余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~   作:月城 友麻

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8. 帳場の丁稚

 六枚目の帳は、こうである。

 

月晦(つきごもり)の給金日までに、丁稚が帳場を無断で欠ける』

 

 丁稚に、注釈は要らない。王都で一番有名な丁稚――ルッツ・ラインフェルス、元侯爵令息、現〈金天秤〉勤めである。期日は月晦の給金日、判定は帳場の出勤簿。逃げるか、逃げないか。人の性根を白墨で帳にする、いっそ清々しいほどの悪趣味である。

 

 命題側、二十二口、金貨四十枚。受け手側、十八口、金貨四十四枚。

 

 ――お気づきかしら?

 

 金貨の額で、受け手が上回ったのである。開帳の日から数えて、初めてのことだ。

 

 月晦の給金日、当主が弟君の様子を見に行くというので、私も同行した。

 

 昼下がりの〈金天秤〉は、精算前の静けさである。真鍮の天秤の看板が初夏の日を照り返し、店先の黒板では白墨の数字が乾いている。

 

 着いた時、丁稚はちょうど、表の板に新しい掲示を貼っているところだった。

 

『月晦の給金日までに、丁稚が帳場を無断で欠ける』

 

 ――自分の逃亡に金貨が張られた帳を、自分の手で、自分の職場の板に貼るのである。

 

 糊刷毛(のりばけ)が、一度だけ止まった。

 

 それから彼は紙の皺を丁寧に伸ばし、傾きを直し、一歩下がって検めて、また少し直した。頬のあたりが強張っているのは、遠目にも分かる。それでも、手は止めないのである。

 

 賭けの種にされる側の顔なら、私は三年分知っている。けれど、自分の名の書かれた帳を、毎朝自分の手で貼る側の顔は初めて見た。傷は、目を逸らしたぶんだけ育つ。この人は、育てない方を選んだらしい。

 

「兄上。……それに、ヘルミーナ様」

 

 振り向いた丁稚は、刷毛を持ったまま頭を下げた。

 

「笑いに来られたんですか?」

 

「見物には参りましたわ。笑うかどうかは、これから決めますの」

 

「……手厳しいな」

 

 ルッツ様は掲示を親指で示して、少しだけ笑った。あの夜の、幕のような白さはもうない。日に焼けて、指先に白墨の粉をつけた、働く人の顔色である。

 

「この帳、僕が一日欠ければ、二十二人が儲かるんです。楽な小遣い稼ぎに見えるでしょうね。……でも、僕はもう、人の筋書きで動くのはやめました。逃げたら、また誰かの脚本だ」

 

「それで、お勤めの首尾は?」

 

「散々です」

 

 と、答えたのは横から現れた帳場の主である。

 

「筋は悪うございます。手は遅い。釣り銭は二度に一度は間違える。先だってなど、間違えた分は自分の給金で埋めると言い張って、月の給金がほとんど消えました」

 

「覚えは悪くないんです。数字が、その、人より三拍遅いだけで」

 

「帳場で三拍は、遅いと申します。――ですが、休みません。賭けられた側の人間が、賭けの帳場で毎朝、板を拭いております。四十年帳場をやって、初めて見る図で」

 

 主従の言い合いに、当主の目元が緩んでいる。家の恥だったはずの丁稚奉公が、いつの間にか、ただの奉公になりつつあるのだ。

 

 帰り際、ルッツ様がふと声を落として、こんな話をした。

 

「先週、妙なお客が来ました。張りの掛け金に、金貨の代わりに青い札を差し出したんです。ザロモンさんが、聞いたこともない声で断りました。――あとで教わりました。表に出ない帳場があるんです。証文で客を縛って、精算は符丁(ふちょう)つきの青い札でやる。うちの白札と違って、外の店では金に換えられない。換えられないから、客は帳場から逃げられない」

 

 青い札。

 

 女優の楽屋に来た使いの、手袋のけばと同じ色である。糸は細いなりに、繋がり始めている。

 

 夕刻、出勤簿が検分され、精算の口上が読まれた。

 

「出勤簿、無欠勤。本帳、期日をもって不成立。命題側二十二口・金貨四十枚は没収、口銭を引いて受け手十八口へお配りします」

 

 受け手の側は、張った金貨がおよそ七割増しで戻る勘定である。大穴の倍率では、もうない。それでも受け手は増えていく。堅い方へ、堅い方へ、客が寄り始めているのだ。

 

 帰りの馬車で、当主が言った。

 

「弟は、あなたの前だと背筋が伸びる」

 

「あら」

 

「家の裁きより、あなたの一言の方が効いているらしい。……許しはしない、期待はする、というあれだ」

 

「期待は、先に張るものですもの」

 

 扇を開いて、閉じる。

 

「取り立ては、気長にいたしますわ」

 

「……弟には、過ぎた債権者だ」

 

 目元だけの笑いである。窓の外は暮れかけて、川端の柳が水面に濃い影を落としていた。

 

        ◇

 

 同じ月晦の夜、川向こうの倉庫街。灯りを落とした荷揚場の奥で、若い貴族が振ってはならぬ袖を振っていた。「あと十枚。いや、五枚でいい」。帳面の向こうの男は急かしも脅しもせず、新しい証文と青い札を静かに滑らせる。「ようございますとも。お貸ししたものは、いずれ利子ごと、働いてお返しいただくだけのことで」。男の手袋の縫い目には、青いけばが差していた。

 

        ◇

 

 ――その夜更けから、王都は雨になった。

 

 明日は貴族院へ、結納の届の控えを受け取りに行く日である。窓を打つ雨音を数えながら、私は青い札のことを考えている。白くない札。表に出ない帳場。証文で縛られて、逃げられないお客。

 

 ……糸の先は、どこまで太いのかしら?

 

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