公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
再興の夜会の晩、屋敷はひと冬ぶんの灯りを全部点けた。
磨いた床が蝋燭を映し、庭から夜の薬草の匂いが上がってくる。広間に市場と組合と貴族が同じ密度で混ざり、ブノワ殿が新調の上着で揉み手を我慢し、セレスティーヌ様が修道服のまま干し芋の講釈を受け、オルタンス様が「わたくしは身内ですからね」と誰にともなく宣言して回る。ロクサーヌ様は臙脂の扇で、その全部を面白そうに眺めている。
私は給仕の列の端で、盆を持って立っていた。持ち場である。持ち場の、はずだった。
開幕の口上に、旦那様が広間の中央へ立つ。
「本日はお越しくださって、ありがとうございます。当家の再興は、ここにいらっしゃる皆さんの帳面の中で始まりました。相場と、誠実と、芋で出来た再興です」
笑いが起き、杯が上がる。口上はつかえず、震えず、広間の隅まで届いた。もう、私が斜め後ろに控える必要はない。それが誇らしくて、ほんの少しだけ、寂しい。寂しさの置き場を探しているうちに、旦那様が続けた。
「そして今夜は、紹介したい人がいます」
旦那様がこちらを向いた。広間の顔が、一斉に続く。
「当家の家政長――ではなく」
一歩、二歩。旦那様は給仕の列の端まで歩いてきて、私の盆を、そっと取り上げて脇の卓に置いた。盆のなくなった両手が、急に置き場を失う。二十年、手に何かを持って立ってきた人間の手は、空になると帳尻が合わないのである。
「今夜は、わたしの同伴者です」
手が、差し出された。
白手袋もない、書き物だこと、庭仕事の浅い傷のある、当主の手である。広間は静まり、それから、どこかで女将が指笛を吹いた。堰を切ったような拍手の中で、私は自分の手が勝手に持ち上がるのを、他人事のように見ていた。膝が礼の形を選ぶより先に、手が取られている。段取りが、間に合わなかったのである。段取りの女の一生に、こんな不覚は二度とあるまい。
「……伺っておりませんが」
「伺いを立てたら、断られますから」
「よく、ご存じで」
導かれた先の席次表に、私は自分の名を見つけた。給仕の控えではない。フルーリ伯爵家、賓客席。組んだ覚えのない席である。席次を組んだ本人の知らない席が、私の夜会にひとつだけ存在している。裏返しの札一枚分、である。
共犯者は、帳場の隅で首をすくめていた。
「す、すみません。共犯です。……でも、悪い共犯じゃないと思ったので」
ティボーの帳面の隅に、後で書いておくことにする。要検め、である。ふふっ。
末席に、若公爵の姿があった。招待状の宛名は「取引先 ルヴェル公爵家」。目が合うと、会釈がひとつ返ってくる。会釈だけである。言葉はなく、遺恨もなく、ただ帳面の上の正しい距離だけがある。それでいい。それが、いちばんいい。
拍手の中で、オルタンス様が「ほら、言った通りでしょう」とどなたかへ胸を張り、ロクサーヌ様の扇がゆっくり三度、鳴った。目利きの拍手は、三度で足りるのである。
賓客席の椅子は、少し高かった。座って見上げる広間は、給仕の列から見るのと景色が違う。灯りはこんなに近く、笑い声はこんなに丸い。二十年、私はこの景色を作る側にだけ、いたのである。作る側の景色も、悪くない。だが今夜のこれは――検分を諦めて、ただ眺めた。
◇
夜会を早めに辞した若い公爵は、馬車の中で招待状をもう一度開いた。取引先、の三文字を指でなぞり、それから畳んで、上着の内へ仕舞う。捨てなかった。窓の外を、灯りを全部点けた小さな屋敷が流れていく。かつて母が言った。屋敷は石でできているのではありません、と。あの言葉の続きを、彼はいま、塀の外の灯りで読んでいる。読み終わるまで、あと少しかかる。馬車の軋みだけが、長い塀に沿って続いていく。
◇
客が引けた広間は、祭りの後の静けさだった。
灯りを半分落とすと、磨いた床の中の蝋燭がひとつずつ減っていく。耳の奥では、まだ祝いの声の名残が鳴っている。
余り物の菓子を皿に集め、茶を淹れて、二人で隅の卓に着く。今夜の茶は、いつまでも冷めない気がした。
「疲れましたか?」
「いいえ。……いえ、少し。段取りの外は、疲れます。ですが」
「ですが?」
「悪くない疲れでございました」
旦那様は、その言い方を採点するように、二度うなずいた。それから湯呑みを置き、妙に姿勢を正す。姿勢で分かる。この人がこれから言うことは、口上の稽古を済ませてある。
「マーサさん。来週の給金日に、お話があります」
「……いま、伺えないお話でございますか?」
「いま伺われると、僕の段取りが崩れます」
段取り、という言葉の使い方が、完全に私に似てしまった。似せたのは私である。責任の所在が明らかな動悸が、ひとつ。献立表に載らない項目が、また増える。今度のは――たぶん、いちばん大きい。