魔法少女の辞め方を、元・最強の怪人だけが知っている   作:すんだもん

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第一話 魔法少女を辞めたいんです

 雨が、傷口に染みた。

 制服の脇腹に貼りついた布地が、走るたびに肉を引っ張る。痛みはとうに鋭さを失い、代わりに鈍く重い熱となって体を蝕む。

 

 鳴海澪(なるみみお)は片手で傷を押さえながら、深夜の商店街を駆けていた。

 シャッターを下ろした店が両側に並び、軒先から落ちる雨水が歩道の水溜まりを絶え間なく叩いている。街灯の明かりは雨粒に滲み、遠くまで見通せない。

 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

 

『契約者ルミナス・ルビー。指定区域への帰還を命じます』

 

 背後から、感情のない声が追ってくる。

 澪は振り返らず、右手を後ろへ向けた。

 掌に残っていたわずかな光が、赤い火花となって弾ける。放たれた閃光は雨を蒸発させながら細い路地へ飛び込み、追跡していた白い影を撃ち抜いた。

 

 硬質な破砕音。

 狐を模した白い小型端末が、壁に激突して砕け散る。

 

 だが、安堵する暇はなかった。

 

『ポラリス十二号からの通信途絶を確認。ポラリス十三号へ追跡権限を移行します』

 

 今度は、頭上のスピーカーから声が聞こえる。

 街頭放送用の設備まで使っている。

 

「……しつこいのよ」

 

 吐き捨てた声は、雨音に飲まれた。

 澪は走りながら、濡れた制服のポケットへ手を入れる。指先に触れたのは、何度も折り畳まれ、端が柔らかくなった一枚の紙だった。

 

 印刷された文字は、たった数行。

 

 ――魔法少女を辞めたい場合。

 ――星見市南区、旧月見商店街。

 ――宵待ち生活相談所。

 ――本人が来ること。

 

 差出人は不明だった。

 暗号化されたメールに添付されていた住所を、最初は罠だと思った。星冠局が逃亡者を誘き出すために用意した囮。その可能性はいまも消えていない。

 

 それでも、他に行く場所はなかった。

 

 魔法少女は、契約から逃げられない。

 力を失えば終わりではない。身柄を拘束され、適性検査という名目で施設へ送られる。

 

 逃走すれば、契約違反。

 命令を拒めば、強制執行。

 

 それでも澪には、戻れない理由があった。

 

 柊琴葉(ひいらぎことは)

 十四歳。魔法少女になって、まだ八か月。

 今夜一時、星冠局第三区収容施設において処分予定。

 

 澪自身の手で、その命令書を受け取った。

 

 対象の危険性を考慮し、契約者ルミナス・ルビーによる即時排除を推奨する。

 

 書類には、そう書かれていた。

 琴葉の名前ではなく、役割硬化個体と。

 

「ふざけるな……」

 

 呟いた瞬間、脇腹が大きく脈打った。

 足がもつれ、澪はシャッターへ肩からぶつかった。薄い金属板が激しい音を立てる。

 膝をつきそうになる。

 ここで止まれば捕まる。

 分かっているのに、脚が言うことを聞かなかった。

 

『契約者の身体機能低下を確認。保護手順へ移行します』

 

「だま、りなさいよ……!」

 

 歯を食いしばり、顔を上げる。

 商店街の先に、一軒だけ明かりのついた建物があった。

 

 古びた写真館。

 一階には色褪せた看板が残り、ガラス戸の向こうに、誰にも引き取られなかったらしい家族写真が並んでいる。

 その脇に、二階へ続く細い階段。

 錆びた手摺の横に、小さな金属板が掛けられていた。

 

 宵待ち生活相談所。

 

 澪は階段を上り、扉の前まで辿り着く。

 追手の気配は近い。

 一瞬だけ躊躇した。

 この先にいるものが、味方だという保証はない。

 それどころか、本当に魔法少女の契約へ干渉できる存在なら、星冠局が放置しているはずもなかった。

 

 だが琴葉には、もう時間がない。

 澪は拳を握り、扉を三度叩いた。

 

「開いてる」

 

 返ってきたのは、低い男の声だった。

 鍵を掛けていないらしい。

 

 澪は眉を寄せ、それでも扉を押し開けた。

 

 中は、想像していたよりも普通の事務所だった。

 壁際には書類棚が並び、中央に応接用の低いテーブルとソファ。奥には木製の机がひとつあり、その上だけが古いデスクライトに照らされている。

 怪しげな魔法陣もなければ、黒い儀式道具もない。

 紙とインク、それに薄くコーヒーの匂いがした。

 

 机に向かっていた男が、顔を上げる。

 

 四十代半ばほどだろうか。

 白いシャツに黒いベスト。こめかみに白髪が混じり、無精ではないが、整えすぎてもいない黒髪を後ろへ流している。

 澪を見る目に、驚きはなかった。

 血まみれの女子高校生が深夜に訪ねてきたというのに、男は悲鳴も上げず、警察を呼ぼうともしなかった。

 

「追手は何人だ」

 

 挨拶より先に、それを訊いた。

 澪は扉を閉め、背を預ける。

 

「三人。あと、案内役が一体」

 

「階級は」

 

「全員、一等星」

 

「少ないな」

 

 男はそう言うと、机の引き出しから清潔なタオルを取り出した。

 

「……一等星が三人よ?」

 

「さっき聞いた」

 

 平然と答え、タオルをテーブルへ置く。

 続いて救急箱と、未開封のペットボトル。少し考えてから、部屋の隅にある戸棚を開き、灰色のスウェットまで出してきた。

 

「着替えは奥だ。傷を見せろ」

 

「触らないで」

 

 反射的に睨むと、男は足を止めた。

 

「分かった。自分で圧迫できるか」

 

 澪は答えなかった。

 男も重ねて訊かなかった。

 

 他人に傷を見せるのには慣れていた。星冠局の医療班なら、変身解除と同時に検査を始める。命令であれば、澪に拒否権はない。

 だが、この男は澪が拒んだ途端、あっさり引いた。

 そのことが、かえって気味悪く思えた。

 

「あなたが、ここの人?」

 

「黒瀬だ」

 

「黒瀬、何」

 

黒瀬朔(くろせさく)

 

 男――黒瀬朔は、名乗ると机の前の椅子を引いた。

 

「座れ。床に血が落ちる」

 

「心配するの、そっち?」

 

「床は後で拭ける。お前さんが倒れると話が聞けない」

 

 澪は鼻で笑おうとしたが、息を吸っただけで脇腹が痛んだ。

 仕方なく椅子へ腰を下ろす。

 濡れた制服から水と血が滴り、古い床に小さな染みを作った。

 

 黒瀬は澪の向かいには座らなかった。

 机を挟むのではなく、少し離れた場所にもう一脚椅子を持ってくる。

 

「名前は」

 

「鳴海澪」

 

「活動名は」

 

 澪は一瞬、口を噤んだ。

 

「……ルミナス・ルビー」

 

「所属」

 

「星冠局、第三区」

 

「分かった」

 

 黒瀬は紙へ書き留める。

 澪は濡れた髪を掻き上げ、男の手元を睨んだ。

 

「ねえ」

 

「何だ」

 

「ここに来れば、魔法少女を辞められるって聞いたわ」

 

 ペン先が止まった。

 デスクライトの明かりの中で、黒瀬が顔を上げる。

 澪は喉に引っかかったものを無理に押し出すように、もう一度言った。

 

「魔法少女を、辞めたいんです」

 

 声にしてしまうと、思っていたより弱く聞こえた。

 戦闘中なら、もっと大きな声が出る。何千人もの前で笑い、励まし、怪物へ啖呵を切ることだってできる。

 

 けれど、その一言だけは、喉が震えた。

 黒瀬は澪を慰めなかった。

 よく言えたとも、もう大丈夫だとも言わない。

 

 代わりに、ペンを置いた。

 

「確認する」

 

「何を」

 

「本人の意思かどうか」

 

 澪は眉を寄せた。

 

「そうよ」

 

「誰かに言わされていないか」

 

「違う」

 

「力を失った後も、同じ選択をするか」

 

 今度は、すぐに答えられなかった。

 

 魔法を失う。

 ルミナス・ルビーではなくなる。

 

 空を飛べず、炎を操れず、怪物が現れても何もできない。ただの鳴海澪に戻る。

 

 いや。

 戻る、という表現すら正しいのか分からなかった。十三歳から三年間、澪の生活は魔法少女であることを中心に回ってきた。

 

 それがなくなった後、自分に何が残るのか。

 

「……今は、そんなこと考えてる時間ないの」

 

「なら、依頼は受けられない」

 

「は?」

 

 澪は椅子から立ち上がった。

 脇腹が痛み、視界が揺れる。

 それでも机に手をつき、黒瀬を睨みつけた。

 

「こっちは命がかかってるのよ」

 

「だから確認している」

 

「私は逃げてきたの。戻ったら、琴葉が殺される。私も処分されるかもしれない。それでも考えろっていうの?」

 

「そうだ」

 

 黒瀬の声は変わらない。

 

「時間がないことと、お前さんの意思を他人が決めていいことは別だ」

 

「分かったようなことを――」

 

「分からないから聞いている」

 

 言葉を遮った声は低かったが、強くはなかった。

 澪は口を噤む。

 黒瀬は机の引き出しから、一枚の書類を取り出した。

 

 魔法少女契約解除申立書。

 

 書式は古く、星冠局のものとは異なる。

 それでも、いたずらで作られた紙には見えなかった。申立人の氏名、契約時の願望、現在の拘束条項、解除後の生活希望。細かな記入欄が並んでいる。

 

「後悔しないか、とは聞いていない」

 

 黒瀬は書類を澪の前へ置いた。

 

「後悔しても、選び直さないかを聞いている」

 

 そのとき、窓ガラスに白い線が走った。

 澪は反射的に振り返る。

 

 窓の向こうに、白い狐の顔が浮かんでいた。

 次の瞬間、ガラスが内側へ弾け飛ぶ。

 

「伏せて!」

 

 澪が叫ぶより早く、黒瀬がテーブルを蹴り上げた。

 厚い天板が盾となり、破片を受け止める。

 

 白い端末は宙を滑るように室内へ入り、床へ着地した。

 狐を模した胴体。金色の目。首元には星冠局の紋章。

 

 ポラリス十三号。

 

『契約者ルミナス・ルビーを確認』

 

 澪は胸元の変身具へ手を伸ばした。

 しかし、指が触れるより早く、端末の目が赤く輝く。

 

『戦闘任務からの無断離脱を確認。契約条項第十二項に基づき、強制帰還手順へ移行します』

 

「断る!」

 

『契約者の意思確認を省略』

 

 胸の奥で、何かが噛み合う音がした。

 澪の身体を、内側から光が突き破る。

 足元に赤い魔法陣が広がり、濡れた制服が光へ分解され始めた。

 

 強制変身。

 

 星冠局が緊急時にだけ使用できる、契約者本人の意思を無視した変身命令。

 澪は歯を食いしばった。

 

「やめろ……!」

 

 命令に逆らおうとするほど、胸の奥が焼ける。

 骨の隙間へ熱した針を差し込まれるような痛みだった。

 赤い光が腕を覆い、戦闘衣装を形作っていく。

 変身が完了すれば、次に来るのは任務の強制執行だ。身体は星冠局へ戻るまで、澪の意思を受けつけなくなる。

 

 視界の端で、黒瀬が動いた。

 

「止めるぞ」

 

 短く告げて、澪の前へ立つ。

 

「来ないで! 触ったら巻き込まれる!」

 

 黒瀬は答えなかった。

 左手の革手袋を外す。

 露わになった腕に、黒い亀裂のような痕が走っていた。その隙間に、白い文字がいくつも刻まれている。

 

 名前だった。

 知らない誰かの名前。

 

 黒瀬の左手が、澪の胸元に浮かぶ魔法陣へ伸びた。

 指先が光に触れる。

 

 魔法陣が激しく明滅した。

 

『警告。未登録存在による契約干渉を確認』

 

 黒瀬は光の輪郭を掴んだ。

 本来、実体などないはずの魔法陣が、彼の指の間で紙のように歪む。

 

「これは契約じゃない」

 

 黒瀬は低く言った。

 

「縛りだ」

 

 そのまま腕を引く。

 乾いた音がした。

 

 澪の胸元で、魔法陣が割れた。

 赤い光が細かな破片となって飛び散り、空中で消えていく。

 形成されかけていた戦闘衣装も霧散し、濡れた制服だけが残った。

 

 澪は息を忘れた。

 

 魔法を防いだのではない。

 解除したのでもない。

 

 この男は、星冠局の契約そのものを、素手で引き裂いた。

 

『契約機構への重大な損傷を確認。対象を敵性存在と認定』

 

 ポラリス十三号の背から、白い針が何本も展開する。

 それが、黒瀬へ向けて射出された。

 

「黒瀬!」

 

 澪の声と同時に、黒瀬が右手を上げ、指先を横へ払う。

 

 それだけだった。

 空中を飛んでいた白い針から、光が消える。

 

 針は黒瀬へ届く前に勢いを失い、ただの小さな金属片となって床へ散らばった。

 

 黒瀬はポラリス十三号の前まで歩く。

 端末が後退しようとしたが、脚部が動かない。

 

「ここは相談所だ」

 

 黒瀬は端末を見下ろした。

 

「本人の同意がない契約更新は認めていない」

 

『権限不明。対象情報を照合します』

 

 ポラリス十三号の金色の目から細い光が伸び、黒瀬の顔と左腕を走査する。

 澪は壁に背を預けたまま、その様子を見ていた。

 脇腹の痛みも、追手が迫っていることも、一瞬だけ意識から消えていた。

 

『生体情報を照合』

 

 端末の声が途切れる。

 金色の目が、何度も明滅した。

 

『再照合』

 

『該当記録を確認』

 

『記録上、二十二年前に討伐済み』

 

 黒瀬の表情は変わらない。

 一方で、ポラリス十三号の声には、機械であるはずなのに明らかな乱れが混じり始めていた。

 

『国家終局級災害指定個体』

 

『旧識別名称――』

 

 澪の背筋を、冷たいものが走る。

 

 知っている。

 その呼び名を、魔法少女なら誰もが教えられる。

 

 二十二年前、当時最強の名をほしいままにしていた七人の冠位魔法少女と戦い、首都圏を壊滅寸前へ追い込んだ最後の怪人。

 歴史上、ただ一体だけ、世界そのものを終わらせられると認定された存在。

 

『終局怪人《エンドロール》』

 

 ポラリス十三号の声が告げた。

 

 黒瀬が端末の頭を片手で掴む。

 強く握ったようには見えなかった。

 それでも白い外殻に亀裂が入り、金色の目から光が消える。

 

 黒瀬は沈黙した端末を持ち上げると、壊れたテーブルの上へ静かに置いた。

 それから澪を見る。

 

 逃げるべきだった。

 魔法少女として教え込まれた本能が、全身で警告している。

 

 目の前にいるのは人間ではない。

 魔法少女の敵。

 世界を滅ぼしかけた怪人。

 

 けれど、その怪人は澪を攻撃しなかった。

 黒瀬は机から転がり落ちた申立書を拾い、血と雨水で濡れた部分を確かめる。

 

「書き直しだな」

 

 それだけ言って、新しい用紙を取り出した。

 澪は呆然と彼を見つめる。

 黒瀬はペンを申立書の上へ置いた。

 

「それで」

 

 低く、静かな声だった。

 

「俺の正体を知っても、まだ辞める意思はあるか」

 

 窓の外では、雨が降り続いている。

 遠くから、追手の魔力反応が近づいていた。

 

 澪は黒瀬を見た。

 机の上に置かれた契約解除申立書を見る。

 

 そして震える指で、ペンを取った。

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