公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

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20. 当主の背中

 夜会の朝は、霜と磨き粉の匂いで明けた。

 

 広間は狭い。天井の隅に古い雨染みがあり、椅子は継ぎが当たり、燭台は数が揃わない。揃わない分は、磨きで揃える。銀器は三度磨き、窓硝子はバジル爺が黙って全部拭き直してくれた。

 

 招くのは四十人足らず。市場の女将たち、粉屋に薪屋に羊毛商、組合の顔役、ブノワ父娘、それにロクサーヌ様。世話になった順の席次である。王宮の作法では測れない並びだが、当家の帳面では、これが正しい。

 

 ――昼、宴の前にひとつ、締める勘定があった。

 

 季ごとの利払いである。銀貨九十枚。父君の代からこの方、恩給を前借りし、足りない季には延納を願い出て凌いできた勘定である。今季は、違う。全額、当家の商いの帳面から出る。

 

 グリモー商会の帳場は、街の古い通りにある。硝子戸の奥に帳面の壁、その前に、小柄な老人が眼鏡を光らせて座っている。グリモー殿である。合法、という言葉が上着を着て座っているような老人だ。

 

 旦那様は、革袋を自分で持った。帳場の台に、自分の手で載せた。

 

「フルーリです。今季の利払いを。……全額、あります」

 

 数える指は、乾いて速い。九十枚が九つの山になり、山が崩されて検められ、帳面に細かい字が走る。受け取り証の判が、タン、と鳴った。

 

「確かに」

 

 眼鏡が上がり、老人は初めて客の顔を見た。

 

「よい銭です。急いだ銭でも、泣いた銭でもない。……商いの銭だ。この帳場で、フルーリの名の横にこういう銭が並ぶのは、二十年ぶりですな」

 

「二十年ぶり」

 

「時に、伯爵」

 

 老人は帳面を閉じて、指を組んだ。

 

「この借金の、そもそもの起こりを、ご存じかな?」

 

 帳場の空気が、一度だけ古くなった。埃の匂いの奥で、二十年前の紙の匂いがした――ような気がしたのは、私の職業病であろう。

 

 旦那様の背中は、動かなかった。

 

「……父が、河港の改修に失敗した。そう聞いています」

 

「なるほど。そう、聞いておられる」

 

「違うのですか?」

 

 グリモー殿は答えず、受け取り証を差し出した。

 

「今夜はお祝いの由。良い晩を。――お知りになりたくなったら、いつでも。わしの帳面は、二十年前の頁も正確です」

 

 帰り道、旦那様は長いこと黙っていた。革袋の空いた分だけ軽いはずの手が、重そうである。

 

「マーサさん。あなたは、何か知っていますか?」

 

「わたくしが存じておりますのは、二十年前の冬、公爵家の書斎の灯りが夜ごと長く点っていたことと――」

 

 言葉を、選ぶ。憶測は口にしない。私の帳面にあるのは、絵の切れ端だけである。

 

「奥様が、泣き腫らした目をしていらしたことだけでございます」

 

「……そうですか」

 

 押し黙る旦那様に何か言わなくてはと、口が動いた。

 

「こ、今夜は、宴でございます」

 

「そうでした。今夜は、宴です!」

 

 顔が上がる。

 

 勘定と宴を同じ日に締める、と決めたのはこの人である。決めた通りに、切り替えた。切り替えられる当主に、なったのである。

 

 ――開宴。

 

 楽士は雇えないから、音楽はない。代わりに、料理が香りで開宴を告げる。コリンヌの十七通りに、披露の宴で覚えた冬の献立。給仕はティボーと、ニネット――ロクサーヌ様が「腕を見せてもらうわ」と連れて来てくださったのである。娘の手つきは、もう硬くない。

 

 主賓も上座もない席次に、最初は皆が戸惑った。戸惑って、すぐ慣れた。女将と侯爵夫人が同じ卓で芋の講釈を始める広間である。格式は椅子の並べ方ではなく、招き方に宿るのだ。

 

 頃合いで、旦那様が広間の中程に立った。

 

 手に、紙はない。

 

 私は給仕の列の端で、盆を持ったまま、その背中を見ていた。あの初冬、組合の寄り合いで立ち上がる前に、卓の縁を一度強く握った人である。今夜は、握るものがない。握らないで、立てるようになったのである。

 

「今夜は、お越しくださって、ありがとうございます」

 

 声は、震えなかった。

 

「半年前の当家は、恥ずかしながら、明日の献立に困る家でした。今日この広間に灯りが点っているのは、ここにいらっしゃる皆さんが、判のない触れよりも、当家との取引を選んでくださったからです。フルーリ家は小さい。ですが、筋は通します。頂いた恩は、相場の礼と、末永いお取引でお返しします。――それから」

 

 背中がまっすぐのまま、少しだけ柔らかくなった。

 

「本日の宴の段取りは、すべて当家の家政長のものです。わたしの、自慢です」

 

 広間の顔が、一斉にこちらを向いた。

 

 盆を持ったまま、私は頭を下げる。耳が熱い。段取りの女は、段取りの外から褒められると、返す型を持っていないのである。女将が指笛を吹き、台所でコリンヌが鍋を叩き、ロクサーヌ様が扇の陰で笑っていた。

 

 宴は、夜半前に、惜しまれて明けた。

 

 ――後片付けの済んだ食堂で、卓にふたつ、皿が残っている。

 

 取り分けておいた宴の残りと、湯気の立つ茶。旦那様が、いつもの椅子を引いた。私の椅子を、である。

 

「今日の勝ちも、あなたと分けたいのです」

 

 勝ち「も」。この言い回しは、何度目だろう。初めての夜は、椅子に座るのに三呼吸かかった。今夜は――引かれた椅子に、一呼吸で座っている自分がいる。慣れというものは、こういう静かな顔でやって来る。

 

 隣の席は、もう誰の席でもない。私の席である。誰が決めたのでもなく、毎晩の積み重ねが決めたのだ。

 

「よい宴でございました」

 

「よい一日でした。……勘定も、宴も」

 

 茶の湯気の向こうで、旦那様の目が、昼の帳場の色を一瞬だけ取り戻した。

 

「マーサさん。父の部屋に、開けたことのない文箱(ふばこ)があります」

 

 湯呑みを持つ手を、私は止めない。止めないのが、聞く側の作法である。

 

「グリモー翁の言う『起こり』が、あの中にある気がするのです。……ずっと、開けるのが怖かった。父の恥を見るのが、怖かったのです」

 

「今は、いかがでございます?」

 

「怖いです。今も」

 

 旦那様は茶をひと口飲んで、まっすぐに私を見た。

 

「ですが、当主は決裁を覚えました。――近いうちに、開けます」

 

        ◇

 

 同じ夜、ルヴェル公爵家に一通の書状が届く。親族会議の招集状である。差出は分家の長老筆頭、議題は書かれていない。書かれていないことが、議題の重さである。若い当主は封を切ったまま、長いこと書斎から出てこなかった。下げられた夕餉の皿は、ほとんど減っていない。執事は書斎の扉の前で二度足を止め、二度、叩かずに戻った。廊下の灯りは半分に間引かれ、広い屋敷は、音より先に冷えていく。

 

        ◇

 

 塀のこちら側の食堂では、蝋燭がまだ一本、点っている。

 

 二十年前の扉が、ふたつの家で、同時に軋み始めていた。

 

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