公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

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23. 裁きではなく、決裁で

 グリモー商会の帳場は、今日も帳面の壁に守られていた。

 

 硝子戸を引くと、紙とインクと、古い銭の匂いがする。銭には匂いがある。長く帳場にいる銭の匂いは、乾いていて、静かだ。

 

「おいでなさると思っておりましたよ」

 

 老人は眼鏡を上げ、椅子を二つ勧めた。茶は出ない。帳場で出るのは数字だけである。潔くて、よろしい。

 

「二十年前の頁を、伺いに参りました」

 

 旦那様が切り出すと、グリモー殿は帳面を一冊、迷いなく抜き出した。頁は(しおり)もなしに一度で開いた。二十年、開き癖のつくほど開いてきた頁ということである。

 

「金貨五百。名目は河港改修。貸せと言うてきたのは、先代のルヴェル公爵様です。貸し先まで、あちらのご指定でな」

 

 乾いた指が、行を追う。

 

「わしは金貸しです。頼まれれば貸す。証文は正しく、利は相場、取り立ては規定通り。……わしの帳面は正しい。正しい帳面で、悪いことはできるのですよ」

 

 最後の一言だけ、声が低くなった。二十年、自分に言い聞かせてきた声の低さである。

 

「翁は、ご存じだったのですか? 計画が止まると」

 

「後で知りました。知って、寝覚めが悪くなりました。それだけです。それだけのことを、二十年、続けております」

 

 悪人の顔ではない。帳尻の人の顔である。この人を裁いても、出てくるのは正しい帳面だけだ。裁きで取れるものは、この帳場のどこにもない。

 

「……時に」

 

 グリモー殿は帳面を閉じた。

 

「わしも歳です。隠居を考えて、古い貸しの整理を始めております。フルーリ様の残債も、古い貸しでしてな。この貸しには、二十年前の書付が全部ぶら下がっております。お父上の署名ごと、な。――買い手は、どこにでもおります」

 

 脅しではない。帳面屋の、事実の確認である。だからこそ、時計が鳴った。債権が見知らぬ誰かへ売られれば、父君の署名も、仕掛けの経緯も、他人の商売道具になる。

 

「翁。売り急ぎは、なさいますな」

 

 私は初めて口を開いた。

 

「近いうちに、いちばん良い買い手をお連れいたします」

 

「ほう。……楽しみにしておりますよ」

 

 眼鏡の奥の目が、初めて帳面から離れて私を見た。値踏みの目である。値踏みは、嫌いではない。こちらも、しているからである。

 

 帰り道、旦那様が問う。

 

「良い買い手とは、誰です?」

 

「ルヴェル公爵家でございます」

 

 旦那様の足が、二歩分止まった。その顔に向けて、私は道々、絵を広げた。

 

 裁けば、二つの家門が潰れる。放っておけば、恥は他人の手に渡る。ならば残る道はひとつ――向こうが呑める取引を、数字で組むことである。

 

 夜の食卓が、軍議になった。

 

 私が条件を並べ、ティボーが清書し、旦那様が検める。コリンヌが夜食の蒸かし芋を積み、バジル爺が黙って薬草茶を注いで回る。軍議の兵糧は、芋と茶である。

 

 河岸の土地は、伯爵家へ完全無償の返還。二十年前の不当な利得の、静かな清算である。残債の金貨十八は、公爵家がグリモー商会から額面で買い取り、証書ごと当家へ。事業は別勘定――桟橋も倉庫も荷主の網も、あちらが二十年掛けて築いた資産だから、営業権を年賦(ねんぷ)金貨五枚ずつの六年、締めて三十で当家が買い取る。手金なし、荷揚げの上がりから払う。親方以下の人足は全員雇用継続。桟橋の大修繕、見積もり金貨二十五は買い手の当家持ち。

 

「向こうの得は、どこです?」

 

「年賦三十の確かな実入り。修繕二十五の重荷の切り離し。そして――お父上の署名が、他人の手に渡らないこと。数字がふたつと、名誉がひとつ。数字の読めるお方には、これで足ります」

 

「……こちらは、土地と、育てられる事業と」

 

「二十年の帳尻でございます。裁きではなく、決裁で締めるのです。向こうが呑める形にしてお出しするのが、相見積もりというものでございます」

 

 ティボーの清書が上がると、旦那様は紙を引き寄せ、口上を自分で書き始めた。あの美しい字が、迷い、止まり、線を引いて消し、また並んでいく。一度だけ、こちらへ紙を差し出しかけて、引っ込めた。

 

「……直していただくのは、やめておきます」

 

「賢明でございます。直したら、旦那様の口上でなくなります」

 

「その代わり、本番では聞いていてください。斜め後ろではなく――隣で」

 

「……承りました」

 

 蝋燭が短くなるまで、食堂には紙の音と、茶の匂いがしていた。軍議というものは、本来こんなに穏やかな顔はしていないはずである。段取りの外の考えがひとつ浮かんで、私はそれを、検めずに仕舞った。仕舞い方だけ、年々上手くなる。

 

        ◇

 

 同じ夜、ルヴェル公爵家の執事室で、若い当主が棚の前に立っていた。分厚い綴りが三冊、二十年の背表紙を並べている。棚の埃は、この半年余り、誰も払っていない。禁令は埃の上にも効いている。伸ばした手が、背表紙の手前で止まった。開くなと命じたのは、自分である。命令を破る痛みと、破らない痛みを、彼は棚の前で長いこと量っていた。やがて足音が遠ざかる。扉の閉まる音を、綴りは黙って聞いている。

 

        ◇

 

 数日後の昼下がり、門の呼び鈴が鳴った。

 

 バジル爺が取り次ぎに来て、珍しく眉を上下させた。

 

「……塀の向こうの、ご老人だよ」

 

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