公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
月に一度の納めの日、私は荷馬車と共に修道院へ上がった。
王都の外れ、丘のなかばの古い石の家である。門から玄関までの石畳に、
納めの検分は、年嵩の修道女がいつも通りに済ませた。干し芋の甘いのと塩のと、豆の固め焼き、瓶詰め。書き付けに判をもらって、仕事はそこで終いである。
終いのはずが、奥へ通された。
院長室は狭く、飾りがなく、暖炉の火だけが贅沢だった。窓の光の中に、白髪の院長が立っている。セレスティーヌ様――取引の文でしか存じ上げないお名前である。
「よく来てくださったわね。……ふふ。そんなに検分なさらないで」
「失礼をいたしました。職業病でございます」
「知っていてよ。姉さんが、よく笑っていたもの。『うちの子は、燭台を見ると値札が見える
部屋の空気が、一拍止まった。
姉さん。うちの子。燭台の値札――それは、私だ。奥様が、私の癖を面白がって仰った言い回しである。屋敷の外で、それを知る人はいないはずだった。
「あなた様は――」
「ジェルメーヌの妹よ。……神様の家に嫁いだ方の、妹」
院長は、暖炉の前の椅子を私に勧めた。勧められて、三呼吸――ではなく、今日は五呼吸かかった。
炉の火が
姉妹の話を、ぽつりぽつりと聞いた。三つ違いの姉妹で、姉は公爵家へ、妹は修道院へ。行く先は違えど、文は月に一度、四十年欠かさなかったという。
「姉さんの文には、途中からあなたがよく出てきたわ。市場で拾った目利きの子が、今日は何を覚えたって。……自慢の書き方が、まるで親馬鹿なの」
薄い茶が、急に飲みにくくなった。熱いせいである。熱いせいに、しておく。
「……取引のお相手に当家をお選びになったのも」
「ええ。姉さんの自慢の子が、どんな仕事をするのか、見たくてね。検分したわ。――姉さんの言う通りの仕事だった」
院長は椀を置き、背筋を伸ばした。伸ばして、それから――白髪の頭を、深く下げた。
「あの子を、頼めないかしら? ジョスランを。姉さんの、忘れ形見なの」
頭を、下げられた。
石の部屋の静けさの中で、私は自分の手を見た。この手はあの屋敷で二十年働いて、規定通りに辞めてきた手である。恨みはもう、ほとんどない。ないが――戻る道も、ない。
「お顔をお上げくださいませ」
声が、思ったより低く出た。
「奥様なら、こう仰います。まず、引き継ぎ書をお読みなさい、と」
院長が、顔を上げる。
「執事室の棚に、わたくしの二十年が、三部のうちの一部として置いてございます。若様がご自分でお開きになる日まで、あれは棚で待つのが役目でございます。……わたくしに出来る恩返しは、あの棚を空にしないでおくことだけでございます」
「……あの子、開くかしら?」
「奥様の子でございますよ」
院長は長いこと私を見て、それから、ようやく妹の顔で笑った。
「姉さんの言いそうなことを、姉さんの声で言うのね、あなた」
帰りの荷馬車で、私は口を利かなかった。
塀の向こうに、初めて痛みを感じたのである。
辞めてから、あの屋敷の傾きを聞くたび、私の胸に立つのは職業診断だった。冬薪は秋のうちに。席次は綴りの中に。診立てはしても、痛みはしなかった――つもりでいた。頭を下げた白髪と、親馬鹿の文の話が、その診立ての紙を一枚めくってしまった。紙の下にあったのは、帳面に載せずにきた古い借りである。市場で拾われた小娘の、二十年分の。
屋敷に戻っても、手が仕事を探した。銀器を検め、蝋燭の芯を切り、明日の献立を三度直す。働くのは、私の弔い方である。弔いは、五年前に済ませたはずだった。済んでいなかっただけである。
夜更けの食堂で、献立表を四度目に直していると、椅子の音がした。
旦那様である。何も聞かず、何も言わず、隣の椅子を引いて、座った。
蝋燭が一本。帳面をめくる音もない。ただ、隣に呼吸がひとつある。
どれほどそうしていたか、旦那様が静かに言った。
「僕には、あなたの二十年は分かりません。ですが、隣には座れます」
目の奥が、熱くなった。
湯気でございます――と言おうにも、茶はとうに冷めている。冷めた茶の前で使える言い訳を、私は持ち合わせていない。持ち合わせのないまま、俯いて、献立表の上にひとつ、落とした。
旦那様は、見なかった。見ない礼儀と、言い当てる目の人である。代わりに冷めた茶を黙って下げ、新しく熱いのを注いで、また隣に座った。
湯気が、立つ。
「……湯気でございます」
「ええ。湯気です」
嘘の帳尻を、合わせてくださる人である。
その晩、献立表は直しすぎて使い物にならなくなった。二十年で初めての、書き損じである。書き損じの紙を、私は捨てずに手帳に挟んだ。理由は、書かないでおく。
◇
その少し前――修道院長は、姉の家を訪ねていた。甥に会うのは十年ぶりである。長い食卓に、若い当主がひとりで着いていた。皿は遠い台所から運ばれるうちに冷め、給仕は途中で入れ替わり、暖炉はひとつしか焚かれていない。広くて、寒い食堂だった。甥は伯母に椅子を勧め、作法通りに食事を済ませ、作法通りの見送りをした。門を出て、院長は一度だけ振り返る。姉さん、あの家は広すぎるわ。あの子の周りだけ、がらんどうよ。
◇
数日後の朝、食卓に一通の文が届いた。差出は、オルタンス子爵夫人。旦那様の叔母上である。文面は、一方的に短い。
『近く伺います。家の中を検めます。覚悟なさい』
読み上げたコリンヌが、鍋つかみで文を摘まんだまま顔をしかめた。
「来るよ、嵐が」
旦那様は、なぜか背筋を伸ばして私を見た。
「……マーサさん。うちでいちばん怖いのは、あなただと申し上げておきます」
「怖さで測ってはなりません。ですが嵐には、嵐の作法がございます」
芋の在庫を、検めておくことにした。