公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

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25. 若様の宿題

 応接間に、若公爵をお通しした。

 

 あの秋、門前で追い返した人である。今日は門から、正式に入ってきた。それだけで、用向きの種類は知れる。茶を出すと、若公爵は湯呑みを一瞥し、口を付けてから、置いた。飲めなかったのではない。飲んでから話すと決めてきた顔である。

 

 それから椅子を立ち、頭を下げた。

 

「ルヴェル公爵家当主として、詫びに来た。……『女中頭など誰でも務まる』。あの言葉は、二十年の勤めに対する、当家の不明だった。取り消す」

 

 下げられた頭を、私は黙って見ていた。

 

 浅くない。深すぎもしない。当主が使用人だった者へ下げる、正確な角度である。この角度を、この人は屋敷が半分壊れてから覚えた。遅い。遅いが、覚えないまま終わる人の方が、世間には多いのである。

 

「お顔をお上げくださいませ。……承りました」

 

「その上で、頼みに来た。戻ってほしい。条件は、そちらの言い値だ」

 

 最後の一手は、金でも、格でも、力でも、情でもなく、誠で来た。断る側の背筋も、自然と伸びる。

 

「お断りいたします」

 

 意趣返しの味は、もう混ぜなかった。あの秋に一度だけ効かせた毒は、二度使えば品が落ちる。

 

「女中頭は、誰でも務まりますとも。――育てられた誰か、なら」

 

 顔を上げた若公爵に、私は続けた。

 

「ロズをお立てなさいませ。わたくしが十年掛けて育てた、わたくしの片腕でございます。銀器の数え方から、冬薪の頁の読み方まで、あの子はすべて身に付けております。足りないのは辞令だけでございます」

 

「……ロズ」

 

 若公爵は、その名を覚えていなかった顔をした。覚えていないことを、恥じる顔もした。あの秋には、なかった種類の顔である。

 

「分かった。打診する」

 

 それから若公爵は、上着の内から折り畳んだ紙の束を出した。書き付けである。頁の端がめくれ、手擦れで柔らかくなっている。三晩どころではない。あれから毎晩、繰り返し読んでいる紙の顔だ。

 

「引き継ぎ書は、読んだ。全部だ。手順も、暦も、目録も、正しかった。……だが、なぜ足りない。紙の通りに命じても、屋敷は紙の通りに動かん。なぜだ」

 

 これは詰問ではなく、質問だった。教えを乞う声の、形をしている。

 

 私は腰の手帳を外し、開いて見せた。

 

「人を覚える帳、と呼んでおります」

 

 青物の女将の末の子の熱。粉屋の代替わりの日取り。洗い場の娘の指のあかぎれ。誰が左利きで、誰の里の芋が旨いか。

 

「屋敷を回すのは紙ではございません。人の目でございます。――それだけは、お持ち帰りのできない道具でした」

 

 若公爵は手帳を覗き込み、長いこと黙った。

 

「……紙に、書けないのか?」

 

「書けますとも。ですが書いた端から、古びてまいります。子どもの熱は下がり、あかぎれは治り、人は入れ替わります。毎日見ている目だけが、帳面を今日の日付に保てるのでございます」

 

 沈黙の後、若公爵は短く息を吐いた。笑ったのだと、少し遅れて分かった。

 

「二十年、その帳面を只で使っていたわけだ。当家は」

 

「只ではございません。お給金を頂いておりました。……相場より、よい額を」

 

 そこへ、旦那様が立った。

 

「公爵閣下。近く、当家から取引の使いを立てます。――河岸の件です」

 

 若公爵の目が、初めて旦那様を正面から見た。値踏みの目が、途中で検分の目に変わる。塀一枚隣の、小さくて、灯りの絶えない家の当主を、この人は今日、初めて見たのである。

 

「……フルーリ卿。日取りを頂こう」

 

 帰り際、若公爵は扉の前で一度だけ足を止めた。

 

「最後に、ひとつ。……母は、なぜあなたに、あそこまで?」

 

「公証人メナールの金庫に、奥様のお荷物がございます。当主がご自分で求められた時に、と申しつかっております。……中身は存じません。あの家への借りを返すもの、とだけ」

 

 若公爵は、扉の取っ手に手を掛けたまま、しばらく動かなかった。

 

「……先に、河岸の話を済ませる。母の答えに、決裁を代行させるわけにはいかん」

 

 順序を、自分で決めた声だった。馬車の音が遠ざかってから、旦那様がぽつりと言った。

 

「あの人は、良い当主になるかもしれません」

 

「なりますでしょう。……授業料が、少々高うございましたが」

 

        ◇

 

 その夜、公爵家の書斎には灯りがひとつだけ点いていた。机に、読み終えた綴りが三冊。若い当主は最後の頁をもう一度開き、閉じ、それから鈴を鳴らした。現れた執事に、短く告げる。「ロズを呼べ。女中頭の任を、打診する」。執事の背中が消えたあと、彼は窓辺に立った。塀の向こうの小さな屋敷に、灯りがともっている。彼はそれを、長いこと見ていた。灯りは、夜半を過ぎても消えなかった。

 

        ◇

 

 同じ夜――給金日である。

 

 ティボーが読み上げ、旦那様が検め、布包みが卓を渡る。いつもの手順の、いつもの温度である。手順の終わりに、旦那様がぽつりと言う。

 

「公爵は、あなたの後任を得ました。……僕は、あなたの後任を生涯探しません」

 

 湯呑みへ伸ばしかけた手が、止まった。

 

 探しません、の言い方が、雇い主の言葉の形をしていない。形をしていない言葉は、受け取りの様式がない。様式のないまま胸に入ってきて、置き場を探して、暴れる。

 

 読み合わせの続きで、私は釣りの銅貨を数え、生涯で初めて、数え間違えた。

 

「マーサさん、三枚多いです」

 

「……検め直します」

 

 二度目も、間違えた。ティボーが帳面から顔を上げ、真顔で言う。

 

「要検め、って書いておきますね」

 

 この帳場係は、いつか大物になる。

 

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