公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
給金日の夕方――。
台所には
そこへ、門の呼び鈴が、苛立った鳴り方をした。
鳴らし方にも、人柄は出る。二度で済むものを、四度。
門前に停まった馬車の紋章を見て、私は前掛けを外し、襟を正した。ルヴェル公爵家の四つ紋。使者の馬車ではない。当主の馬車である。
門へ出ようとする私の半歩後ろに、旦那様がついてきた。何も言わない。ただ、いてくれる。それだけで、地面が少し固くなる。
肩越しに見えた横顔は、青いというより白い。それでも、逃げない。このふた月半で覚えた、当主の顔である。
ジョスラン・ルヴェル公爵は、馬車を降りて、開口一番に言った。
「遊びは終わりだ。戻れ。給金は言い値で払う」
挨拶は、なかった。この方の挨拶は、いつも用件の形をしている。
私は、二十年で身に付いたいちばん深い礼をした。
「戻る場所を、わたくしは存じません」
「……何?」
「わたくしはもう、お宅の名簿にございません」
公爵の眉が、あの形のいい眉が、歪んだ。苛立ちの下に、別のものが覗いた気がした。眠りの足りない目である。それに、外套の襟の折りが甘い。側仕えの手が回っていない襟である。見てしまう自分の目を、私は少し持て余す。診立ては、もう私の仕事ではないのだ。
「屋敷が回らん。……お前の仕組んだことか?」
「いいえ。わたくしは、何もしておりません」
風が、門前の落ち葉をひと掃きしていった。
何もしていない、は本当である。私はただ、辞めただけだ。辞めただけで崩れるものを、世間は仕組みとは呼ばない。
「では、なぜ回らん?」
「お答えでしたら、執事室の棚に。二十年分、書き置いてございます」
公爵は、黙った。読んでいないのだ、と分かる沈黙である。読めば済む。済むのに読まない。その意地の値段が、いま、あの屋敷のあちこちで利子を生んでいる。
「……執事も、同じことを言った」
吐き捨てるような、小さな声だった。
バティスト様。あなたは言うべきことを、ちゃんと言っておいでだ。言われた側が、まだ受け取り方をご存じないだけで。
「――それから、若様」
言うつもりのなかった一言が、口の端から出た。
「女中頭は、誰にでも務まるそうでございますよ。お探しになれば、じきに」
言い切ってから、胸の奥で奥様の顔がよぎった。二十年で唯一の意趣返しは、蜜の味が三割、あとの七割は、少し苦い。
――奥様。一度だけです。一度だけ、言わせていただきました。
公爵は何か言いかけ、私の後ろの旦那様を一瞥し、結局、何も言わずに馬車へ戻った。扉の閉まる音が、必要より少し大きい。
◇
給金日の温かな夜――。
食堂の蝋燭二本。布包み。銀貨三枚と、蔵の分の銅貨八十枚。旦那様が十枚ずつ山にして数え、コリンヌが焼き菓子の失敗作と成功作を並べ、ティボーが計算を
ふと窓の外を見れば、門の先の闇に馬車はまだ停まっていた。
窓べに寄って目を凝らせば、灯りの届かない場所から、この窓を見ている気配がしばらくあった。何を見ているのかは、分からない。ただ、あの屋敷の食堂は広くて、蝋燭が多くて、寒い。それを知っている者は、いまこの食卓に、私しかいない。
旦那様が、ふと立って、燭台をひとつ窓辺へ足した。
「……帰り道が、暗いですから」
それだけ言って、席に戻る。誰の帰り道かは、言わなかった。この人の礼儀は、ときどき、こういう置き方をする。
やがて、車輪の音が坂を下りていった。
食卓に戻ると、私の皿の上に、成功作の焼き菓子がひとつ増えていた。誰が置いたのかは、聞かないでおく。聞かないことも、最近少しずつ増えていく。
◇
王都のさる伯爵家の奥向きで、当主夫妻が声を低くしていた。娘の縁談の相手は、ルヴェル公爵。家柄も財も申し分ない。ただ、近ごろの噂がいけない。夜会の席次で二つの家門を怒らせた。先代夫人の命日で教会と親族を怒らせた。奥向きの整わない家は、遠目にも分かるものである。「……家の中が見えん家に、娘はやれん」。当主は
◇
数日後、ブノワ殿から夜会の日取りを報せる文が届いた。
文には、招待客の一覧が添えてある。その筆頭の名に、私は目を留めた。
ロクサーヌ侯爵夫人。
社交界でその名を知らぬ者はいない。儀典にいちばん煩く、いちばん目の利く、あの大夫人である。
――初仕事の客席に、王都でいちばん怖い目が座る。
私は袖をまくり直した。
上等である。怖い目ほど、良い仕事を見逃さない。