余興の賭けの求婚にニッコリと「お受けしますわ」と即答しました ~逃げた令息の家門に婚約を履行させて、王都の賭け帳を全部潰します~ 作:月城 友麻
七枚目の帳が立った。
『社交紙の次号までに、「仮面の婚約」の実証記事が載る』
命題側、十八口、金貨三十六枚。受け手側、二十口、金貨五十枚。期日は三日後の次号、判定は紙面。
――口数でも、受け手が上回った。
金貨で抜かれ、口数で抜かれ、転ぶ方の帳は、商売としていよいよ傾き始めている。
仮面の婚約、というのが今度の筋書きである。私たちは家門の体裁で繋がっただけの他人同士で、二人きりになれば口も利かない――それを「実証」する記事が、次号に載るかどうか。載せるには証拠が要り、証拠には張り込みが要る。
というわけで、このところ視界の隅に、いつも同じ目がいる。
夜会で、仕立て屋の表で、教会の帰り道で。帽子と上着は毎度変わるのに、目の使い方が同じだから、すぐ分かる。見る仕事の目は、見たいものの半歩手前で、一度止まるのだ。壁際三年、同業でしたから、よく存じておりますの。
――結納の控えの受け取りは、雨の日になった。
貴族院での手続きそのものは
貴族院の書庫は、雨の音がよく響く。
高い明かり取りの硝子を、水の膜が絶え間なく流れ落ちていく。古い紙と革と、乾いたインクの匂い。棚と棚の谷間は夕方のように薄暗く、書見台の蝋燭がひとつ、小さな光の輪を作っている。
「落ち着きますわ、ここ。……壁際に、似ておりますの」
「暗くて、全部が見える席という意味なら、分かります」
「あら。お分かりになって?」
雨宿りには、雨宿りの作法がある。つまり、用のない話をするのである。
「普段は、何をお読みになりますの?」
「街道と橋の
「いいえ。橋は、裏切りませんものね」
「あなたは?」
「貴族名鑑ですわ。三年で四周いたしましたの」
当主は少し黙って、それから真顔で言った。
「……なるほど。あなたの武器庫だ」
それから話は、弟君の丁稚ぶりへ流れた。釣り銭の埋め合わせで給金の消えた月晦の後、ザロモンから毎朝「帳場の裏の理屈」の講義を受けているらしいこと。父の壺の話もした。荷馬車を返したはずの父が先日、袖の下に小ぶりの壺をひとつ抱えて出かけようとして、玄関で私に捕まったこと。
「『散歩だ』と申しましたのよ、壺を抱えて」
「壺は、散歩をするものですか?」
「いたしませんわ。ですから当家では目下、壺の散歩を禁じております……って何言ってるのかしら? はははっ」
――こらえ損ねて、声が出た。
自分でも聞き慣れない、素の笑い声である。扇を口元へ運ぶのを、忘れていた。
「あなたは笑うと、扇を忘れるのだな」
……あ。
頬に、遅れて熱が来る。壁際三年、笑いは全部、扇の内側で済ませてきたのに。素の口元を人に見られたのは、いつ以来かしら?
雨音の中で、私は白状することにした。この方には、こちらの帳尻を先に見せておきたかったのである。
「……わたくし、裏のない言葉は、受け取り方を習っていませんの」
言ってしまったので、続けた。デビューの夜の話である。生まれて初めての踊りの申し込みの、その直前に聞いてしまった、柱の向こうの笑い声。「壁の花と踊れるか」という題目。断って逃げた廊下の、あの長さ。壇の上で語れるほど乾いた傷ではまだないけれど、雨の書庫は薄暗く、聞き手は一人で、その一人は、湿った話を湿ったまま受け取らない人だった。
「その男の名前は?」
「存じませんの。顔も、覚えておりませんわ。……嗤った声の方だけ、覚えておりますの」
「では、その程度の男だ」
乾いた声だった。憐れみの湿り気が、一滴もない。
「名も顔も残さない声に、あなたは三年、利子を払い続けた。……もう、完済でいい。私にも、三年かけて閉じた帳がある。だから、確かだ」
――完済。
借金の話をしていたわけでもないのに、その一語は妙な場所へ届いた。誰かに裁いてもらう類いの傷ではない、と思っていた。それでも帳簿の言葉で「済み」の印を押されてみると、傷というものは案外、帳簿の側から乾き始めるものらしい。
「……帳場のような殿方ですこと」
「褒め言葉として受け取ります」
「あら、困りましたわ。半分だけですのに」
雨が、上がりかけていた。
石段の軒下で馬車を待つあいだ、壺の散歩の続きで当主がまた妙なことを言い、私はまた、扇を忘れて笑った。――しまった、と思ったのは笑い納めた後である。通りの向こう、雨上がりの往来に、例の帽子。
まあ、いいわ。見たままを、お書きなさいな。
三日後の紙面に、実証記事は載らなかった。代わりに載ったのは短い一段――「仮面説、撤回。両人、貴族院の軒下にて、扇を忘れて笑い合うところを目撃さる」。
……扇を忘れて、は余計である。
精算の口上は、いつもより短かった。
「本帳、不成立。命題側十八口・金貨三十六枚は没収、口銭を引いて受け手二十口へ。……配当は五割増し。大穴をお待ちのお客には、そろそろ退屈な帳場でございますな」
退屈。結構なことである。賭けというものは、客が退屈した時が死に時なのだ。
――その晩、侯爵家から使いが来た。
婚約披露の大夜会の日取りが決まったという。開帳から走り続けている大帳一の、期日である。
そして家令からも、報せがひとつ。出入り禁止を免れた残党の方々が、寄り合いで何やら大きい仕掛けを詰めているらしい。
……あちらさまも、期日がお目当てらしい。精々、賑やかな披露になりそうである。