魔法少女の辞め方を、元・最強の怪人だけが知っている 作:すんだもん
雨が、傷口に染みた。
制服の脇腹に貼りついた布地が、走るたびに肉を引っ張る。痛みはとうに鋭さを失い、代わりに鈍く重い熱となって体を蝕む。
シャッターを下ろした店が両側に並び、軒先から落ちる雨水が歩道の水溜まりを絶え間なく叩いている。街灯の明かりは雨粒に滲み、遠くまで見通せない。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
『契約者ルミナス・ルビー。指定区域への帰還を命じます』
背後から、感情のない声が追ってくる。
澪は振り返らず、右手を後ろへ向けた。
掌に残っていたわずかな光が、赤い火花となって弾ける。放たれた閃光は雨を蒸発させながら細い路地へ飛び込み、追跡していた白い影を撃ち抜いた。
硬質な破砕音。
狐を模した白い小型端末が、壁に激突して砕け散る。
だが、安堵する暇はなかった。
『ポラリス十二号からの通信途絶を確認。ポラリス十三号へ追跡権限を移行します』
今度は、頭上のスピーカーから声が聞こえる。
街頭放送用の設備まで使っている。
「……しつこいのよ」
吐き捨てた声は、雨音に飲まれた。
澪は走りながら、濡れた制服のポケットへ手を入れる。指先に触れたのは、何度も折り畳まれ、端が柔らかくなった一枚の紙だった。
印刷された文字は、たった数行。
――魔法少女を辞めたい場合。
――星見市南区、旧月見商店街。
――宵待ち生活相談所。
――本人が来ること。
差出人は不明だった。
暗号化されたメールに添付されていた住所を、最初は罠だと思った。星冠局が逃亡者を誘き出すために用意した囮。その可能性はいまも消えていない。
それでも、他に行く場所はなかった。
魔法少女は、契約から逃げられない。
力を失えば終わりではない。身柄を拘束され、適性検査という名目で施設へ送られる。
逃走すれば、契約違反。
命令を拒めば、強制執行。
それでも澪には、戻れない理由があった。
十四歳。魔法少女になって、まだ八か月。
今夜一時、星冠局第三区収容施設において処分予定。
澪自身の手で、その命令書を受け取った。
対象の危険性を考慮し、契約者ルミナス・ルビーによる即時排除を推奨する。
書類には、そう書かれていた。
琴葉の名前ではなく、役割硬化個体と。
「ふざけるな……」
呟いた瞬間、脇腹が大きく脈打った。
足がもつれ、澪はシャッターへ肩からぶつかった。薄い金属板が激しい音を立てる。
膝をつきそうになる。
ここで止まれば捕まる。
分かっているのに、脚が言うことを聞かなかった。
『契約者の身体機能低下を確認。保護手順へ移行します』
「だま、りなさいよ……!」
歯を食いしばり、顔を上げる。
商店街の先に、一軒だけ明かりのついた建物があった。
古びた写真館。
一階には色褪せた看板が残り、ガラス戸の向こうに、誰にも引き取られなかったらしい家族写真が並んでいる。
その脇に、二階へ続く細い階段。
錆びた手摺の横に、小さな金属板が掛けられていた。
宵待ち生活相談所。
澪は階段を上り、扉の前まで辿り着く。
追手の気配は近い。
一瞬だけ躊躇した。
この先にいるものが、味方だという保証はない。
それどころか、本当に魔法少女の契約へ干渉できる存在なら、星冠局が放置しているはずもなかった。
だが琴葉には、もう時間がない。
澪は拳を握り、扉を三度叩いた。
「開いてる」
返ってきたのは、低い男の声だった。
鍵を掛けていないらしい。
澪は眉を寄せ、それでも扉を押し開けた。
中は、想像していたよりも普通の事務所だった。
壁際には書類棚が並び、中央に応接用の低いテーブルとソファ。奥には木製の机がひとつあり、その上だけが古いデスクライトに照らされている。
怪しげな魔法陣もなければ、黒い儀式道具もない。
紙とインク、それに薄くコーヒーの匂いがした。
机に向かっていた男が、顔を上げる。
四十代半ばほどだろうか。
白いシャツに黒いベスト。こめかみに白髪が混じり、無精ではないが、整えすぎてもいない黒髪を後ろへ流している。
澪を見る目に、驚きはなかった。
血まみれの女子高校生が深夜に訪ねてきたというのに、男は悲鳴も上げず、警察を呼ぼうともしなかった。
「追手は何人だ」
挨拶より先に、それを訊いた。
澪は扉を閉め、背を預ける。
「三人。あと、案内役が一体」
「階級は」
「全員、一等星」
「少ないな」
男はそう言うと、机の引き出しから清潔なタオルを取り出した。
「……一等星が三人よ?」
「さっき聞いた」
平然と答え、タオルをテーブルへ置く。
続いて救急箱と、未開封のペットボトル。少し考えてから、部屋の隅にある戸棚を開き、灰色のスウェットまで出してきた。
「着替えは奥だ。傷を見せろ」
「触らないで」
反射的に睨むと、男は足を止めた。
「分かった。自分で圧迫できるか」
澪は答えなかった。
男も重ねて訊かなかった。
他人に傷を見せるのには慣れていた。星冠局の医療班なら、変身解除と同時に検査を始める。命令であれば、澪に拒否権はない。
だが、この男は澪が拒んだ途端、あっさり引いた。
そのことが、かえって気味悪く思えた。
「あなたが、ここの人?」
「黒瀬だ」
「黒瀬、何」
「
男――黒瀬朔は、名乗ると机の前の椅子を引いた。
「座れ。床に血が落ちる」
「心配するの、そっち?」
「床は後で拭ける。お前さんが倒れると話が聞けない」
澪は鼻で笑おうとしたが、息を吸っただけで脇腹が痛んだ。
仕方なく椅子へ腰を下ろす。
濡れた制服から水と血が滴り、古い床に小さな染みを作った。
黒瀬は澪の向かいには座らなかった。
机を挟むのではなく、少し離れた場所にもう一脚椅子を持ってくる。
「名前は」
「鳴海澪」
「活動名は」
澪は一瞬、口を噤んだ。
「……ルミナス・ルビー」
「所属」
「星冠局、第三区」
「分かった」
黒瀬は紙へ書き留める。
澪は濡れた髪を掻き上げ、男の手元を睨んだ。
「ねえ」
「何だ」
「ここに来れば、魔法少女を辞められるって聞いたわ」
ペン先が止まった。
デスクライトの明かりの中で、黒瀬が顔を上げる。
澪は喉に引っかかったものを無理に押し出すように、もう一度言った。
「魔法少女を、辞めたいんです」
声にしてしまうと、思っていたより弱く聞こえた。
戦闘中なら、もっと大きな声が出る。何千人もの前で笑い、励まし、怪物へ啖呵を切ることだってできる。
けれど、その一言だけは、喉が震えた。
黒瀬は澪を慰めなかった。
よく言えたとも、もう大丈夫だとも言わない。
代わりに、ペンを置いた。
「確認する」
「何を」
「本人の意思かどうか」
澪は眉を寄せた。
「そうよ」
「誰かに言わされていないか」
「違う」
「力を失った後も、同じ選択をするか」
今度は、すぐに答えられなかった。
魔法を失う。
ルミナス・ルビーではなくなる。
空を飛べず、炎を操れず、怪物が現れても何もできない。ただの鳴海澪に戻る。
いや。
戻る、という表現すら正しいのか分からなかった。十三歳から三年間、澪の生活は魔法少女であることを中心に回ってきた。
それがなくなった後、自分に何が残るのか。
「……今は、そんなこと考えてる時間ないの」
「なら、依頼は受けられない」
「は?」
澪は椅子から立ち上がった。
脇腹が痛み、視界が揺れる。
それでも机に手をつき、黒瀬を睨みつけた。
「こっちは命がかかってるのよ」
「だから確認している」
「私は逃げてきたの。戻ったら、琴葉が殺される。私も処分されるかもしれない。それでも考えろっていうの?」
「そうだ」
黒瀬の声は変わらない。
「時間がないことと、お前さんの意思を他人が決めていいことは別だ」
「分かったようなことを――」
「分からないから聞いている」
言葉を遮った声は低かったが、強くはなかった。
澪は口を噤む。
黒瀬は机の引き出しから、一枚の書類を取り出した。
魔法少女契約解除申立書。
書式は古く、星冠局のものとは異なる。
それでも、いたずらで作られた紙には見えなかった。申立人の氏名、契約時の願望、現在の拘束条項、解除後の生活希望。細かな記入欄が並んでいる。
「後悔しないか、とは聞いていない」
黒瀬は書類を澪の前へ置いた。
「後悔しても、選び直さないかを聞いている」
そのとき、窓ガラスに白い線が走った。
澪は反射的に振り返る。
窓の向こうに、白い狐の顔が浮かんでいた。
次の瞬間、ガラスが内側へ弾け飛ぶ。
「伏せて!」
澪が叫ぶより早く、黒瀬がテーブルを蹴り上げた。
厚い天板が盾となり、破片を受け止める。
白い端末は宙を滑るように室内へ入り、床へ着地した。
狐を模した胴体。金色の目。首元には星冠局の紋章。
ポラリス十三号。
『契約者ルミナス・ルビーを確認』
澪は胸元の変身具へ手を伸ばした。
しかし、指が触れるより早く、端末の目が赤く輝く。
『戦闘任務からの無断離脱を確認。契約条項第十二項に基づき、強制帰還手順へ移行します』
「断る!」
『契約者の意思確認を省略』
胸の奥で、何かが噛み合う音がした。
澪の身体を、内側から光が突き破る。
足元に赤い魔法陣が広がり、濡れた制服が光へ分解され始めた。
強制変身。
星冠局が緊急時にだけ使用できる、契約者本人の意思を無視した変身命令。
澪は歯を食いしばった。
「やめろ……!」
命令に逆らおうとするほど、胸の奥が焼ける。
骨の隙間へ熱した針を差し込まれるような痛みだった。
赤い光が腕を覆い、戦闘衣装を形作っていく。
変身が完了すれば、次に来るのは任務の強制執行だ。身体は星冠局へ戻るまで、澪の意思を受けつけなくなる。
視界の端で、黒瀬が動いた。
「止めるぞ」
短く告げて、澪の前へ立つ。
「来ないで! 触ったら巻き込まれる!」
黒瀬は答えなかった。
左手の革手袋を外す。
露わになった腕に、黒い亀裂のような痕が走っていた。その隙間に、白い文字がいくつも刻まれている。
名前だった。
知らない誰かの名前。
黒瀬の左手が、澪の胸元に浮かぶ魔法陣へ伸びた。
指先が光に触れる。
魔法陣が激しく明滅した。
『警告。未登録存在による契約干渉を確認』
黒瀬は光の輪郭を掴んだ。
本来、実体などないはずの魔法陣が、彼の指の間で紙のように歪む。
「これは契約じゃない」
黒瀬は低く言った。
「縛りだ」
そのまま腕を引く。
乾いた音がした。
澪の胸元で、魔法陣が割れた。
赤い光が細かな破片となって飛び散り、空中で消えていく。
形成されかけていた戦闘衣装も霧散し、濡れた制服だけが残った。
澪は息を忘れた。
魔法を防いだのではない。
解除したのでもない。
この男は、星冠局の契約そのものを、素手で引き裂いた。
『契約機構への重大な損傷を確認。対象を敵性存在と認定』
ポラリス十三号の背から、白い針が何本も展開する。
それが、黒瀬へ向けて射出された。
「黒瀬!」
澪の声と同時に、黒瀬が右手を上げ、指先を横へ払う。
それだけだった。
空中を飛んでいた白い針から、光が消える。
針は黒瀬へ届く前に勢いを失い、ただの小さな金属片となって床へ散らばった。
黒瀬はポラリス十三号の前まで歩く。
端末が後退しようとしたが、脚部が動かない。
「ここは相談所だ」
黒瀬は端末を見下ろした。
「本人の同意がない契約更新は認めていない」
『権限不明。対象情報を照合します』
ポラリス十三号の金色の目から細い光が伸び、黒瀬の顔と左腕を走査する。
澪は壁に背を預けたまま、その様子を見ていた。
脇腹の痛みも、追手が迫っていることも、一瞬だけ意識から消えていた。
『生体情報を照合』
端末の声が途切れる。
金色の目が、何度も明滅した。
『再照合』
『該当記録を確認』
『記録上、二十二年前に討伐済み』
黒瀬の表情は変わらない。
一方で、ポラリス十三号の声には、機械であるはずなのに明らかな乱れが混じり始めていた。
『国家終局級災害指定個体』
『旧識別名称――』
澪の背筋を、冷たいものが走る。
知っている。
その呼び名を、魔法少女なら誰もが教えられる。
二十二年前、当時最強の名をほしいままにしていた七人の冠位魔法少女と戦い、首都圏を壊滅寸前へ追い込んだ最後の怪人。
歴史上、ただ一体だけ、世界そのものを終わらせられると認定された存在。
『終局怪人《エンドロール》』
ポラリス十三号の声が告げた。
黒瀬が端末の頭を片手で掴む。
強く握ったようには見えなかった。
それでも白い外殻に亀裂が入り、金色の目から光が消える。
黒瀬は沈黙した端末を持ち上げると、壊れたテーブルの上へ静かに置いた。
それから澪を見る。
逃げるべきだった。
魔法少女として教え込まれた本能が、全身で警告している。
目の前にいるのは人間ではない。
魔法少女の敵。
世界を滅ぼしかけた怪人。
けれど、その怪人は澪を攻撃しなかった。
黒瀬は机から転がり落ちた申立書を拾い、血と雨水で濡れた部分を確かめる。
「書き直しだな」
それだけ言って、新しい用紙を取り出した。
澪は呆然と彼を見つめる。
黒瀬はペンを申立書の上へ置いた。
「それで」
低く、静かな声だった。
「俺の正体を知っても、まだ辞める意思はあるか」
窓の外では、雨が降り続いている。
遠くから、追手の魔力反応が近づいていた。
澪は黒瀬を見た。
机の上に置かれた契約解除申立書を見る。
そして震える指で、ペンを取った。