余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
詫びの夜会は、常より人が多かった。
見物というものは正直である。扇の角度が、開演前の劇場のそれになっている。連れ戻された令息が壇上で何を言うか、婚約者の令嬢がどう返すか――今夜の社交界は、それだけのために着飾って集まったのだ。
〈金天秤〉の新しい帳はこうである。
『令息の帰還から詫びの夜会の夜までに、花婿をルッツへ戻す届けが出る』
命題側、三十五口、金貨七十枚。受け手側、九口、金貨二十五枚。
……つまり王都の三十五人は、私が「若い方」へ乗り換えると踏んでいるわけである。人の恋路を何だと思っていらっしゃるのかしら? 恋路ですらないけれど。
もっとも、数字はよく見ると面白い。転ぶ方は、最初の帳が二百十七口、次が四十八口、今夜は三十五口。白墨の数字が、帳を重ねるたびに痩せていく。反対に、受け手は三口、五口、九口。転ばない方に、少しずつ客が付き始めているのだ。負け続きの側からは客が降り、勝ち続きの側には客が増える。ザロモンの言う「それだけの算術」が、こちらの味方をし始めている。
張り手の顔ぶれも読めた。夜会の入り口で、扇の陰からこちらの足元ばかり見る方が何人か――転ぶのを待つ目は、角度で分かるのである。柱の陰の残りのお二人も、その中にいた。出入り禁止になったのはモーリッツ様おひとり。残りは懲りていないらしい。結構。懲りるまで、お付き合いいたしますわ。
壇上のルッツ様は、深々と頭を下げた。
「このたびの求婚は、私の不明でした。皆さまと、何より、エルミー……ヘルミーナ嬢に、心よりお詫び申し上げます」
名前を言い直したのは、愛称で呼ぶ資格がないと自分で気づいたからだろう。壇上の顔は、あの夜の幕のような白さではなく、ただの若い男の色をしている。
顔を上げたルッツ様は、脚本にない言葉を続けた。
「あの口上は……あの脚本は、僕の言葉じゃなかった。誰かが書いたものを、僕が読んだ。――でも、口にしたのは僕だ。それだけは、誰のせいにもできません」
場が、ざわりと揺れる。脚本。その一言は、座興の裏に書き手がいたという白状である。
言わずに済ませられる白状だった。言えば、自分が操り人形だったと満座に認めることになる。それでも言った。扇の内で、私は小さくその勇気を勘定に入れる。負けを自分の口で数えられる人は、賭場でいちばん立ち直りが早いのだ。
私は壇の下から、折り目正しく応じた。
「お詫びは、受け取ります」
「……ありがとう、ございます」
「それとは別に、皆さまへお報せしておきますわ。花婿の変更は、とうに済んでおります。当家は――お返しの受付はしておりませんの」
どっと笑いが起きた。三十五人分の財布の音が、しぼんで消える笑いである。
嗤いと笑いは、音が違う。三年前、廊下の向こうで聞いたのは、人を細く削る音だった。今夜のこれは、丸くて、軽い。同じ人の群れから、こうも違う音が出るものかと、私は扇の内で少しだけ聞き入った。
精算は当夜、空振り。届けなど、出るはずもない。三十五口・金貨七十枚は没収され、口銭を引いて受け手の九口へ配られた。今夜も、堅い方が勝ったのである。
夜会の帰り際、ルッツ様が私のところへ来て、もう一度だけ頭を下げた。
「あの……許していただけるとは、思っていません」
「ええ。許しはしませんの」
青年の肩が、小さく強張る。私は扇を閉じて、続けた。
「期待は、いたしますわ」
「……はい」
許しは過去に払うもので、期待は先に張るものである。三年前の私は、どちらも持ち合わせがなかった。誰かに期待するという勘定を、あの廊下に置いてきたからだ。……いつの間に、また張れるようになったのかしら? 閉じた扇が、掌の中でいつもより軽い。
その間、当主は一歩引いた斜め後ろに、黙って立っていた。前に出て庇いもせず、弟を叱って見せ場を作りもしない。私の言葉が終わるまで、ただ隣の位置を守っている。
守り方にも、型というものがある。この方の型は、静かで、正しい。守られ方を習っていない身には、その静けさが、かえって少し落ち着かないのだけれど。
「家の恥を、あなたは笑わないのだな」
帰りの馬車で、当主がぽつりと言った。
「笑いませんわ。嗤われる側の顔は、見飽きるほど知っておりますの」
当主はしばらく黙って、それから短く「そうか」とだけ言った。問い返しも、慰めもない。その置き方が、ちょうどよかった。傷は、覗き込まれると疼くが、隣に置かれたままなら乾いていくものである。
――兄君の裁定は、その翌日に下った。
ルッツ様、〈金天秤〉にて帳場の
「賭けた者は、帳場の裏側を見て学べ」
というのが言い渡しの全文だそうだ。嗤う側にいた人が、これからは王都中の賭けの後始末をして暮らす。裁きとして、これほど据わりのいい皮肉もない。聞けば当のご本人は「領地の謹慎より、まし」と受けたらしい。謹慎は独りだが、帳場には叱ってくれる人がいる。
◇
〈金天秤〉の裏の帳場机で、ザロモンは丁稚の初仕事を見ていた。釣り銭を二度間違え、掲示を一枚逆さに貼った侯爵家の弟君は、それでも夕方まで、一度も外の空を見なかった。冷やかしに来た客が「あの求婚の」と囁くたび、耳を赤くしながら、手だけは止めない。「……見どころは、ゼロではありませんな」と帳場の主は帳面に書かず、胸の内にだけ付けておく。帳面に書くのは、数字だけと決めている。
さて――「脚本」。
書いたのは、誰?
その紙一枚の出どころを、私はまだ知らない。知らないままでいてあげるほど、優しくもないのである。