公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
噂は、荷馬車より速く走る。
ロクサーヌ様の文から三日後には、市場の女将が眉を寄せて教えてくれた。曰く――あの女中頭は、辞めた屋敷から機密を持ち出した。献立の帳面も、席次の綴りも、取引の裏書きも。没落伯爵家の急な羽振りは、盗んだ紙の商いだ、と。
「で。あんた、持ち出したのかい?」
「規定で拵えた、わたくし自身の控えが一部だけ。正本は執事室の棚に、写しは公証人の金庫に、置いて出てございます。鞄の余りは着替えと、
「徹底……してるね……」
「盗人は、預け先を諳んじません」
女将は「だろうさ」と鼻を鳴らして、樽の上の芋を義理堅くひと盛り買い足してくれた。市場は人を品物で量る。二十年の取引の目方は、噂ひとつでは動かないのである。
動いたのは、うちの旦那様だった。
夕餉の席で報せを聞くなり、椅子を鳴らして立ち上がる。組合の寄り合いに出向いて、正面から抗議します、と言う。
「なりません」
「しかし、あなたの名誉です」
「騒ぐと、噂は肥えます」
お座りいただいて、茶を注ぎ直す。言い返す声は、噂にとって何よりのご馳走である。放っておかれることが、いちばんの飢えなのだ。
「名誉は逃げません。逃げるのは腰の据わらないお客だけ――それは、逃げていただいて結構なお客でございます」
「……あなたは、悔しくないのですか?」
悔しいか、と問われて、胸の内を検分する。悔しさより先に、見積もりが立っている。出所を探すだけ無駄である。噂に親を尋ねても、名乗りはしないのだ。
「悔しゅうございますよ。ですから、いちばん高くつく返事を選んでおります。――何も、しないという返事を」
旦那様は長いこと私の顔を見て、それから静かに座り直した。怒りを収めたのではない。預けたのだと、後で知ることになる。
数日して、メナール殿から文が届いた。宛名は当家、文面は乾いている。
「風聞に接し、当職保管の控えの現存を確認す。フルーリ家家政長マーサ殿の引き継ぎ書控え一式、退職当日の日付印あり。閲覧を望む向きは正規の手続きを踏まれたし。手数料、銀貨一枚。――日付印は、嘘をつきません」
噂を見たければ銭を払え、という趣旨である。あの御方は、噂に値札をお付けになったのだ。以来、閲覧に来た者はひとりもいないという。ただで見る、が出来ないのが噂の性分である。
――ロクサーヌ様の冬の夜会に、当家は客として招かれた。
設営ではなく、招かれる側。返り咲きの一歩である。侯爵家の車寄せで馬車の戸が開くと、外套を受けに立った娘の手つきが、まだ少し硬い。顔を上げた拍子に目が合って、娘は稽古通りの礼と、稽古にない笑顔をひとつ寄越した。ニネットである。曇りは、取れ始めている。
広間は暖かく、噂は寒いところに溜まる。壁際、扇の陰、酒の匂いのする輪。聞こえよがしの声は、聞こえよがしに出来ている。
「――フルーリ卿は、よい買い物をなさった。よそ様の二十年を、紙ごと丸ごと」
旦那様の足が、止まった。
私は半歩後ろで、いつも通りに控えている。ここで私が口を開けば、噂は望んだ餌を得る。開かないのが、私の仕事である。
「仰る通り、当家はよい買い物をしました」
旦那様の声は、震えなかった。
「うちの家政長の経歴は、当家の誇りです。値踏みはご自由に。ただし当家の帳面を疑うなら、日付印まで検めていただきましょう」
「日付印?」
「あら、検めるまでもなくてよ」
「わたくし、公証人のメナール先生に確かめましたの。引き継ぎ書は三部――正本は屋敷の棚、写しは先生の金庫、ご本人の手元は規定の同文控えが一部。どれも退職日の日付印つきよ。機密を抱えて逃げる方は、預け先の一覧なんて残さなくてよ。手数料も払ってよ――近ごろでいちばん安い、確かな買い物だったわ。それで」
扇が、ぱちりと閉じる。
「機密を持ち出された、とお騒ぎのお家は、機密の在り処もご存じないの?」
広間に、さざめきと笑いが起きた。噂は、怒りでは死なない。笑いで死ぬのである。棘を吐いた紳士は杯を持ったまま、行き場のない笑みを浮かべて輪から溶けた。
帰りの馬車は、冷えた革の匂いがする。
膝掛けを渡すと、旦那様は受け取らずに、私の膝へ掛け直した。窓の外を街の灯が流れ、車輪が石畳を数えていく。向かいの手が、まだ拳のままである。
「……言い足りません」
「あれ以上は、蛇足でございます。盾は、長口上を述べません」
「盾……」
旦那様は拳をほどいて、少し笑った。
「二十年、あなたはどなたかの盾でした。今夜だけ、逆でしたか?」
「盾は、本来わたくしの職分でございます。今夜のところは――お借りいたしました」
言いながら、胸の内で何かの置き場が定まらない。守るのは慣れている。守られるのは、段取りにない。段取りにないものは、いつも少し、体温が高いのである。
屋敷へ戻ると、台所に灯りが残っていた。コリンヌが熱い茶を支度して待っている。湯呑みを両手で包んで、初めて、指が芯まで冷えていたことを知った。冷えというものは、守られている間は気づかないものらしい。
◇
ルヴェル公爵家の車寄せに、賓客の馬車が着いた。戸が開いても、誰も立っていない。外套を受ける係も、客名を取り次ぐ係も、兼任の押し付け合いの間に落ちて、誰の職分でもなくなっている。客は自分で戸を押し、玄関で外套を抱えたまま立ち往生した。報せを受けた老執事が駆けつけたときには、挨拶の間合いはとうに死んでいる。体は、ひとつしかない。詫びる白髪に、客は「よい」とだけ言った。よくないときの「よい」である。
◇
夜会の噂話には、もうひとつ、別の切れ端が混ざっていた。今年は薪の相場が騒がしい、というのである。
冬の足音は、塀を選ばない。――いや。
選ぶのだ。備えのある家と、ない家を。