならば満座の前で、堂々と
私たちは連れ立って閲覧室へ入り、係に写しを乞い、衆目の中で婚約の登記を確認した。花婿の欄。ルッツ・ラインフェルスの名に変更の線が引かれ、アルブレヒト・ラインフェルスと記されている。インクはまだ新しく、紙の上で艶を残していた。
閲覧室の顔ぶれを、扇の内で数える。夜会の常連が半分、社交紙の書き手が二人、そして見覚えのある扇の角度がいくつか――柱の陰のお仲間の、そのまたお仲間である。皆さま、熱心なこと。
「まあ……花婿変更って、あの、弔いの条項の?」
「戦死者の条項を余興に使ったの? 王国史上初じゃなくて?」
ざわめきが、さざ波から
――その日の夕方には、王都最大の公認帳場〈金天秤〉に、新しい賭けが立った。
〈金天秤〉は貴族街の外れ、劇場通りの角にある。看板は
『ラインフェルス家の婚約、披露の夜会の閉会までに破談の届けが出る』
命題側、二百十七口、金貨四百十二枚。
受け手側、三口、金貨十五枚。
白墨の数字を、私は当主と並んで眺めた。壮観である。王都中が、私たちの破談に財布を開けている。
三年間、壁際の私に興味を持つ人は誰もいなかった。それが今や、負ける方でなら王都一の人気者である。笑ってしまう。笑ってしまうのに、指先が少しだけ冷たいのは、四百十二という数字の重みだろう。二百十七人の「壊れてほしい」が、白墨のたった三桁で、こんなに静かに並ぶものなのか?
「お嬢様。冷やかしなら余所でお願いしますよ」
帳場の主が出てきた。小柄な老人で、銀縁の眼鏡に、指先の出る古い手袋。ザロモンといえば、王都の賭け好きで知らぬ者のない名である。
「冷やかしではありませんわ。勉強に参りましたの。この帳は、いつどうなれば精算ですの?」
「期日までに命題が成立すれば、命題側の的中。成立しなければ、命題側の掛け金は没収して、口銭一割を引いて受け手に配ります。それが期日式でございます」
「受け手の側は、いま配当が二十五倍とありますけれど」
「張り手が偏れば、薄い側が跳ねる。それだけの算術で」
老人は眼鏡を押し上げた。数字の話をする時だけ、声に張りが出る人らしい。
「あら。では、わたくしが受け手に張れば大儲けですのに」
「お嬢様は張れません。当事者ですので」
残念。生涯でいちばん堅い儲け話ですのに。
「ひとつ伺いますわ。わたくしどもが婚約を守ることは、八百長になりまして?」
ザロモンは眼鏡の奥で、初めて笑ったように見えた。
「花嫁が式へ歩くのを八百長とは、王都の誰も呼びません。仕掛けで命題を動かした者だけが、作為として帳場から消えます」
――帰りの馬車。
夕暮れの王都は、石畳が蜜色に染まる。窓枠に切り取られた光の中で、私は言った。
「潰しましょう、一枚ずつ」
「王都中を敵に回しますか?」
「いいえ、お客様に。負け続きの興行に、客は張りませんもの。張り手が消えれば、賭けは立ちません」
「具体には?」
「仕掛けが来ます。命題は期日式――待っていても破談は起きませんから、起こしに来るのです。それを空振りさせるか、仕掛けごと帳場に検めさせるか。どちらでも、張った方々の財布が痛みますわ」
当主は窓の外へ目をやり、それから静かに言った。
「家の全部を、あなたの采配に貸します。情報の筋も、家令も、登記の重みも。……指してください。私が動く」
三年間、壁際で読むだけだった目に、初めて駒が付いた。
読むだけの三年は、退屈で、静かで、そして誰にも要らないものだった。読めたところで、壁の花の読みなど誰も買わない。その目を「貸せ」ではなく「指せ」と言った人は、この方が初めてである。
扇の内側が、少し熱い。これは武者震いというものである。ほかの何かでは、ない。
◇
同じ夜、〈金天秤〉の帳場。ザロモンは新しい頁に「ラインフェルス」と表題を書き付け、しばし眺め、口銭の欄をそのままにした。受け手の欄には、たった三口。物好きが三人、と老人は呟き、蝋燭の火を細くする。「……久々に、興行らしい興行ですな」。帳場の言う興行とは、一夜で終わらぬ賭けのことである。長い興行は、帳場を肥やすか、潰すかの二つに一つだ。
数日後――次の夜会の楽団に、妙な気配がある、と家令が報せてきた。