公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
バティスト様は、門の前で帽子を胸に当てて立っていた。
間近で見る老執事は、半年余りのうちに白髪が増え、背が少し縮んでいた。それでも上着の折り目は正しい。折り目は、その人の背骨である。背骨は、屋敷が傾いても曲がらない。
食堂へお通しして、茶を淹れた。あの日と同じ椅子、あの日と同じ茶葉である。茶葉の棚の同じ段から取ったことは、言わないでおく。同じ味を出すのは、歓迎の言い方のひとつである。
ひと口含んで、老人は目を細めた。
「……今日も、美味い茶です」
「恐れ入ります」
「あの日は、戻ってくれと申しに来ました。今日は、違います」
湯呑みを置き、バティスト様は背筋を伸ばす。
「坊ちゃまが、棚を開けられました」
湯気が、一拍、止まった気がした。
「親族会議で、後見の案が可決の寸前まで行きましてな。坊ちゃまは生まれて初めて親族に頭を下げ、ひと月の猶予をもぎ取りなすってな。縁談は、破談になり申した。……誰のせいにもできんことばかりが、いっぺんに参りました。その晩でございますよ。坊ちゃまはわしを呼ばず、鍵も求めず、ご自分の禁令を、ご自分で破られました」
「……お読みに、なりましたか?」
「三晩、かかりなすった」
老人は、茶の湯気を見ながら言う。
「わしは廊下から、灯りだけ見ておりました。一晩目より二晩目、二晩目より三晩目、灯りの消えるのが遅うございました。……冬薪の頁で、長う止まっておられたそうです。後で、ぽつりと仰いました。『紙一枚の値段を、初めて知った』と」
冬薪は、秋のうちに。市場で誰にともなくこぼした診立てが、胸の奥で小さく疼いた。あの頁は、私が最後の冬に書き直したばかりの、いちばん新しい頁である。書き直しながら、来年この頁を繰る誰かの手を、私は確かに思い浮かべていた。その誰かが当主本人になるとは、思い浮かべていなかったけれど。
「わしの職は、賭けられませなんだ。賭けられんことを、恥と思うて半年余り過ごしましてな。……ですが、坊ちゃまがご自分で開けなすった。それだけを、お報せに参りました。誰の指図でもなく、わしの一存で」
「バティスト様……」
「礼には及びませぬ。棚を守ったのは、あなたの引き継ぎ書で。開けたのは、坊ちゃまで。わしは……茶を、いただきに来ただけですわい」
言って、老人は本当に、茶だけ飲んで帰った。門まで送ると、別れ際に一度だけ振り返り、深く頭を下げる。受け取ってよい頭かどうか、一瞬迷って、同じ深さで返した。二十年、同じ屋敷の折り目を守った者同士の、それが正しい帳尻だと思ったからである。
老いた背中が塀の向こうへ消えるまで、私は門に立っていた。春の夕方の風が、庭の若い薬草の匂いを運んでくる。あの屋敷にも、この匂いの届く窓があればいい。柄にもないことを考えたのは、風のせいである。
夜、食堂の蝋燭は二本とも新しかった。新しい蝋燭は、長い話の支度である。替えていったのが誰かは、聞かないでおく。
旦那様は昼の報せを聞き終えて、長いこと湯呑みを両手で包んでいた。湯呑みの包み方で、話の重さを量る癖が、私にはもうついている。今夜のは、重い。
「あなたは、戻りたいですか?」
まっすぐな問いである。遠回りも、探りもない。この人はいつの間にか、いちばん怖い問いを、いちばん静かに置ける人になっている。
「いいえ」
声は、考えるより先に出た。
即答した自分に、私自身が驚いていた。二十年勤めた家である。恩人の家である。棚は開き、禁令は解け、望めば戻る道も、あるいは。――それでも、いいえ、が一呼吸で出た。
理由を検めようとして、手が止まる。戻らない理由が、職場の話ではなくなっている。いつからかは、調べない。調べたら、載せる場所に困る。献立表にも、帳面にも、載らない場所にしか、置けなくなっている。
「即答でしたね」
「即答でございます」
旦那様は湯呑みを置いた。蝋燭の灯りが、湯気ごしに揺れる。
「……職場、だけでしょうか? あなたがここにいる理由は」
問いは、湯気の中に置かれた。
心臓がひとつ、大きく鳴った。鳴ったことが、答えである。答えを口に出す段取りだけが、まだどこにもない。
旦那様は、答えを待たなかった。急かさず、繕わず、ただ湯呑みを傾けて、窓の外の春の夜を見た。
「夜が、短くなってきましたね」
「……ええ。春でございますから」
答えなかったことを、答えとして受け取らない人である。宙に浮いた問いは、湯気と一緒にゆっくり昇って、天井のあたりに留まった。あれはいずれ、降りてくる。降りてくる日の段取りだけが、私の手帳のどこにも書けないでいる。
翌朝、門の前に馬車が停まった。
艶のある黒塗りに、見慣れた家紋。ルヴェル公爵家の馬車である。
降り立った若い当主は、従者を連れていなかった。