公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
引き継ぎの初日、桟橋は春の盛りだった。
川風が荷の麻の匂いを運び、人足たちの掛け声に、どこか祭りの調子が混ざっている。登記と残債の証書の話は、紙の上で一行で済んだ。済む話は紙で済ませ、済まない話を人がやる。それが正しい配分である。
親方は新しい雇い主の前で帽子を取り、それから、取ったことを照れるように笑った。
「三年ぶりに、先の話が出た。……修繕の板の厚み、値決めの見直し、閑散期の割り振り。先の話ってのは、いいもんだねえ、若様」
「若様ではなく、雇い主です。こき使ってください」
「言うようになったねえ」
修繕は三年分割の一年目、傷んだ杭から順に。値決めは十年ぶりに相場へ。閑散期の人手は、設営請負の力仕事と噛み合わせる。決める人が戻った事業は、その日のうちに伸び始めた。もともと、病んでいなかったのである。杭に打たれる新しい木の音が、川面に跳ねて気持ちがいい。あれは、直っていく音だ。
夕刻、桟橋の上で祝いの席になった。人足たちの歌は、荷を上げる節を祝いの文句に替えたもので、替えた文句がところどころ怪しい。怪しいところで、皆が笑う。樽が据えられ、干し芋の塩のほうが回り、人足たちが節のついた歌をうたう。その真ん中で、事件が起きた。
「マーサさん。今週から、給金の計算を改めます。土地ごと、あなたの手柄ですから――河岸の上がり全部に、一割を」
「なりません」
私は即座に遮った。
「条文にございます。成功報酬は、わたくし着任後に新たに始めた事業の純益の一割。返ってきた資産の地代は、含みません」
「では条文を変えましょう。当主権限です」
「変えさせません。家政長権限でございます」
「そんな権限は、契約にありません」
「ただいま新設いたしました」
樽を囲んだ人足たちが、腹を抱え始めた。雇い主が報酬を上げようと迫り、雇われが条文を盾に値切り倒す。世間と、上下が逆さまの綱引きである。親方が笑いながら杯を上げた。
「若様、そりゃ勝てんよ。条文てのは、書いた者の味方だ」
決着は、原案の通りになった。土地は数えない。事業の働き分だけ、一割。旦那様は不服そうに、しかしどこか嬉しそうに、宙へ判を押す真似をした。この人は最近、負け方が上手い。負け方の上手い当主は、家中を明るくする。
◇
同じ頃、ルヴェル公爵家の帳場では、家令たちが引き渡しの帳面を検めていた。荷揚げ場の名が消えた頁の隣に、桟橋大修繕の見積もり書が残っている。金貨二十五。誰も予算に組んでいなかった数字である。帳場は静まり、やがて誰かが呟いた。「……売って、正解でございました」。数日後、新しい綴りがひとつ起こされた。年賦金貨五枚、初回の期日は年の暮れ、当ては荷揚げの上がり――と、几帳面な字が並ぶ。取り立てを、誰も心配していない。帳面の上の付き合いだけが、塀の両側で静かに続いていく。
◇
次の給金日は、いつも通りに来た。
蝋燭二本の食堂で、ティボーが読み上げる。荷揚げの働き分が四十枚、蔵が八枚、茶が二枚。一割で五枚、基本と合わせて銀貨八枚。
八枚。また、あの数字である。だがもう、相場に戻りましたね、とは言わない。この八枚は、別の橋を渡ってきた八枚だ。
布包みが、卓を渡る。受け取る掌に、いつもの温度が残る。包みの結び目は、いつからか、私のほどきやすい向きに揃えてある。気づいてしまってからは、気づかない振りという仕事が、ひとつ増えた。
ふと、気づいてしまった。渡す手も、受け取る手も、この儀式をもう必要としていない。給金は帳場で渡せば済む。純益はティボーが読めば足りる。それでも週に一度、当主が自分の手で渡すこの手順だけが、最初の夜から一度も欠けずに続いている。
対等になった二人に残った、未練の儀式である。
知っていて、どちらも、やめようと言い出さない。言い出さない理由を、どちらも検めない。検めたら、この掌の温度に名前を付けなければならなくなるからである。名前を付けたら――付けたら、どうなるのだろう。そこから先を、私の手帳は白いままにしてある。
夜更け、食堂の隅で旦那様が文机に向かっていた。
覗けば、招待状である。あの美しい字が、一枚ずつ、丁寧に名前を書いていく。市場の女将、粉屋、親方、ロクサーヌ様、セレスティーヌ様、オルタンス様……。
「再興の夜会を、やります。今度は大きく。世話になった方を、全員」
書き上がった束の一番下に、一枚だけ、裏返しの札があった。
「そちらは、どなたの分でございます?」
「……当日の、お楽しみです」
名前を書くとき、この人は必ず、その人の顔をしている。女将の宛名のときは女将の顔、親方のときは親方の顔。良い招待状は、届く前から届いているのである。そして段取りの女に隠し事をする顔が、悪戯の前の子どもの顔をしていた。悪戯の中身より、その顔の方が、よほど手に負えない。