「黒煙、だと……」
オールマイトは呆然と呟いた。
かつて雄英高校の敷地で、そしてバックドラフト事務所で人々を救うために汗を流していた、あの心優しい少年の面影はどこにもない。今、目の前に佇む彼を支配しているのは、心の底までドス黒い闇に染まりきった、純然たる悪意の波動だった。
「黒霧様。ゲートの展開を」
黒煙が淡々と促す。
「――させん!!」
その一瞬の隙を突き、最高峰のスピードを誇るエッジショットが自身の身体を限界まで薄く鋭く引き伸ばし、超高速の忍法で黒霧の首元へ肉薄した。
「――『ブラックシールド・極小』」
「なっ……!?」
エッジショットは目を見開いた。黒煙はエッジショットの極小の体躯に完璧に合わせ、ピンポイントで超高密度に圧縮した黒い煙の壁を展開したのだ。神業に近いコントロール。漆黒の盾はエッジショットの必殺の刺突をガチィィンと完璧に阻んでみせた。
「良い働きです、黒煙」
「もったいないお言葉です、黒霧様」
二人のヴィランは不気味なほど息の合った連携を見せる。
「奴を仕留めろ、シンリンカムイ!!」
「待ってくださいグラントリノ、手を出すなシンリンカムイ! 彼は拉致された雄英の生徒……バックドラフトの愛弟子なんです!!」
オールマイトの悲痛な叫びがアジトに響く。
「なんじゃと!?」
グラントリノの動きが一瞬、驚愕で鈍る。
だが、トップヒーローたちに生じたそのわずかな「隙」を、闇の奥に潜む魔王が見逃すはずがなかった。
「オールマイト!!!! お前が、嫌いだ!!!!」
拘束されながらも死柄木弔が狂おしく叫ぶ。その直後、天井から、そして彼らの足元から、ヘドロのような不気味な『黒い泥』が大量に湧き出してきた。
『よくやったよ、黒霧。そして新しい僕の兵隊、黒煙』
アジトのどこにもいないはずの男――オールフォーワンの、地を這うような歪んだ声が空間に響き渡る。
『黒霧、黒煙。きみたちは警察の包囲網を抜けるため、別ルートへ移す』
「ハッ、仰せのままに……『先生』」
黒霧が恭しく頭を垂れる。
『では――死柄木弔、荼毘、マグネ、トガヒミコ、ミスターコンプレス、トゥワイス、スピナー。そして、爆豪勝己。転送開始だ』
「待ちやがれぇ!! クソがァ!!」
爆豪くんが拘束を弾き飛ばそうと暴れるが、その身体は容赦なく泥の渦へと飲み込まれていく。
「待て!! 行かせるかァ!!」
オールマイトが拳を突き出すが、激しい泥の濁流がヒーローたちの視界を奪い、ヴィラン連合のメンバー、そして爆豪くんを別々のワープゲートへと引き裂くように強制転送していった。
そして、黒霧と「黒煙」の二人もまた、他のメンバーとは違う、さらに深い闇の底へと吸い込まれるように消えていく。
「これにて、失礼します。オールマイト様」
「白煙少年――!!」
オールマイトの届かぬ絶叫だけが、崩壊するアジトに虚しく響き渡るのだった。
同時刻――神野区・脳無格納倉庫の跡地
物陰の崩れた壁の隙間に、緑谷くん、切島くん、轟くん、飯田くん、八百万さんの5人は息を潜めて隠れていた。
目の前では、ベストジーニストたちプロヒーローが圧倒的な手際で脳無の倉庫を制圧したはずだった。安全を確認し、これ以上は危険だと判断してその場をそっと離れようとした、まさにその瞬間。
――ドクン、と心臓が跳ね上がった。
言葉にできない、圧倒的な「死」の気配。
虚空からふわりと舞い降りたのは、顔を不気味なマスクで覆った男――魔王オール・フォー・ワン。
彼がただ、そこに立ち、軽く腕を振るった。それだけで、トップヒーローであるベストジーニスト、ギャングオルカ、Mt.レディ、そして虎の身体が、一瞬にして血に染まり地面へと叩き伏せられた。あまりの次元の違い。
(動けない……指一本すら、動かせない……!)
緑谷くんの全身を、本能的な死の恐怖が硬直させる。あまりの恐怖に過呼吸になりかけ、身体がガタガタと拒絶の痙攣を起こす。恐怖に呑まれ、今にも叫び声を上げそうになる緑谷くんの口を、飯田くんが涙を流しながら、命懸けで、全力で塞ぎ込んで止めた。今動けば、全員が消される。
――ドゴォォォォォンッ!!!!
「オール・フォー・ワン!!!!」
空を割り、大地を砕いて怒りの拳と共に舞い降りたのは、平和の象徴・オールマイト。
「また僕を殴るのかい? オールマイト」
間髪入れずに始まる、二人の激突。それは文字通りの『神々の戦い』だった。一撃が交わされるたびに衝撃波が街を削り、衝撃の風圧だけで周囲のビルが消し飛んでいく。隠れている緑谷くんたちには、その戦いのレベルが高すぎて、何が起きているのか視覚で捉えることすらできない。
その絶望的な破壊の渦中、オール・フォー・ワンの力によって、ヘドロの泥ワープからヴィラン連合の面々が次々と吐き出されていく。
「がはっ……げほっ! クソがぁ!!」
そして、その泥の中から、爆豪くんの身体も床へと転がった。
「爆豪……!」
切島くんが息を呑み、飛び出そうとする。しかし、緑谷くんの脳裏に、出発前の教室での景色が、みんなの悲痛な反対の声がリフレインした。
『私は反対。これ以上みんなが傷つくのは嫌』
『これは感情の問題ではない』
『ルールを破ればヴィランと変わらない』
(戦闘はできない……。でも、目の前にいる。助けたい……助けたいのに、身体が恐怖と迷いで動かない……!! 一歩でも間違えれば、かっちゃんの命も、僕たちの命も、ここで完全に終わる……!!)
目の前で行われる世紀の死闘。そして、すぐそこに転がっている救うべき友の背中。
圧倒的な無力感と絶望の狭間で、緑谷くんたちは血が出るほど歯を食いしばり、ただ涙を流して動けずにいた。
神野区の中心がオールマイトとオール・フォー・ワンの死闘によって未曾有の大災害に陥り、街そのものが神々の闘技場と化している、まさにその瞬間。
激戦の地から遠く離れた、警察すら把握していない裏ルートの地下アジトに、黒霧と黒煙の二人は転移していた。
「素晴らしい動きでした、黒煙。エッジショットの速度に完璧に対応してみせるとは」
「勿体無いお言葉です、黒霧様。私はただ、皆様の盾と矛になるだけです」
淡々と、しかし完璧な主従関係を構築している二人。だが、次の瞬間、黒霧のモヤが微かに波打った。
「…………誰だ?」
黒霧の鋭い声。その空間に満ちたのは、ヒーローのものでも、ヴィランのものでもない――ただひたすらに、大切な者を取り戻すためだけに研ぎ澄まされた、狂気にも似た「殺意」だった。
「――作戦開始!!!!」
――ドゴォォォォォンッ!!!
壁が強烈な高圧水流によって粉砕され、怒号とともにバックドラフト、そして武装したサイドキックたちが一斉に雪崩れ込んできた! 容赦のない同時波状攻撃が黒霧と黒煙を襲う。
「なっ……この場所を特定するとは……!!」
黒霧が初めて驚愕の声を上げた。ここはオール・フォー・ワン、ドクター、そして自分しか知らない、死柄木弔すら預かり知らぬ最重要隠れ家のはずだった。それを、警察でもない一介のプロヒーロー(だった男)が突き止めたのだ。
「――ブラックスマッシュ」
主への攻撃を阻むため、黒煙が即座に反応し、ドス黒い煙の拳を突き出す。
「ちぃっ!?」
バックドラフトは長年の前線経験でそれを紙一重で回避。背後の壁が木っ端微塵に吹き飛ぶ。
「師匠を躊躇なく殴るとは、変わったな白煙!!」
「黒煙と申します。以後お見知りおきを」
「以後は無えよ!! 叩き直してやる!!」
激しい戦闘の火蓋が切られた。
「くっ……!?」
驚くべきことに、黒霧が防戦一方に追い込まれていく。サイドキックたちは、黒霧のワープで攻撃を受けようが、肉が裂け、腕が吹き飛ぼうが、一歩も退かずに狂戦士のように攻撃を仕掛けてくるのだ。一人倒れれば、すぐさま次の者がその血を踏み越えて突撃してくる。警察のように「逮捕」を目的としていない、命を投げ打ったヴィジランテの執念が、黒霧の計算を完全に狂わせていた。
一方、バックドラフトの水流と黒煙の闇の煙が激しく激突する。
「攻撃力は上がっても、その身体の癖までは変わってないぞ、白煙!!」
「流石、プロヒーロー。やりますね……!」
『トリガー』で個性を強化され、心を塗りつぶされても、バックドラフトが教え込んだ戦闘の基礎、間合いの取り方は染み付いたままだ。そこを完璧に見抜かれ、黒煙の動きが一瞬鈍る。
「吹き飛べェ!!」
至近距離からの容赦ない放水が黒煙の視界を奪った。
「今だ、フロッピー、テンタコル!!」
バックドラフトの鋭い指示が飛ぶ!
「白煙!!」
「白煙ちゃん!!」
水のカーテンを突き破り、障子くんの複製腕と、梅雨ちゃんの長い舌が同時に黒煙の身体を強固に抑え込んだ!
「絶対に助ける!!」
「みんな一緒!!」
親友たちの必死の叫び。しかし、黒煙の目に宿る澱んだ闇は消えない。
「どいてください。――テンタコル様、フロッピー様」
黒煙の身体から、爆発的な黒い煙の衝撃波が放たれる。
「ぐわっ!?」
「ケロっ!?」
強力な力で弾き飛ばされ、地面を転がる障子くんと梅雨ちゃん。
「黒霧様、今、援護に参りま……、……?」
黒煙が黒霧の元へ駆け出そうとした、その時。彼の動きがピタリと止まった。
前から、何かに優しく抱きしめられている。
そこに、殺意はない。
害意もない。
自分を傷つけようとする悪意など、微塵もない。
これは、なんだ……?
「エン、ちゃん…………」
声が聞こえた。
空間には、何も見えない。しかし、確かにそこに誰かがいて、黒煙の胸に顔を埋め、ボロボロと大粒の涙を流しながら、ちぎれんばかりの力でぎゅっと抱きしめてきている。
「エンちゃん……エンちゃん……っ! やっと、捕まえた……! もう絶対に、離さないから……!!」
姿は見えなくても、その温もりと、自分の名前を呼ぶ愛おしい声だけで分かった。
トリガーの闇に侵された黒煙の脳裏に、ドス黒いモヤを切り裂くようにして、あの合宿所の夜、自分に向かって手を伸ばし、泣き叫んでいた「葉隠透」の笑顔が鮮烈にフラッシュバックする。
「……?」
黒煙は、生まれて初めて激しい「戸惑い」に襲われていた。
目の前のものは見えない。物理的な力もない。自分を脅かすような脅威には、決してなり得ない存在だ。
ならば、排除すればいい。弾き飛ばし、主の元へ駆けつければいい。
なのに――何故、私は動けない?
懐かしい気配がする。
いつも放課後の教室で、自分の隣にいた存在の、とても良い香りがする。
すごく暖かくて、柔らかい。
トリガーの薬物で冷たく凍りついていたはずの胸の奥が、その温もりによって内側からドロドロと溶かされていく。
気づけば、黒煙の漆黒の手は、戸惑いながらも目の前の見えない頭を、優しく愛おしそうに撫でていた。
(分からない。……わかる。分からない。……わかる。分からない……)
脳内で同じ問答が激しく、狂ったように繰り返される。
脳の回路を支配するヴィランとしての悪意と、魂の奥底に刻まれた少年としての記憶が激突し、火花を散らす。
だが、一つの確信だけが闇を切り裂いた。
――目の前のものは、私にとって、絶対に失ってはならない大切なもの。大好きなもの。何よりも愛しいもの。
(ならば、……誰にも奪われないように、保管しよう)
黒煙の身体から、どっと漆黒の煙が溢れ出し、目の前の見えない少女を優しく、包み込むようにして巻き込んでいく。敵から隠すように、世界から隔離するように、彼は透ちゃんの身体を自らの煙の中に引き込み、その体内に優しく「保管」した。
煙の中に閉じ込められた透ちゃんの視界は、一瞬にして切り替わった。
(暗い……。暗い、暗い、本当に全てが真っ暗……!)
何も見えない。音も聞こえない。エンちゃんの心の奥底にある、トリガーがもたらした絶望の闇そのものの空間。
恐怖で足がすくみそうになる。だけど、透ちゃんは一歩も退かなかった。見えない手を手探りで伸ばし、深い闇の奥へと進んでいく。
ここには、絶対にある。エンちゃんの本当の心が、この闇のどこかに囚われているはずだという、絶対の確信があった。
どれほど歩いただろうか。
漆黒の空間の最奥で、透ちゃんはぽつんと灯る、本当に小さな、消えそうな『白い光』を見つけた。
「……見つけた」
透ちゃんは迷わず駆け寄り、その小さな光を両手で強く、強く抱きしめた。
涙が溢れて止まらない。でも、もう怖くはなかった。
(ずっと一緒だよ、エンちゃん。何があっても、私がずっとここにいるからね――)
「――黒煙! 何をしている、早く来なさい!!」
サイドキックたちの猛攻に防戦一方となっていた黒霧が叫ぶ。
その声に反応するように、少年の瞳の奥の闇が、一瞬だけ怪しく明滅した。体内に透ちゃんという「光」を宿したまま、彼は再び冷徹なヴィランの顔を取り戻す。
「……お待たせいたしました。援護に参りました、黒霧様」
「フッ、反撃です、黒煙。この不届き者たちをワープの藻屑にしてやりましょう」
「御意」
黒煙の身体から、さらに濃度を増したドス黒い煙が爆発的に噴き出し、バックドラフトたちの視界を完全に遮断する。
「チッ、白煙の奴、葉隠をどこへやった!?」
バックドラフトが焦燥の声を上げ、水を激しく噴射する。
守るべき者を体内に匿い、心の奥底で少女の温もりに抱かれながらも、表面上は完全なヴィランとして動き出す黒煙。
理性を奪う薬物と、それを繋ぎ止める愛の光。
奇妙な二重螺旋を孕んだまま、裏ルートのアジトでの死闘は、さらに混沌を極めていく。
オールマイトVSオール・フォー・ワンはぜひ原作漫画やアニメで見てください
とてもかっこいいです