公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
河岸へは、羊毛商の荷に付いて行った。
うちの蔵を借りている縁で、荷下ろしの検分という体裁が立つ。体裁は嘘ではない。蔵の客の荷がどう運ばれるかを知るのは、貸し蔵の勤めのうちである。
春先の川は
人足頭は、六十がらみの日焼けした男だった。皆が「親方」としか呼ばない。手の平は樫の板のようで、靴は底を三度張り替えた革靴である。手と靴は履歴書だ。この履歴書は、厚い。
「フルーリ様の若様かい?」
親方は旦那様をひと目見て、帽子を取った。
「……よう似ていなさる。先代様に」
「父を、ご存じでしたか?」
「忘れんよ」
親方は、川の方へ目をやる。
「二十年前、計画が止まったと聞いた冬さ。伯爵様はこの桟橋で、一晩立っていなさった。声も、かけられんでな。朝、わしらが来たら、雪の上に足跡が一人分、行ったり来たり……それだけ残して、いなくなっとった」
旦那様は、足元の板を見た。
風が止んで、川音だけが残る。父が一晩測っていた板である。夢の目方と借金の目方を、行ったり来たりしながら、ここで測っていたのだ。旦那様は靴の先で板を一度だけ確かめ、それから顔を上げた。
「何があったかはご存知ですか?」
「さぁてね。現場のモンには貴族様のお話などわからんよ。ハハッ」
親方は肩をすくめ、鼻でわらった。
「そうですか……。お仕事は順調なんですか?」
声は、湿らなかった。当主の検分の声である。親方は目を細めて、荷の間を顎で示した。
「見ての通りさ。荷は今日も上がる。人手も腕も揃っとる。……だがな、先の話が、三年止まったままよ」
三年前に
「回っとるが、伸びん。直せん。わしは現場は回せるが、先を決めるのは、わしの職分じゃねえんだ」
聞きながら、私の中で算盤が勝手に動き出していた。
貸し蔵と組めば、保管から荷揚げまでの一貫請負が組める。閑散期の人手は、設営請負の力仕事とちょうど噛み合う。大修繕は三年に割れば、上がりの中から払える目方だ。値決めを相場へ戻すだけで、帳尻は目に見えて変わる。この事業は病んでいない。ただ、決める人がいないだけである。感嘆より先に見積もりが動くのは私の悪癖だが、今日ばかりは職分と言い張れる。
帰りは、川沿いを歩いた。
夕日が水に長く割れて、荷船の影が岸まで届く。土手の草が青み始めて、踏むたび春の匂いが立った。並んで歩くうち、ふと気づく。歩幅が、揃っている。合わせた覚えはない。いつから揃うようになったのかも、思い出せない。段取りの外で揃ってしまうものは、どうも取り返しがつかないらしい。
「マーサさん。あの桟橋、直せますか?」
「直せます。銭も、人も、道筋も見えました。……あとは、持ち主の話でございます」
「持ち主の話は、僕の職分です」
言い切って、旦那様は少し笑う。職分、という言葉の使い方が、また私に似てきた。似てくるたび、胸のどこかが一枚ずつ暖かくなるのは、春のせいということにしてある。
◇
その週、ルヴェル公爵家は東の翼を閉じた。家具に布が掛かり、廊下の燭台が外され、扉に鍵が回る。小さくすれば、回る。若公爵の指示は的確で、家令たちは粛々と従った。的確で、遅い。早ければ英断と呼ばれた指示は、いまは只の帳尻である。閉めた翼の窓は、夜、外から見ると黒い歯抜けになる。布を掛け終えた女中が、誰にともなく呟いた。この翼の客間、湿気た毛布のお客様の部屋だったねえ、と。
◇
屋敷に戻って、湯気の立つ茶を前に、私は腰の手帳を繰った。
河岸で聞いた数字を書き付けるためである。頁をめくる手が、古い頁で止まった。二十年前の、新入りの年の頁である。習い立ての、拙い字で一行。
「冬。フルーリ様へ、お包み。奥様のお使い――私」
覚えている。人参の目利きしか能のなかった小娘が、初めて言い付かった屋敷の外のお使いだった。誰にも言わずにお届けなさい、との仰せである。包みは布で固く結わえてあり、両手で抱えるとずしりと重く、冬の門前で応対に出た誰かへ、口上も添えずに渡した。中身は、知らない。
あの冬。凍結の冬。書斎の灯りと、泣き腫らした目の、あの冬である。
――奥様は、二十年前から、あの家に詫びておられたのか。
湯気の向こうで、拙い字の一行が、静かに私を見上げていた。二十年前の私は、何も知らずに、詫びの重さだけを運んだのである。