公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
嵐は、予告より一日早く来た。
昼前、先触れもなしに馬車が着き、旅装の貴婦人が玄関に立つ。五十がらみ、上背があり、目つきが検分のそれである。オルタンス子爵夫人――旦那様の、亡き父君の妹君である。
「出迎えが遅い」
「ようこそお越しくださいました。当家家政長、マーサと申します」
「聞いています。あなたね」
白手袋のまま、夫人は玄関の手すりを、つ、と撫でた。指先を検め、眉が動く。埃が、出なかったからである。
挨拶もそこそこに、検分が始まった。廊下、客間、階段、食器棚。手袋の指はどこを撫でても白いままで、夫人の眉間の皺だけが深くなっていく。掃除で勝てる相手に、掃除で負ける当家ではないのである。
台所の前で、夫人はようやく本題を抜いた。
「オーレル。あなたに聞いています」
声が、廊下に響く。
「平民の家政婦に家を任せて、あまつさえ食卓に座らせているですって? フルーリの食卓に?」
旦那様が、廊下の向こうから歩いてきた。逃げていない。足音で分かる。
「はい。任せています。座っていただいてもいます」
「正気なの?」
「座っていただいているのは、僕の判断です。叔母上」
まっすぐに、言った。半年前なら、この人は詫びから入っただろう。詫びない当主の声を、叔母上は初めて聞いたはずである。夫人は甥の顔をまじまじと眺め、それから鼻を鳴らした。
「……昼食をいただきます。話はそれからよ」
台所へ戻ると、コリンヌが袖をまくって待っていた。
「一戦、始まるのかい?」
「宴でございます。――十七通り、お願いします」
「全部かい!」
「全部でございます」
言い訳はしない。仕事で答えるのが、当家の作法である。
昼の食卓に、芋が出た。芋しか出ない、のではない。芋で出来ることの全部が、出たのである。
澄んだスープに浮く芋の団子。薄切りを重ねて焼いた黄金色のひと皿。蜂蜜を絡めた揚げ芋に、酢の物、詰め物、
六皿目で、夫人は給仕の私を睨んだ。
「……これは、何の宴?」
「日常でございます。当家は毎日、この台所で食べております」
「毎日ですって」
九皿目のあたりから、夫人は黙った。黙って、食べた。食べる速さは、正直の速さである。
食後の茶の席へ、ティボーが帳面を抱えて呼ばれた。旦那様の指図である。数字で答える、と決めたらしい。
「ちょ、帳場係のティボーです。当家の、この半年の実入りを申し上げます」
貸し蔵が月極で三十二枚、設営の請負が二件で純益百枚、保存食の卸しが冬のあいだ週に二十五枚――と、震えながらも、数字は淀まない。読み終える頃、夫人の扇は膝の上で止まっていた。
「……半年で、それだけ立て直したの?」
「立て直したのは家中の皆です。段取りを引いたのが、うちの家政長です」
旦那様が言い、夫人は長いこと黙り、それから茶を飲み干して、宣言した。
「お代わりを」
「はい。甘いのと塩のと、どちらに――」
「両方。それと、さっきの言葉は忘れてちょうだい」
陥落の速度は、掌返しの見本のようだった。聞けば夫人は、没落からの十年、親族の集まりのたびに甥の家の心配だけをしてきた口うるさい味方であるらしい。心配の置き場が急になくなって、置き場のない分が、食欲に化けたのである。
帰り際が、事件である。
馬車まで見送りに出た旦那様に、夫人が声を落とすのが――盆を抱えて廊下を戻る私の耳に、届いてしまった。
「家族になる方だと思っていました。違うの?」
盆の上で、湯呑みが小さく鳴る。
足が、止まる。進むも戻るも、音になる。廊下の真ん中で、私は湯呑みの並びを直すふりをして、心臓の並びは直せないでいる。
旦那様が何と答えたかは、聞こえなかった。聞こえなかったことにした、のではない。馬車の戸の音と車輪の音に呑まれて、本当に聞こえなかったのである。
答えを知りたいのか、知りたくないのか。自分の在庫が、検分できない。こういうときに限って、見積もりは役に立たないのである。
――夜、宴の後片付けを、旦那様が手伝った。
当主が皿を拭く家である。もう誰も驚かない。並んで立つと、拭き上がった皿を受け取る間合いだけが、妙に丁寧になった。昼の小声には、互いに触れない。触れない仕方がいちばん雄弁だと知っていて、どちらも黙っているのである。
「……叔母は、ああ見えて……」
「よい方でございます。検分の目が、少々育ちすぎているだけで」
私は少し力を入れて、キュッキュと皿を拭いた。
「あなたと同じです」
「わたくしの目は、育てたのでございます」
布巾越しに、皿が渡る。指は触れない。触れない距離が以前より短いことだけ、手が知っている。
皿が全部棚に納まった頃、旦那様が姿勢を正した。
「マーサさん。決めたことがあります」
「う、伺います」
旦那様の姿勢の良さに思わずドキッとしてしまう。
「うちの名前で、夜会を開きます。世話になった方々を、今度はうちの椅子にお招きしたい。市場の皆さんと、組合と、侯爵夫人と。小さくていい。――フルーリ家の名前で、やります」
当主の顔で、言い切った。日取りは三週間後、利払いの期日の晩――借りの勘定と家の名誉を、同じ日に締める腹である。
「承りました。……よい決裁でございます」
見積もりが、胸の中で算盤を弾き始める。弾きながら、別の場所が別のことを考えている。あの小声の問いの答えを、この人はもう、持っているのかもしれない。
◇
同じ頃、王都の親族筋の茶会で、ルヴェルの名が低い声で出た。当主は若く、家政は回らず、王家格の来訪は断り、屋敷の翼は冷えている――「あの家はもう、回らないのではなくて?」。異を唱える者はいない。唱えるための材料を、誰も持っていないのである。この半年余り、あの屋敷の茶会に招かれた者が、この席にひとりもいない。扇の陰の目配せだけが、静かに数を増していく。噂は、空いた椅子を苗床にして育つ。
◇
夜会の支度は、翌朝から始まった。
当家の在庫は、格式と、芋と、人である。三つあれば、宴は立つ。