公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
春まだ浅い朝だった。窓の霜は消えたが、床はまだ冬の温度を覚えている。そんな朝に、旦那様が黒い箱を抱えて食堂へ来た。
革張りの、古い文箱である。角が擦れ、留め金は曇り、それなのに埃だけは丁寧に払ってある。長年、拭くことだけはしてきた箱だ。拭き方で分かる。開けられない物ほど、人はよく拭くのである。
「父の文箱です。……鍵は、ずっと持っていました。開けたことは、一度もありません」
卓の上に、箱と鍵が並んで置かれた。鍵は小さく、持ち主の手の中で二十年、汗と迷いを吸って黒ずんでいる。
「グリモー翁の言う『起こり』は、たぶんこの中です。一人でも開けられます。ですが――一緒に見てほしいのです。僕の目は、父のこととなると、都合よく曇るかもしれませんから」
曇る目を承知で、曇らない目を隣に置く。それは弱さではない。検めの段取りである。この人の頼み方は、いつも段取りの形をしている。断れない形、とも言う。
「承りました。……お茶を、濃く
濃い茶が二つ、湯気を立てたところで、鍵が回った。二十年ぶりの音は、思いのほか小さい。大きな音を立てるのは、いつも開ける側の胸の方である。
中身は、紙だった。
一番上に、借用証の控え。金貨五百枚。名目は「河港改修の資金」。貸し手はグリモー商会、借り手の署名は、先代フルーリ伯爵。旦那様の字とよく似た、しかしもっと若く
その下に、河港改修の計画書。街道の付け替えに合わせて
一番下に、古い書簡が一通。計画の凍結を報せる、そっけない文面である。
紙を日付の順に並べ直すと、二十年前が一本の線になる。
借りて、計画が止まり、土地の値が崩れ、抵当が流れ、河岸地は評価の三分の一で塀の向こうへ渡った。そして数年後、止まったはずの計画は何事もなく動き出し、荷揚げ場は肥え始めた。
紙は、事実の順番しか教えない。だが順番だけで、絵の形は分かる。誰かが計画を止め、値が崩れるのを待ち、流れた土地を拾い、それから計画を動かした。金を貸させたのが同じ誰かなら、これは失敗ではない。仕掛けである。
「……この凍結の冬を、わたくしは覚えております」
声が、自然に出る。
「新入りの冬でございました。書斎の灯りが、夜ごと遅くまで点いておりました。廊下の蝋燭を替えるのが、わたくしの仕事でしたので。……そして奥様が、泣き腫らした目で、朝の廊下にお立ちでした。日付が、この書簡と重なります」
紙の輪郭に、人の顔と声が
旦那様は借用証の署名を、長いこと見ていた。指先が、若い撥ねの上をなぞる。触れているのは紙だが、なぞっているのは父君の背中である。
「僕は、父を臆病な人だと思って育ちました。失敗して、借金を作って、決められない人になって……僕はその背中から、決めることの怖さだけを相続したのだと」
「旦那様」
「ですが、これは」
「お父上は、騙されたのです」
言葉を、一度で置いた。二度言えば慰めになる。一度なら、検分の結果である。
「恥は、騙した側の持ち物でございます。二十年、置き場を間違えられていただけのこと。……今日、正しい棚へ戻しましょう」
旦那様は目を閉じ、開けた。それから、箱の中の紙を丁寧に順へ重ね直した。検分の手つきである。指の震えは、もうない。
「父は二十年、この箱に恥を閉じ込めて生きました。僕は……箱ごと、父を閉じ込めていました。開けもしないで」
「開けるのに、二十年かかる箱もございます。今日が、その日だっただけのこと」
茶が、ぬるくなっていた。私は黙って淹れ直しに立つ。冷めた茶で聞いていい話と、いけない話がある。二杯目の湯気の向こうで、旦那様の顔が、少しずつ当主の顔へ戻っていった。
「知って、どうするかが決裁でございます。裁きの絵は、描きませんよ」
「はい。……ですが、知らないままは、もうやめます」
良い返事である。知ることと裁くことの間に線を引ける人は、そう多くない。
◇
同じ頃、ルヴェル公爵家の大広間では、親族会議が続いていた。上座に若い当主、左右に分家の長老たち。縁談の停滞、家政の乱れ、断った王家格の来訪――帳面のように積み上がる詰問に、若公爵は短く答えるだけである。「当主の器を疑う」と誰かが言い、広間が静まった。彼は目を伏せない。伏せないことだけが、いまの彼に残った当主の形である。散会の後、長老の一人が呟いた。次は、後見の話になるぞ、と。
◇
紙を検め終えた夜、湯呑みをふたつ洗いながら、私は旦那様に申し上げた。
「紙の次は、土地でございます。――河岸へ、参りましょう」