公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

16 / 25
16. 日付印は嘘をつかない

 噂は、荷馬車より速く走る。

 

 ロクサーヌ様の文から三日後には、市場の女将が眉を寄せて教えてくれた。曰く――あの女中頭は、辞めた屋敷から機密を持ち出した。献立の帳面も、席次の綴りも、取引の裏書きも。没落伯爵家の急な羽振りは、盗んだ紙の商いだ、と。

 

「で。あんた、持ち出したのかい?」

 

「規定で拵えた、わたくし自身の控えが一部だけ。正本は執事室の棚に、写しは公証人の金庫に、置いて出てございます。鞄の余りは着替えと、(くし)と、少々の蓄えでございました」

 

「徹底……してるね……」

 

「盗人は、預け先を諳んじません」

 

 女将は「だろうさ」と鼻を鳴らして、樽の上の芋を義理堅くひと盛り買い足してくれた。市場は人を品物で量る。二十年の取引の目方は、噂ひとつでは動かないのである。

 

 動いたのは、うちの旦那様だった。

 

 夕餉の席で報せを聞くなり、椅子を鳴らして立ち上がる。組合の寄り合いに出向いて、正面から抗議します、と言う。

 

「なりません」

 

「しかし、あなたの名誉です」

 

「騒ぐと、噂は肥えます」

 

 お座りいただいて、茶を注ぎ直す。言い返す声は、噂にとって何よりのご馳走である。放っておかれることが、いちばんの飢えなのだ。

 

「名誉は逃げません。逃げるのは腰の据わらないお客だけ――それは、逃げていただいて結構なお客でございます」

 

「……あなたは、悔しくないのですか?」

 

 悔しいか、と問われて、胸の内を検分する。悔しさより先に、見積もりが立っている。出所を探すだけ無駄である。噂に親を尋ねても、名乗りはしないのだ。

 

「悔しゅうございますよ。ですから、いちばん高くつく返事を選んでおります。――何も、しないという返事を」

 

 旦那様は長いこと私の顔を見て、それから静かに座り直した。怒りを収めたのではない。預けたのだと、後で知ることになる。

 

 数日して、メナール殿から文が届いた。宛名は当家、文面は乾いている。

 

「風聞に接し、当職保管の控えの現存を確認す。フルーリ家家政長マーサ殿の引き継ぎ書控え一式、退職当日の日付印あり。閲覧を望む向きは正規の手続きを踏まれたし。手数料、銀貨一枚。――日付印は、嘘をつきません」

 

 噂を見たければ銭を払え、という趣旨である。あの御方は、噂に値札をお付けになったのだ。以来、閲覧に来た者はひとりもいないという。ただで見る、が出来ないのが噂の性分である。

 

 ――ロクサーヌ様の冬の夜会に、当家は客として招かれた。

 

 設営ではなく、招かれる側。返り咲きの一歩である。侯爵家の車寄せで馬車の戸が開くと、外套を受けに立った娘の手つきが、まだ少し硬い。顔を上げた拍子に目が合って、娘は稽古通りの礼と、稽古にない笑顔をひとつ寄越した。ニネットである。曇りは、取れ始めている。

 

 広間は暖かく、噂は寒いところに溜まる。壁際、扇の陰、酒の匂いのする輪。聞こえよがしの声は、聞こえよがしに出来ている。

 

「――フルーリ卿は、よい買い物をなさった。よそ様の二十年を、紙ごと丸ごと」

 

 旦那様の足が、止まった。

 

 私は半歩後ろで、いつも通りに控えている。ここで私が口を開けば、噂は望んだ餌を得る。開かないのが、私の仕事である。

 

「仰る通り、当家はよい買い物をしました」

 

 旦那様の声は、震えなかった。

 

「うちの家政長の経歴は、当家の誇りです。値踏みはご自由に。ただし当家の帳面を疑うなら、日付印まで検めていただきましょう」

 

「日付印?」

 

「あら、検めるまでもなくてよ」

 

 臙脂(えんじ)の扇が、輪の真ん中へ割って入った。ロクサーヌ様である。

 

「わたくし、公証人のメナール先生に確かめましたの。引き継ぎ書は三部――正本は屋敷の棚、写しは先生の金庫、ご本人の手元は規定の同文控えが一部。どれも退職日の日付印つきよ。機密を抱えて逃げる方は、預け先の一覧なんて残さなくてよ。手数料も払ってよ――近ごろでいちばん安い、確かな買い物だったわ。それで」

 

 扇が、ぱちりと閉じる。

 

「機密を持ち出された、とお騒ぎのお家は、機密の在り処もご存じないの?」

 

 広間に、さざめきと笑いが起きた。噂は、怒りでは死なない。笑いで死ぬのである。棘を吐いた紳士は杯を持ったまま、行き場のない笑みを浮かべて輪から溶けた。

 

 帰りの馬車は、冷えた革の匂いがする。

 

 膝掛けを渡すと、旦那様は受け取らずに、私の膝へ掛け直した。窓の外を街の灯が流れ、車輪が石畳を数えていく。向かいの手が、まだ拳のままである。

 

「……言い足りません」

 

「あれ以上は、蛇足でございます。盾は、長口上を述べません」

 

「盾……」

 

 旦那様は拳をほどいて、少し笑った。

 

「二十年、あなたはどなたかの盾でした。今夜だけ、逆でしたか?」

 

「盾は、本来わたくしの職分でございます。今夜のところは――お借りいたしました」

 

 言いながら、胸の内で何かの置き場が定まらない。守るのは慣れている。守られるのは、段取りにない。段取りにないものは、いつも少し、体温が高いのである。

 

 屋敷へ戻ると、台所に灯りが残っていた。コリンヌが熱い茶を支度して待っている。湯呑みを両手で包んで、初めて、指が芯まで冷えていたことを知った。冷えというものは、守られている間は気づかないものらしい。

 

        ◇

 

 ルヴェル公爵家の車寄せに、賓客の馬車が着いた。戸が開いても、誰も立っていない。外套を受ける係も、客名を取り次ぐ係も、兼任の押し付け合いの間に落ちて、誰の職分でもなくなっている。客は自分で戸を押し、玄関で外套を抱えたまま立ち往生した。報せを受けた老執事が駆けつけたときには、挨拶の間合いはとうに死んでいる。体は、ひとつしかない。詫びる白髪に、客は「よい」とだけ言った。よくないときの「よい」である。

 

        ◇

 

 夜会の噂話には、もうひとつ、別の切れ端が混ざっていた。今年は薪の相場が騒がしい、というのである。

 

 冬の足音は、塀を選ばない。――いや。

 

 選ぶのだ。備えのある家と、ない家を。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。