王太子は、彼女を追い詰めているつもりだった。
だが彼は、根本的に相手を間違えていた。
古代魔法の研究に没頭する天才令嬢アリシア。
夜会はやがて、悪魔の頭脳が王国三百年の魔法史を揺るがす研究発表会へと変わっていく。
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「アリシア・フォン・グランベル!」
その声が大広間に響いた瞬間、楽団の演奏が止まった。
正確に言えば、止められたのだ。
王太子殿下が片手を上げ、楽長へ合図した。最後の一音が消え切るより早く、広間に集まった貴族たちの視線が、一斉に姉上へ向けられる。
私もまた、姉上を見た。
そして、思った。
終わった…。とうとう、この時が来てしまったのだと。
「私は今宵、この場をもって、お前との婚約を破棄する!」
王太子殿下は、よく通る声でそう告げた。
誰かが息を呑む音がした。
扇の向こうで囁き声が生まれ、すぐに押し殺される。王と王妃は上段の席に座ったまま、まだ何も言わない。宰相も、諸侯も、宮廷魔導師たちも、ただ成り行きを見つめていた。
姉上は、王太子殿下を見ていなかった。
天井を見上げていた。
いや。
天井そのものではない。
もっと上。
大広間を包む、王城の防護結界が重なるあたりを。
「……姉上」
小声で呼ぶ。
反応はない。
王太子殿下の眉が寄った。
「聞いているのか、アリシア!」
「ええ。聞いておりますわ」
姉上は視線を上げたまま答えた。
声は普段通りだった。
怒りもない。悲しみもない。震えもない。
あまりにも普段通りすぎて、かえって不自然だった。
「左様ですの」
それだけ言うと、また天井のほうへ目を戻す。
王太子殿下の顔が、見る間に赤くなった。
「左様ですの、ではない!」
「あら」
姉上が、ようやく王太子殿下を見る。
「ほかに何かございまして?」
「何か、だと?」
「婚約を破棄なさるのでしょう?」
「そうだ!」
「承知いたしましたわ」
姉上は静かに頷いた。
それで話を終えたつもりらしい。
私は、額を押さえたくなった。
いや、姉上。
そこはもう少し何かあるだろう。
驚くとか。
問いただすとか。
せめて理由を聞くとか。
あなたは王太子殿下の婚約者だったのですよ。
昨夜まで。
たぶん。
私が内心で頭を抱えていると、王太子殿下の隣に立っていた令嬢が、一歩前へ出た。
淡い桃色の髪。真珠を散らした白いドレス。伏せた睫毛の下には、わずかに怯えたような、しかし確かな勝利の色がある。
ミレーヌ・ベルナール伯爵令嬢。
ここ半年ほど、殿下のそばにいる姿をたびたび見かけるようになった女性だ。
「アリシア様」
彼女は、いかにも心を痛めているという顔で姉上を見た。
「どうか、殿下をお恨みにならないでくださいませ」
「恨む?」
姉上が首を傾げる。
「ええ。殿下は苦しまれていたのです。あなたの冷たい態度に。あなたの高慢さに。あなたが魔法以外のものへ、まるで心を向けないことに」
広間の空気が少し変わった。
何人かの令嬢が、扇の陰で顔を見合わせる。
ここからが本題らしい。
「そして、わたくしへの数々の嫌がらせにも」
弟として言わせてもらえば、嫌がらせをしている暇など姉上にはなかった。
姉上は一日の大半を研究室にこもって過ごす。食事の時間を忘れる。舞踏会の招待状を薬瓶の下敷きにする。花束を贈られても、花弁に残った魔力を分析し始める。
そんな人が、特定の令嬢を追い回して陰湿な嫌がらせをするだろうか。
ない。
絶対にない。
姉上は人を嫌う前に、まず興味を持たない。
「嫌がらせ?」
案の定、姉上は本気で分からないという顔をした。
「わたくしが、あなたに?」
「覚えていらっしゃらないのですね」
ミレーヌ嬢は傷ついたように胸元を押さえた。
「温室でわたくしの大切にしていた花を枯らしたことも。図書館で本を取り上げたことも。殿下とのお茶会に招かれたわたくしを、皆の前で辱めたことも」
「ああ」
姉上が、ようやく思い出したように言った。
私は嫌な予感がした。
「温室の件でしたら、あれは土壌の魔力濃度が高すぎたのですわ。枯れたのではなく、根が焼けたのです。あのまま放置していましたら温室全体へ広がっておりましたので、問題の株を処分いたしました」
「しょ、処分……」
「図書館の本は、あなたが禁帯出の古代術式写本を逆さに持って歩いておりましたので、返却しただけですわ」
「逆さ……」
「内容を理解していないものがもっているものではありませんでしょう?」
「…………」
「お茶会については――」
姉上は少し考えた。
「何かございましたかしら?」
ミレーヌ嬢が姉上をにらみつける。
「わたくしが、古代魔法など時代遅れだと申し上げた時です!」
「ああ」
今度はすぐ思い出した。
「訂正して差し上げましたわね」
「皆の前で笑いものにしたではありませんか!」
「ご自分から、意味も分からず術式の優劣を語り始められたのでしょう?」
「それでも、言い方というものが――」
「間違っているものを間違っていると申し上げただけですわ」
姉上は、いっそ清々しいほど悪びれなかった。
ミレーヌ嬢の頬が引きつる。
殿下が彼女を庇うように前へ出た。
「いい加減にしろ、アリシア。お前はいつもそうだ。人の気持ちを考えず、己の知識を誇示し、間違いを指摘することだけを楽しんでいる」
「楽しんではおりませんわ」
姉上は言った。
「間違いが放置されている状態が不快なだけですの」
広間のどこかで、誰かが咳き込んだ。
私は視線を落とした。
笑うところではない。
たぶん。
「それを高慢だと言っているのだ!」
「高慢?」
「そうだ!」
「ずいぶん曖昧な言葉ですのね」
「何だと?」
「知識のある者が、知識のない者へ事実を述べる。それを高慢と呼ぶのでしたら、教師は皆、随分と嫌われた職業になりますわ」
王太子殿下のこめかみに血管が浮いた。
隣ではミレーヌ嬢が唇を震わせている。
私は姉上の袖をそっと引いた。
「姉上」
「何ですの?」
「少し、お言葉を選ばれたほうが」
「選んでおりますわ」
即答された。なら、これ以上はどうにもならない。
私は諦めて手を離した。
それにしても。
姉上の様子は、やはりおかしい。
普段の姉上も、他人の感情に配慮するほうではない。だが、少なくとも王太子殿下との婚約について、ここまで無関心ではなかった。
いや。
無関心だったのかもしれない。
私がそう思いたくなかっただけで。
今朝のことを思い出す。
王太子殿下からの迎えが来ないと知った時、私は姉上が傷ついているのではないかと心配した。
――――――
姉上は朝食の席で、窓の外を見ながら黙り込んでいた。
紅茶へ砂糖を入れる手も止まっていた。
だから、私はてっきり殿下のことを考えているのだと思ったのだ。
『姉上』
『何ですの?』
『本日の夜会ですが、殿下からのお迎えがまだ――』
『ああ』
姉上は窓の外を見たまま答えた。
『北東ですわね』
『はい?』
『魔力の流れですわ。昨夜からわずかに偏っておりますの』
『……殿下のお迎えの話ですが』
『そうでしたの』
その時の私は、落ち込んでいるから話を逸らしたのだと解釈した。
今にして思えば、姉上は本当に魔力の流れしか見ていなかった。
『でしたら、私がエスコートいたします』
『助かりますわ』
『……姉上』
『何ですの?』
『いえ。何でもありません』
馬車の中でも、姉上は王城へ近づくほど機嫌を良くしていった。
私は、殿下に会えるからだと思っていた。
違った。
王城の結界が見えたからだ。
『面白いですわね』
『何がです?』
『結界ですわ』
『……結界』
『三層目だけ、魔力の返りが遅いのです』
あの時、もっと深く聞いておくべきだった。
いや、聞いたところで理解できたかは怪しいが。
――――――
現在へ意識を戻すと、王太子殿下はなおも姉上を責め続けていた。
「お前との婚約に、私は何年耐えたと思っている!」
「耐える?」
姉上の眉がわずかに動く。
初めて、少しだけ興味を示したように見えた。
「何をですの?」
「お前のその態度だ!」
「具体的にお願いいたしますわ」
「だから、そういうところだ!」
姉上は首を傾げた。
どうやら本気で分からないらしい。
「話が循環しておりますわね」
「お前は……!」
殿下が声を荒らげた、その時だった。
「殿下」
気づいた侍従が王太子を止めに入る、そこで低い声が広間に落ちた。
王が、ようやく口を開いた。
「続けるのは構わぬ。だが、これは公の場だ。感情ではなく、事実を述べよ」
「父上!」
「婚約を破棄するだけの理由があるのだろう?」
「もちろんです!」
殿下は姿勢を正した。
「アリシアは王太子妃として相応しくありません。臣下を見下し、社交を軽んじ、王族への敬意を欠いている。加えて、ミレーヌへの嫌がらせも明白です」
「明白、ですのね?」
姉上が口を挟む。
「黙っていろ!」
「でしたら、証拠をお出しなさいな」
「証拠?」
「明白なのでしょう?」
姉上は、今度こそ王太子殿下をまっすぐ見た。
「まさか、伯爵令嬢お一人の証言だけで、王家と公爵家の婚約を破棄なさるおつもりではございませんわよね?」
空気が変わった。
それまで半ば見世物として成り行きを眺めていた貴族たちが、急に真顔になる。
王家と公爵家の婚約。
それは男女二人の感情だけで決められるものではない。
領地。
軍事。
税。
派閥。
外交。
いくつもの利害が絡んでいる。
王太子殿下も、それに気づいていないわけではないはずだった。
しかし、恋に浮かされた者は、自分が世界の中心に立っていると思い込みやすい。
「証人はいる!」
「どなたですの?」
「ミレーヌの侍女たちだ!」
姉上は、ほんの少しだけ笑った。
「当人の使用人ですのね」
「それが何だ!」
「いいえ。何も」
何もではない。
広間の空気が、それだけで答えを出していた。
王は黙っている。
王妃も。
宰相は目を閉じ、何かを計算しているようだった。
殿下は自分の旗色が悪くなったことに気づき、声を張り上げた。
「それでも、お前が王太子妃に相応しくないことは変わらぬ!」
「左様ですの」
姉上はあっさり言った。
「でしたら、わざわざこんな場で破棄を宣言しなくともお受けしましたのに」
「……何?」
「わたくしも、特に異存はございませんもの」
今度こそ、広間が完全に静まり返った。
殿下も。
ミレーヌ嬢も。
王も。
私も。
全員が姉上を見た。
「異存が、ない?」
「ええ」
「お前は、私との婚約がなくなっても構わないと言うのか?」
「先ほどから、そう申し上げておりますわ」
「なぜだ!」
「なぜ、と申されましても」
姉上は少し困った顔をした。
「わたくしにとって、婚約は家同士の取り決めでしかございませんもの。必要とあらば従いますし、不要となれば解消する。それだけですわ」
殿下の顔から血の気が引いた。
たぶん。
殿下は姉上に泣いてほしかったのだ。
縋ってほしかったのかもしれない。
怒りを見せてくれれば、それでもよかったのだろう。
自分の選択が、姉上の心を大きく動かしたのだと確認したかった。
だが。
姉上は、本当に何も感じていなかった。
殿下が隣国へ行くと言われても。
新しい靴を捨てると言われても。
たぶん同じ顔をしただろう。
「それほどまでに、私へ関心がなかったのか」
「殿下」
ミレーヌ嬢が不安そうに殿下を見る。
姉上は少し考えた。
私は、頼むから考えずに適当に答えてくれと思った。
姉上は考えた末、正直に言った。
「そうですわね」
王太子殿下は、完全に言葉を失った。
私は目を閉じた。
駄目だ。この人は、嘘というものを、必要な時ほど使わない。
「ですが」
姉上が続けた。
「殿下」
王太子殿下が、かすかに顔を上げる。
姉上の表情には、今度こそわずかな熱があった。
「その頭上の結界術式」
殿下の顔が止まった。
「古代魔法の解釈が間違っていますわ」
誰も、すぐには反応できなかった。
何の話だ。
そう思ったのは、私だけではないはずだ。
「……結界?」
殿下が呆然と聞き返す。
「ええ」
姉上は上を指差した。
「先ほどから申し上げようと思っておりましたの」
「いや、待て」
「三層目の循環式ですわ。第二節から第三節へ移る際、本来は魔力を反転させるのではなく、位相だけをずらすべきですのに、現在の術式では完全に反転させておりますでしょう?」
「何を言っている!」
王太子殿下が思わず声を荒らげた。
「魔力を反転させるからこそ結界は成立するのだろう!」
「そうですわ!」
ミレーヌ嬢も勢いよく頷いた。
「循環式とは、そのための術式ではありませんの?」
「待て、グランベル公爵令嬢!」
「そのため、外殻へ流すはずの魔力が内側へ戻り、無駄に二巡しておりますの。これでは効率が落ちるだけでなく、強い衝撃を受けた際、内側から結界が裂けますわ」
宮廷魔導師の列から、椅子を倒す音がした。
一人の老人が立ち上がっていた。
白い髭を胸元まで伸ばした、王国の宮廷魔導師長、オルベール侯爵。
「今、何と申した」
その声は、震えていた。
怒っているのではない、驚いているのだ。
姉上は、ようやく自分の話を聞く者を見つけたように微笑んだ。
「第三節の位相転換ですわ」
「反転では、ないと?」
「ええ」
「しかし、古文書には“流れを裏返し、門を閉じよ”と」
「そこですわ」
姉上の声が弾んだ。
私は知っている。
姉上がこの声を出す時、もうほかのことは何も見えていない。
「“裏返す”という語は、当時の魔法体系では向きを変える意味ではございませんの。位相面を内から外へ移す、という意味ですわ。現代語へそのまま置き換えたから、解釈を誤ったのです」
「そんな……」
魔導師長は呟いた。
「では、三百年もの間……」
「間違っておりますわね」
姉上は楽しそうに言った。
楽しそうに言うことではない。
王国の防護結界が三百年間、誤訳を基に組まれていたという話だ。
その時だった。
「待ってください!」
魔導師長が、王太子殿下へ向き直った。
「殿下。一つ、お尋ねしてもよろしいですかな。」
「……何だ。」
「もし、グランベル公爵令嬢のお話が正しいとして、この術式を修正するには、どこを改めるべきだとお考えですかな。」
「そんなもの決まっているだろう。」
王太子殿下は、呆れたように肩をすくめた。
「反転ではなく位相転換なら、通り道だけを切り替えられるということだろう。」
「ようするに、橋が壊れていたからといって城に戻って修理を待つ必要はない。隣の橋を使えばいいということだ。」
静まり返る広間にも気付かず、殿下は続ける。
「結界効率も改善されるし、衝撃を受けても魔力溜まりが無いから内側から裂けることはなくなる。」
魔導師長は、今度はミレーヌ嬢へ向き直った。
「では、ミレーヌ嬢。循環式とは何ですかな。」
「魔力を止めずに流し続けるための基礎術式ですわ。ですから殿下のおっしゃるように通り道を整えればよいというお話なのでしょう?」
そこまで答えて、ようやく二人は周囲を見回した。
誰一人、口を開いていない。
「……何だ?」
王太子殿下が眉をひそめる。
「普通の貴族であれば、そのような言葉はまず出ません。」
魔術師長は静かに息を吐いた。
「……なるほど。自分の言葉で置き換えて説明できている。」
「長年グランベル公爵令嬢の話を聞き続けた結果、気付かぬうちに理論の考え方を身につけておられたのですな。」
「そんな馬鹿な!」
「本人に自覚がないからこそ驚いております。」
魔術師長は額を押さえた。
「……陛下!グランベル公爵令嬢に王太子妃などやらせている場合ではありません!王太子妃の政務など他の令嬢でもよいではないですか!」
その一言で広間が静まり返る。
王妃の表情がピクリを動いた。それに気づいた王の顔色が変わった。
「……魔術師長。」
王妃が静かに扇を閉じる。
みし、と小さな音がした。
「……陛下、グランベル公爵令嬢に雑務などさせるのは国の損失です!すぐにでも宮廷魔術師団で技術交か「オルベール侯!あとでお話があります。」」
にこやかな笑みのまま続ける。
「ええ、時間は取らせませんから、ご安心なさい。よろしいですね?」
王妃の表情を見た魔術師長の顔色が変わった。
「…………はい。」
「グランベル公爵令嬢、証明できるのか」
王が問うた。
姉上は上段の席へ顔を向けた。
王に話しかけられているというより、研究発表の許可を求められた学生のような顔をしている。
「もちろんですわ」
その一言で、宮廷魔導師たちがざわめいた。
「紙を」
姉上は手を差し出した。
近くにいた文官が、反射的に羊皮紙を渡す。
「羽ペンも」
今度は侍従が差し出した。
姉上は近くの卓へ向かい、葡萄酒の杯と花瓶を脇へ押しやった。
殿下の婚約破棄のために整えられた夜会の中央で、姉上は突然、術式を書き始めた。
貴族たちは遠巻きにそれを見る。
魔導師たちは、堪えきれず卓の周囲へ集まり始めた。
最初に動いたのは魔導師長だった。
次に副長。
その次に若い魔導師。
気づけば、王太子殿下とミレーヌ嬢の前から人がいなくなっていた。
婚約破棄の主役だったはずの二人だけが、広間の中央に取り残されている。
私は姉上のすぐ後ろへ立った。
羊皮紙には、私には読めない記号と数式が次々に並んでいく。
「ここですわ」
姉上が円環の一部を羽ペンの先で叩く。
「現在の術式では、この節で魔力を逆行させていますの」
「それが防壁の内圧を生む」
「ええ。ですが原文の意味は、流れの向きを変えることではなく、接続面を変えることですわ」
「待ってくれ」
若い魔導師が身を乗り出した。
「接続面だけを移すなら、外殻の魔力は失われない。いや、それどころか――」
「戻りがなくなる」
副長が呟く。
「循環が一巡で済む……」
「三割」
魔導師長が顔を上げた。
「少なくとも三割は、消費を抑えられる」
「正確には三割二分ほどですわ」
姉上が訂正する。
「季節によって変動いたしますけれど」
宮廷魔導師たちは黙った。
その沈黙は、姉上の言葉を疑っているからではなかった。
理解したからだ。
私は、そこで初めて少しだけ背筋が寒くなった。
姉上は、本当に正しいのだ。
王国最高の魔導師たちが、誰一人として反論できない。
「実際に、変更できるか」
王の問いに、今度は宰相が顔を上げた。
「陛下」
「小規模にだ」
王は落ち着いていた。
「この広間を覆う内結界だけでよい。危険があるなら止める」
「危険などございませんわ」
姉上は立ち上がった。
羽ペンを置く。
「現在のほうが危険ですもの」
そう言って、右手を上げた。
魔導師たちが息を呑む。
「姉上」
思わず呼び止める。
「何ですの?」
「まさか、今ここで」
「今ここで試すのが一番早いでしょう?」
正論だった。
正論だが、王城の結界で試すことではない。
「お待ちください!」
魔導師長が声を上げる。
「せめて術者を集め、補助陣を――」
「不要ですわ」
「しかし」
「お黙りなさいな」
姉上が軽く指を振った。
次の瞬間。
魔導師長の口が閉じた。
「……!」
だが、声は一切出ない。
「……!?」
「無詠唱の声奪魔法だと!?」
続いて、床に淡い光の輪が広がり、魔導師長の足が動かなくなる。
「拘束魔法か!?」
「違う!」
「氷も蔦も鎖も見えない!」
「何で止まっているんだ!?」
広間に悲鳴ともどよめきともつかない声が広がった。
「姉上!」
「暴れられると術式が乱れますの」
姉上は平然としている。
私は魔導師長を見る。
魔導師長は真っ赤な顔で何か叫ぼうとしているが、声が出ない。
「解除を」
私が小声で言う。
「放っておけば、そのうち切れますわ」
姉上はもう見てもいなかった。
片手を上げ、空中へ指を走らせる。
淡い光の文字が浮かび上がった。
一つ。
二つ。
三つ。
天井の上に重なっていた見えない結界が、輪郭を現す。
王城の大広間全体が、青白い光に包まれた。
貴族たちがざわめき、王妃のそばへ近衛兵が集まる。
王だけは立ち上がらなかった。
姉上を見ていた。
姉上は、浮かび上がった術式の一部を指先でつまむようにして、横へ滑らせた。
ただ、それだけだった。
ガラスを細い爪で弾いたような音がした。
次の瞬間。
大広間の魔力灯が一斉に明るくなる。
空気が軽くなった。
比喩ではない。
胸の奥にかかっていた圧のようなものが消えた。
壁際に設置されていた魔力計の針が、大きく下がる。
「消費量が……」
副長が駆け寄る。
「三分の二に……」
「正確には六十七・八パーセントですわ」
姉上が言った。
魔導師長の声が戻った。
「な、何ということを!」
声は戻ったが、足はまだ動かない。
「王城の結界を、たった一人で書き換えるなど!」
「できましたでしょう?」
「そういう問題ではない!」
「では、どういう問題ですの?」
魔導師長が言葉に詰まる。
姉上は、再び天井を見上げた。
「これで内結界は安定しましたわ。外殻も同じ誤りを含んでおりますから、後ほど修正なさいませ」
「後ほど、で済む話か!」
「今すぐでもよろしくてよ?」
「いや、待て!」
今度は魔導師長だけでなく、何人もの魔導師が同時に止めた。
私はようやく少し安心した。
この場で王城すべてを書き換えられては困る。
「グランベル公爵令嬢」
王が呼んだ。
「はい」
「その知識、どこで得た?」
姉上は少し考えた。
「知っておりましたの」
「答えになっておらぬ」
「そうですわね」
姉上は微笑んだ。
「では、調べた結果、と申し上げておきますわ」
王はしばらく姉上を見つめていた。
探るような目だった。
だが姉上は、王の視線にもまったく動じない。
「陛下」
宰相が低い声で言った。
「これは、婚約破棄どころの話ではございません」
王太子殿下の肩が跳ねた。
皆が、殿下の存在を思い出した。
殿下は広間の中央で、青ざめた顔をしていた。
その隣ではミレーヌ嬢が、青い顔で周囲を見回している。
「父上。まだ話は終わっておりません」
「そうであったな」
王の声は冷静だった。
「お前はグランベル公爵令嬢との婚約を破棄すると宣言した」
「はい」
「そして、その理由として、王太子妃に相応しくないこと、ベルナール伯爵令嬢への嫌がらせを挙げた」
「その通りです」
「証拠は、当人の侍女の証言のみ」
「ですが!」
「加えて」
王の視線が、修正された結界へ向く。
「お前が相応しくないと断じた娘は、王国の宮廷魔導師全員が見抜けなかった結界術式の誤りを、ひと目で見抜いた」
殿下が黙る。
「王太子妃に相応しいか否か。それは、少なくともお前一人の感情で決めるものではない」
「父上は、私にこの女と結婚しろと仰るのですか!」
「いいえ」
姉上が答えた。
王ではない。
「わたくしも、お断りいたしますわ」
「アリシア!」
「グランベルとお呼びくださいませ。先ほど婚約破棄なさったでしょう?」
「それは……」
「撤回は認めませんわよ」
姉上は楽しそうに笑った。
「こういうものは、何度も繰り返すと面倒ですもの」
王太子殿下は、完全に言葉を失った。
姉上は王へ向き直る。
「陛下」
「何だ」
「婚約破棄は、成立したということでよろしいですわね?」
「……グランベル公爵、その方はどう考える」
「……思うところはございますが、娘の希望であれば異論はありません。」
「……双方が望むならば、止める理由はない」
「ありがとうございます、お父様。」
姉上は優雅に礼をした。
王太子殿下には目も向けなかった。
ミレーヌ嬢が、そこでようやく声を上げた。
「お待ちください!」
姉上が振り返る。
「何ですの?」
「あなた、悔しくないのですか?」
「何がですの?」
「婚約を破棄されたのですよ!」
「ええ。存じておりますわ」
「殿下を奪われたのですよ!」
姉上は、本当に分からないという顔をした。
「奪われた?」
「そうです!」
「物ではございませんでしょう?」
「そういう意味ではなく!」
「でしたら、どういう意味ですの?」
ミレーヌ嬢の顔が赤くなる。
「あなたは負けたのです!」
広間が再び静かになった。
今度は、さきほどとは違う種類の沈黙だった。
私は思わず目を閉じた。
言ってしまった。
この人は、姉上にそれを言ってしまった。
姉上の眉が、ほんの少しだけ上がる。
「負けた?」
「ええ!」
「あら?ワタクシ、何の勝負をしておりましたの?」
姉上がかわいらしく首を傾げる。
「殿下の愛を――」
「存じませんでしたわ」
姉上はさらりと言った。
「参加していない勝負で負けたと言われましても、困りますの」
「なっ……」
「それに」
姉上はミレーヌ嬢を上から下まで眺めた。
侮蔑というより、観察だった。
「勝利を宣言なさるのでしたら、せめてご自分が何を得たのか、理解してからにしたほうがよろしくてよ」
「どういう意味です!」
「そのままの意味ですわ」
王太子殿下の顔がさらに赤くなる。
「アリシア!」
「お静かに、殿下?」
姉上が指を振る。
今度は王太子殿下の口が閉じた。
「……!?」
続いて足元に光の輪。
殿下が動けなくなる。
「姉上!」
「騒がしいですわ」
「王太子殿下ですよ!」
「存じております」
「解除を!」
「放っておけば、そのうち切れますわ」
魔導師長が、深く頷いた。
王妃は片手で額を押さえている。
王は…、笑っていた。
声は出していないが、肩がわずかに揺れていた。
姉上はそんな周囲の反応など気にも留めず、先ほど書いた羊皮紙を持ち上げる。
「オルベール侯爵」
「……何だ」
「明日の朝、王城の外殻結界を確認いたしますわ」
「明日?」
「ええ」
「いや、待て。まずは今日の内容を精査し、術式班を集め、危険性を――」
「では、日の出前に」
「話を聞け!」
「研究は早いほうがよろしいでしょう?」
魔導師長は頭を抱えた。
姉上は満足そうだった。
「それから、王立図書館の古代文献をすべて閲覧したいですわ」
宰相が顔を上げる。
「禁書庫も、ですか」
「もちろんですわ」
「許可には手続きが」
「陛下」
姉上が王を見る。
「よかろう」
王は即答した。
宰相の顔が引きつる。
「陛下」
「王城の結界に三百年の誤りがあるなら、手続きに三十日かける暇はあるまい」
「それは、確かに」
「ただし」
王は姉上を見る。
「勝手に王城を吹き飛ばすな」
姉上は微笑んだ。
「善処いたしますわ」
約束する気がない。
私は知っている。
王もたぶん気づいた。
「アルベルト・フォン・グランベル」
王が私を見る。
「はい」
「姉を見張れ」
「……私に可能だとお思いですか?」
思わず聞き返してしまった。
一瞬の沈黙。
王は視線を逸らした。
「……できる範囲でよい」
「承知いたしました」
できる範囲は、かなり狭い。そう思いながらも頭を下げた。
たぶん、朝食を食べさせるくらいだ。
その時、王太子殿下の声が戻った。
「父上! 私は――」
だが、もう誰も殿下を見ていなかった。
魔導師たちは羊皮紙を取り囲み、議論を始めている。
宰相は禁書庫の閲覧手続きを侍従へ命じている。
王は姉上へ、古代文献の所在を説明していた。
王妃はミレーヌ嬢を下がらせるよう女官へ指示している。
婚約破棄の夜会は、いつの間にか王国魔法史を揺るがす研究会へ変わっていた。
私は姉上の隣へ立つ。
「姉上」
「どうしましたの?」
「婚約破棄されたことについて、何か思うところはありませんか」
姉上は少し考えた。
「そうですわね」
今度こそ、何か人間らしい言葉が出るのではないか。
ほんの少しだけ期待した。
「これで夜会への出席が減るのでしたら、研究時間が増えますわね」
「……それだけですか」
「ほかに何かありますの?」
「いえ」
私は首を振った。
ない。
この人には、ないのだ。
今朝。
私は、姉上が傷ついているのではないかと思った。
婚約者が迎えに来ないから、黙り込んでいるのだと。
馬車の中で王城を見つめていたのも、殿下との関係を考えているからだと思った。
夜会で天井を見上げ続けていたのも、心を落ち着かせようとしているのだと。
全部、違った。
姉上は最初から最後まで。
王太子殿下ではなく。
ミレーヌ嬢でもなく。
婚約破棄ですらなく。
王城を覆う、古代魔法の結界しか見ていなかった。
「それより」
姉上が羊皮紙を私へ差し出す。
「これを持っていてくださいな」
「姉上、これは?」
「修正後の術式ですわ」
「私に持たせないでください!」
「なくさなければ問題ございませんわ」
「王国の結界術式ですよ!」
「ですから?」
姉上は首を傾げる。
私は深く息を吐き、羊皮紙を両手で抱えた。
近くでは、ようやく拘束魔法の切れた王太子殿下が、誰にも相手にされず立ち尽くしている。
その隣には、青ざめたミレーヌ嬢。
二人とも、今夜の主役になるつもりだったのだろう。
たしかに。
最初の数分はそうだった。
だが、姉上が古代魔法の誤りを指摘した瞬間から、主役は完全に入れ替わった。
いや。
姉上に、そのつもりすらなかったのかもしれない。
姉上はただ、間違っているものを見つけた。
だから正した。
それだけだ。
「ふふっ」
姉上が天井を見上げる。
修正された結界が、誰にも見えない淡い光を返しているらしい。
「面白くなってまいりましたわ」
「何がです?」
「この国の古代魔法ですわ」
目が輝いている。
その顔を見て、私は諦めた。
婚約破棄された姉を支えようと思っていた。
今夜は隣にいてやろうと思っていた。
だが。
心配する必要など、最初からどこにもなかった。
支えが必要なのは姉上ではない。
たぶん、この国のほうだ。
「姉上」
「何ですの?」
「どうか、ほどほどに」
「あら」
姉上は扇を広げ、口元を隠した。
その目が、楽しげに細められる。
「ワタクシ、まだ何もしておりませんわよ?」
王城の結界を一人で書き換え。
王太子殿下と宮廷魔導師長へ声奪魔法と拘束魔法をかけ。
三百年続いた王国の魔法解釈をひっくり返した人が言う台詞ではない。
だが。
この人にとっては、本当にまだ何もしていないのだろう。
「オーッホッホッホッホ!」
姉上の高笑いが、夜会の大広間に響き渡る。
誰も笑わなかった。
王だけが、少しだけ面白そうに目を細めていた。
私は腕の中の羊皮紙を見下ろした。
その端には、姉上の手で小さく一文だけ書き足されていた。
――古代魔法の解釈が間違っていますわ。
私は思った。
婚約破棄くらいで済んだ王太子殿下は、たぶん幸運だったのだと。
――――――
夜会が終わり、王城の回廊を歩く。
ふむ。
やはり予想どおりでしたわね。
古代術式の解釈が途中で入れ替わっておりますわ。
三百年。
ずいぶんと遠回りをしたものですわね。
ですが、それだけのこと。
原因が分かれば、あとは順番に直していけばよろしくてよ。
禁書庫も閲覧できそうですし、しばらくは退屈せずに済みそうですわね。
ああ、そうそう。
調査が終わりましたら、早く戻らねばなりませんわね。
研究も途中のままですし……。
アリシア、ワタクシが帰還するまでの間、あなたもしっかり学びなさいな。
なかなか興味深い術式でしたわ。その褒美に、ワタクシの知識を学ぶことを許して差し上げます。
"ええ、たいへん勉強になりますわ。それと婚約破棄…ありがとうございます『お姉さま』"
オホホホ、素直でよろしいですこと。あなたはもともと魔術師団希望でしたわね。
一瞬だけ足が止まる。
…………。
今の状況の原因はさっぱりわかっていませんが、ワタクシの研究室。爆発などしておりませんわよね……?
首を傾げて、静かに天井を見上げる。
…………いえ、ワタクシの研究ですもの、大丈夫ですわ。
………ええ。
……たぶん。
いざというときは、またあの者に素材を取りに行かせましょう。
オーッホッホッホッホッ!
ああ、そういえば婚約の話でしたわね。
ワタクシ相手に婚約破棄するのは相手が間違っていますわ。
アリシアではありませんもの。
――――――
「殿下、本日追加の書類です」
「……またか!私はアリシアの魔術の翻訳係ではないぞ!魔術師団は何をやっているんだっ!」
「……殿下」
「すまない、ミレーヌ」
王太子殿下は、皆から祝福され愛しい令嬢と婚約することとなった。
そして、今日も魔術師団からアリシアの術式の翻訳依頼が届く。
「……殿下、まさか皆様に祝福されているのに…こんなにも喜べないとは思っていませんでしたわ」