公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

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26. 母の帳尻

 取引の席は、公証人メナール殿の事務所に設けられた。

 

 日付印の主の立会いほど、双方に公平な屋根はない。長机を挟んで、こちらは旦那様と私とティボー、あちらは若公爵とグリモー翁。上座も下座もない並びは、メナール殿の指定である。壁の棚に判と印肉が並び、窓から春の光が机の木目を照らしている。決裁に向く光である。

 

「では、フルーリ卿。口上を」

 

 旦那様が立った。手に、紙はない。幾晩もかけて自分で書いた口上は、もう手の中に要らないのである。私は約束通り、斜め後ろではなく、隣の席にいた。

 

「本日の取引は、二十年前の帳尻を、双方の得になる形で締めるためのものです。裁きの席ではありません。決裁の席です。当家は――」

 

「口上はいい。値を言え」

 

 若公爵が遮った。無礼ではない。数字の読める男の、これが礼儀である。旦那様はうなずき、条件を五つ、順に置いた。

 

 河岸の土地は、フルーリ家へ完全無償の返還。残債金貨十八は、ルヴェル家がグリモー商会から額面で買い取り、証書は当家へ。荷揚げ事業の営業権は、当家が年賦金貨五枚の六年、締めて三十で買い取る。手金なし、上がりから払う。人足は全員雇用継続。桟橋の大修繕、見積もり金貨二十五は、買い手の当家持ち。

 

 ティボーが帳面を開き、震えない声で数字の裏付けを読んだ。貸し蔵と組む一貫請負の見込み、閑散期の人手の融通、修繕の三年分割。読み終えて、一礼。市場の走り使いだった子が、公爵の前で帳面を読み上げる。それだけで、私の胸の帳面には今日の分の実入りがもう立っている。

 

「……年賦三十に、修繕二十五の切り離し」

 

 若公爵は指を組み、天井を見た。算盤の音が、聞こえるようだった。

 

「土地を無償で返せば、当家は二十年前の利得を吐き出すことになる。……そういう勘定だな?」

 

「そういう勘定です」

 

 旦那様は、言い繕わなかった。

 

「代わりに、ここにいるグリモー翁の古い貸しは、今日で帳面から消えます。二十年前の書付ごと」

 

「……良い買い手が見つかったと、わしも肩の荷が下りますわい」

 

 グリモー翁が、眼鏡の奥で笑った。売り手と買い手と、二十年の寝覚めの悪さの三者が、同じ卓で得をする。組んだのは塀のこちらの元女中頭だと、この席の全員が知っていて、誰も口にしない。口にしないのが、私への礼儀だと全員が知っているからである。

 

 長い沈黙のあと、若公爵は言った。

 

「……安くはない。だが、正しい買い物だ。返すのは金ではないな。二十年だ」

 

 メナール殿が証書を並べ、署名が四つ、順に落ちた。最後に日付印が、タン、と鳴る。

 

「日付印は、嘘をつきません。……本日をもって、二十年前は、帳簿の上で終わりました」

 

 若公爵が立ち、旦那様も立った。差し出されかけた手は、ない。代わりに旦那様が言った。

 

「これは和解ではなく、決裁です。……ですが、良い決裁です」

 

「……ああ。互いに、良い取引先だ」

 

 二人の当主は、それだけを交わした。それだけで、足りるのである。私は二つの背中を、少し離れた場所から見ていた。片方は半年余りで伸びた背中、片方は同じ月日で、下げ方を覚えた背中である。

 

        ◇

 

 一同が辞したあと、若い公爵はひとり事務所に残り、公証人に告げた。母の荷物を、当主として求める、と。金庫から出されたのは、古い封書がひと束。封蝋に、母の印。震えない指で開いて、彼は読んだ。当時の書き付けの写しに添えられた、短い遺言である。「河岸はフルーリ様へ。人足を路頭に迷わせぬ形で」。――いましがた自分が呑んだ取引と、寸分違わず同じ場所を指していた。若い当主は封書を膝に置いたまま、声を出さず、蝋燭が一寸(いっすん)縮むまで座っていた。

 

        ◇

 

 帰り道は、春の夕暮れである。

 

 石畳に長い影がふたつ並び、歩幅は今日も揃っている。旦那様は懐の証書を一度だけ確かめて、それから、妙に改まって言った。

 

「マーサさん。これで、あなたの給金を上げられます」

 

 足が、止まった。

 

 土地が返った話でも、借金が消えた話でもなく、この人は真っ先に、私の給金の話をするのである。あの面接の日、お恥ずかしながら雀の涙です、と言った人が、二十年の帳尻を締めたその足で、真っ先に。

 

 荷揚げの純益は週四十、一割で四枚――と、いつもの見積もりで乾かそうとして、失敗した。数字が、湯気の向こうのように霞んで、並ばない。生涯二度目の、勘定の失敗である。

 

「……嬉しゅうございます」

 

 見積もりを諦めて、そのまま言った。乾かさない言葉は、思いのほか、素直な形で出るものだった。旦那様は前を向いたまま、耳だけ赤くして歩いている。夕日のせいには、もう出来ない距離の赤さである。

 

 夜、食卓の真ん中に、河岸の土地の証書が置かれた。

 

 旦那様はそれを長いこと眺め、それから父の文箱を持ってきて、中へ納めた。

 

「箱の役目を、変えます。恥の箱ではなく……済んだことの、箱に」

 

 留め金が、小さく音を立てた。二十年が、閉じた音である。

 

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