公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

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29. 生涯の席

 その週、先触れの嵐がもう一度来た。オルタンス様である。

 

「単刀直入に言います。子爵家の養女におなりなさい。体裁が整います」

 

 嫁入りの体裁、と叔母様ははっきり仰った。本人たちがまだ何も言っていない婚礼の、外堀の外堀まで埋めに来たのである。この一族は、こうと決めたら速い。

 

「ご厚意、痛み入ります。ですが――わたくしは平民のまま参ります。値札と同じで、出自も貼り替えません」

 

「……宮中席次が、持てなくてよ」

 

「席次なら、うちにはもともとありません」

 

 口を挟んだのは、旦那様である。没落の自虐が、初めて武器の形で使われた。オルタンス様はしばらく甥を睨み、それから急に算盤を弾く顔になった。

 

「まあ、いいでしょう。お子が生まれれば嫡出(ちゃくしゅつ)、継承は問題なし。……なら安心ね」

 

 誰も何も言っていないのに、話が孫まで進んでいる。帰っていく馬車を見送りながら、私は胸の内の在庫を検めた。外堀は埋まった。埋め立てたのは全員、他人である。城の主だけが、まだ何も言っていない。――そして返事だけは、とうに決まっている自分が、堀の内側で澄ました顔をして立っている。

 

 給金日までの六日を、私は生涯でいちばん丁寧に働いた。銀器は曇りなく、献立は季の走り、庭の花の頃合いはバジル爺と二度検めた。段取りで心を静めるのは二十年物の処方である。その処方が効かなかったのは、生涯で初めてのことだった。

 

 給金日の晩は、初夏の匂いがした。

 

 開け放した窓から庭の薬草の香りが入り、蝋燭は二本、卓の上に布包みがひとつ。ティボーとコリンヌは、今夜に限って妙に手際よく席を外した。バジル爺に至っては、昼のうちから庭の一番よい花に鋏を入れていた。家中ぐるみの共犯である。この家の共犯は、いつも優しい形をしている。

 

 読み上げも検めもなしで、旦那様は銀貨を数え、布に包み、私の掌に載せた。いつもの温度が、いつもより長く掌に残る。

 

「本日の給金です。……そして」

 

 旦那様は立ち上がり、いつもの隣の椅子を引いた。座面をあつらえ直した、あの椅子である。

 

「マーサさん。僕は、この三つの季節で、決裁を覚えました。枯木を伐るのから始めて、蔵を貸し、口上を言い、二十年の帳尻を締めました。……人生でいちばん大きいのを、今からします」

 

 声は、震えている。組合の寄り合いの、あの夜のように。だが椅子の背を支える手は、まっすぐで、逃げていない。震える声と逃げない手。この取り合わせを、いつからか私は、世界でいちばん信用するようになっていた。

 

「この席を、生涯あなたの席にさせてください」

 

 蝋燭が、ゆれた。

 

「書類はありません。契約でもありません。給金も出ません。……その代わり、僕の全部が付いてきます」

 

 雇い入れの口上として、条件は史上最悪である。無給、無契約、書面なし。二十年前の私なら、検めるまでもなく突き返している。十年前の私でも、突き返している。

 

 その私が、いまは一人も残っていなかった。

 

 段取りのない返事をしよう、と思った。生まれて初めて、様式の外の言葉で。この人がくれたものの分だけ、型ではない、私だけの言葉で返そうと――息を吸う。動悸がする。献立表には載っていない。もう、載せなくていい。口が、開く。

 

「――本日付で、お受けいたします」

 

 出てきたのは、それだった。

 

 一拍の間。旦那様が、目を丸くする。私は自分の言葉を頭の中で検分し直し、それから生まれて初めて、自分の様式美に耳まで熱くなった。二十年かけて骨まで染みた型は、人生でいちばん大事な返事の日にも、律儀に襟を正して出てくるのである。

 

「……申し訳ございません。いまのは、その」

 

 私はあまりの無粋な返事に顔をしかめた。

 

「いいじゃないですか」

 

 旦那様は笑っていた。泣き出す一歩手前の顔で、笑っていた。

 

「あなたの様式ごと、いただきます。一番あなたらしい返事でした」

 

 引かれた椅子に、座る。三呼吸かかった椅子だった。一呼吸で座れるようになった椅子だった。今夜は――呼吸を、数えていない。数える係の私が、もうどこにもいなかったからである。

 

 卓の上の掌に、旦那様の手が重なった。布巾越しでも、紙袋越しでもない、初めての温度である。熱いのか冷たいのかも分からないうちに、指が指の間に納まって、帳尻が合ってしまった。見積もりは、立てなかった。値の付かないものに算盤を弾くのは、家政長の仕事ではない。窓の外で、夜の庭が匂っている。薬草の白い花の、慎ましい匂いである。この匂いの中で働いてきた月日が、重なった掌の中で、ひとつの温度になっていく。

 

 もっとも、家政長でいられるのも、あと少しである。

 

「婚礼は、夏に」

 

「庭の花が、盛りでございますね」

 

「ええ。母の庭が」

 

         ◇

 

 夜更け、自室の文机で、私は一通の文を書いた。宛名は、塀の向こうの老執事である。招くのは家ではなく、人だ。書き出しの一行に少しだけ迷って、それから、こう書いた。

 

「バティスト様。わたくし、この家の食卓に、生涯の席をいただきました」

 

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