公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

14 / 30
14. 人を覚える帳

 ティボーの帳場係就任は、家中の満場一致で決まった。

 

 本人だけが、板きれを抱えて後ずさった。

 

「お、おれ、字を習ってまだ三月ですよ?」

 

「数は十五年、お使いでしょう。字は、数の袖にすぎません」

 

 仕事は単純である。四筋の銭の出入りを日々帳面に付け、週の終わりに純益を締め、一割を弾いて、給金日に読み上げる。

 

 就任の報せを聞きつけて、メナール殿が古い帳面差しを届けてよこした。添え文に、乾いた字で一行。「帳場係どのへ。数字は、正直者の味方です」。ティボーはそれを勲章のように腰へ差し、以来、歩くたびに少し胸を張る。

 

 三日目の晩、その新米帳場係が、帳面を抱えて青い顔で来た。

 

「マーサさん。今週の勘定、合わないんです」

 

「いくら、足りません?」

 

「……足りないんじゃなくて。多すぎる方に、合わないんです」

 

 銅貨で、四十枚。帳面の上では出ていったはずの銭が、財布に残っている。三度数え直したという。多い分だけ、盗みより性質の悪い顔をしていた。多い銭は、どこかで誰かが黙って損をしている銭だからである。

 

 種は、翌朝の検めで割れた。

 

 帳面を付けたのは、ティボーである。市場育ちの目は、仕入れに掛かる銭を見逃さない。私の使った荷車の借り賃も、商談の席の茶代も、見聞きしたままに、相場どおり経費へ書き付けてあった。几帳面で、正しい帳面である。

 

 正しくないのは、私の方だった。その四十枚の精算を、申し出ていない。自分の財布から払って、払ったまま、黙っていたのである。

 

 旦那様が帳面と突き合わせて、私の顔を、じっと見た。

 

「……マーサさん。茶代と荷車の借り賃、精算がまだです」

 

「わたくしの喉と足でございますので」

 

「仕入れの道中の、です」

 

 旦那様は当家の財布から銅貨を四十枚数えて、私の掌に載せた。帳面と財布が、これで合う。それから、初めて聞く種類の、静かな声で言った。

 

「あなたには、自分の値打ちを値切る癖があります。……他人の値札には、あんなに(うるさ)いくせに」

 

 返す言葉が、見つからなかった。

 

 二十年、経費は屋敷のもの、自分は屋敷の備品――そういう帳簿で生きてきた。備品は茶を飲まない。だから付けなかった。それだけのことが、それだけのことではないと、この人の帳面は言うのである。

 

 思えば、奥様に拾われた日から、私は「もらいすぎない」ことで釣り合いを取ってきた。拾われた恩は値引きで返す――そういう算盤が、体の芯に住み着いている。その古い算盤を、この人は責めもせず、声も荒げず、帳面の上から静かに叩き直しに来るのだ。

 

「以後、改めます」

 

 負けた。何にどう負けたのかは、手帳に書かないでおく。

 

 約束通り、以後、旦那様は私の精算の行を真っ先に検めるようになる。申し出を怠ると、あの美しい字で「精算」とだけ書いた紙が、そっと帳面に挟んである。声を荒げない人の、恐ろしい検め方である。

 

 ――その手帳の話になった。

 

 この日から、給金の計算を家中で検める習いが始まった。蝋燭二本の食堂に、帳面をめくる音と、茶のいい匂い。帳面はティボーが読み、旦那様が検め、コリンヌが茶を注ぐ。読み合わせの途中、私が腰の手帳を繰るのを見て、ティボーが首を伸ばした。

 

「マーサさん、それ、何の帳面です?」

 

「人を覚える帳、でございます」

 

 開いて、見せてやる。青物の女将の末の子が熱を出した日。粉屋の代替わりの祝いの日取り。バジル爺の腰の按配(あんばい)。ブノワ殿の娘御の好きな花。羊毛商は左利きで、荷を左から積む。ロクサーヌ様の茶は薄め、メナール殿は甘い物に目がない(顔に出さないだけである)――。

 

「段取りは紙に書けます。人は、書き切れません。ですから、覚えるのです」

 

「……それ、銭になるんですか?」

 

「なりません。ですが、これがないと、銭の方が寄って来ないのでございます」

 

 旦那様は、手帳を覗き込まずに、少し離れたところから眺めていた。

 

「それは、あなたの二十年ですね」

 

 見ない礼儀と、言い当てる目。この二つを併せ持つ人は、そう多くない。

 

 読み合わせが終わると、旦那様が帳面の末尾に日付と署名を入れる。あの美しい字である。数字の列の終わりに置かれると、署名というものは、妙に頼もしい形をしている。

 

 ティボーは分かったような分からないような顔で、自分の帳面の隅に、小さく何かを書き付けた。あとで盗み見ると、こうあった。

 

 ――マーサさん、じぶんの茶代を、とりたてない。要検め。

 

 ……この子は、いい帳場係になる。

 

        ◇

 

 ルヴェル公爵家の洗い場で、娘がひとり、頬を濡らしていた。銀器の数の一件このかた、洗い場は疑いの目の通り道である。数え違いが出るたび、叱られるのは言い返す口を持たない、いちばん下の者だ。娘は手を止めない。止めれば、また叱られるからである。回らない屋敷は、いちばん下から冷えていく。

 

        ◇

 

 数日後の朝――庭のバジル爺が、塀の破れ目の前で首を捻っていた。

 

 破れ目の内側、霜の残る土の上に、小さな靴の跡がひとつ。

 

 爪先はこちらの屋敷を向き、踵の跡が深い。長いこと立って、迷って、帰った足である。次に来るなら、思い詰めた夜だろう。

 

 夜に戸を叩く子を追い返さずに済むよう、支度だけしておく。――スープの作り置きである。他意はない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。