公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

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15. 規定通り、お帰りなさい

 靴の主は、その晩に現れた。

 

 夜半、台所の戸を叩く音がする。遠慮と必死が半々の、小さな叩き方である。開ければ、月明かりの下に、痩せた娘がひとり立っていた。年の頃は十四、五。息が白く、肩が震えている。手は洗い場の手――水で膨れて、あかぎれが指の節に赤い。手は履歴書である。この手は、まだ短くて、もう傷んでいる。頬に乾いた涙の筋があり、靴は左だけ泥はねだらけ――塀の破れ目をくぐった靴である。

 

「……ここで雇ってもらえるって、市場で、聞いて」

 

 嘘である。市場はそんなことを言わない。言わないが、藁にすがる娘の藁くらいには、うちの噂もなっているらしい。

 

「お名前は?」

 

「ニネット。……ルヴェル様のお屋敷の、洗い場です」

 

 やはり、である。

 

 まず、台所へ入れた。火の側に座らせ、作り置きのスープを温めて、蒸かし芋を添える。娘は最初のひと匙で泣き出して、泣きながら、全部食べた。コリンヌが黙って干し芋を足す。

 

 旦那様が起きてきたのは、その頃である。事情をひと目で察して、何も聞かず、何も言わず――娘の向かいに椅子をひとつ引いて、座った。

 

 震える娘の前に、当主が座る。それだけで、娘の肩から力が抜けていく。この家の椅子は、そういう仕事をする。

 

「今夜は、お預かりします」

 

 湯を使わせ、コリンヌの古い寝間着を着せると、娘は箒より軽い音で寝台に沈んだ。眠りの速さは、疲れの深さである。

 

 娘が寝入ってから、私は旦那様に頭を下げた。

 

「ですが、雇いません。……明日の朝、帰します」

 

「――帰すのですか?」

 

 当主の声に、初めて硬いものが混じった。あの家に、と言外に言っている。

 

「逃げた娘のままでは、あの子は次の職場で胸を張れません。奉公人の世間は、狭うございます。世間は、逃げた子に札を貼ります。……貼らせないのが、大人の仕事でございます」

 

「では、どうするのです?」

 

「辞め方を教えます。規定通りの、綺麗な辞め方を。暇乞いはバティスト様に直に通し、わたくしが門まで付き添います。それから、次の口を世話します。――逃げた先ではなく、辞めた先へ、行かせてやりとうございます」

 

 旦那様は長いこと黙って、それから、深く息を吐いた。

 

「……あなたは、厳しい人だ」

 

「家政長でございますので」

 

「そして、優しい人だ」

 

「家政長でございますので」

 

 同じ返事をふたつ並べたら、旦那様は少しだけ笑った。

 

 ――翌朝の食卓には、昨夜の椅子がそのまま残っている。

 

 ニネットは端に座って、湯気の立つ粥を、今度は泣かずに食べた。コリンヌが包みをひとつ持たせる。中身は干し芋の甘い方である。あれは子どもらに、と修道女も言っていた。

 

 朝食のあと、私はニネットの前に膝を折って、目の高さを合わせた。

 

「ニネット。――規定通り、お帰りなさい」

 

 娘の肩が、跳ねる。

 

「帰り方から、お教えします。逃げた娘としてではなく、勤めを果たした娘として、お帰りなさい。辞め方は、わたくしが教えます」

 

 道々、教えた。

 

 黙って消えない。書き置きにしない。執事のバティスト様を頼って、暇乞(いとまご)いの口上を通す。給金の残りは日割りで受け取り、頭を下げて、表の門から出る。

 

「口上を、お稽古しましょう。……はい、胸を張って。俯かない」

 

 一度目は蚊の鳴くような声で、二度目は涙声で、三度目に、通った。

 

「けっこうでございます。いまの声を、忘れないこと」

 

 塀の破れ目ではなく、表の門まで送っていく。別れ際、娘は振り返って聞いた。

 

「あの……次の口って、ほんとに、あるんですか?」

 

「ございます。王都でいちばん怖くて、いちばん確かなお方のお屋敷に、行儀見習いの口を」

 

 ロクサーヌ様への文には、こう書いた。磨けば光ります。ただいま曇っております。曇りの理由は、当人の恥にはなりません。――あの方に、長い説明は無礼である。

 

 それから娘は、もうひとつだけ聞いた。

 

「マーサさんは……どうして、あの家を辞められたんですか?」

 

「規定通りに、辞めただけでございます」

 

 娘は少し考えて、それから、今朝いちばんの顔で笑った。

 

「あたしも、規定通りにします」

 

 三歩歩いて、振り返り、もう一度深く頭を下げる。稽古していない礼だった。稽古のない礼が、いちばん堂に入るのである。

 

 ロクサーヌ侯爵夫人には、文を一本書けば足りる。あの方は目利きである。磨けば光る子を、見逃す目ではない。

 

 ――引き抜かない。逃がさない。見捨てない。

 

 三つ数えて、私は胸の内に線を引き直す。塀の向こうは、もう私の職場ではない。ないが、あそこで働く子たちの行く末にまで、他人の顔はできない。二十年は、そういうふうには畳めないのである。

 

        ◇

 

 ルヴェル公爵家の執事室で、バティストは名簿を繰っていた。洗い場の娘の暇乞いを、彼は正式の作法で受け、日割りの給金を渡し、判を押した。娘の去り際の礼が妙に堂に入っていたのは、誰かの稽古の跡である。名簿から洗い場の一行が消え、一人分の空白が残る。空白を埋める手立ての上申は、この屋敷では通らない。鏡の中の白髪が、また増えた。

 

        ◇

 

 数日後――ロクサーヌ家から、ニネット受け入れの返書が来た。

 

 追伸に、扇の絵柄の印と、一行。

 

「ところで。近ごろ社交界に、あなたの妙な噂が流れていてよ」

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