公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~   作:aquali

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3. 引き抜きではございません

 バティスト様は、応接間の椅子に浅く腰掛けて、茶に手を付けずにいた。

 

「戻っては、いただけまいか?」

 

 単刀直入である。私の知る限り、この方が前置きを省くのは、余程のときだ。

 

「屋敷が、軋んでおります。どこがどうとは、わしの口からは申せん。ですが……軋んでおります」

 

「バティスト様」

 

 私は、自分で淹れた茶をお勧めした。二十年、同じ屋根の下で働いた方だ。新入りの頃、廊下の歩き方を教えてくださったのは、この方である。足音は殺すな、しかし響かせるな。良い使用人の足音は、雨の音に似ている――。

 

 茶の一杯は、その二十年への、私個人の礼である。

 

「わたくしの返事は、規定通り、もう済ませてございます。執事室の棚に、三部のうちの一部が」

 

「…………」

 

「あれをお読みくだされば、屋敷は軋みません。夜会の席次も、冬薪の暦も、酒蔵の鍵も、全部書いてございます」

 

 老執事は、茶碗に目を落とした。長い沈黙である。読めない、とは言わなかった。読むなと言われている、とも言わなかった。言わないことで全部わかってしまうのが、この方の不器用なところだ。

 

「……美味い茶です」

 

「恐れ入ります」

 

 それだけ言って、バティスト様は帰っていった。門の外まで送り、頭を下げる。

 

 曲がらない背筋が塀の向こうへ消えるまで、私は頭を上げなかった。個人への礼と、組織への返事は、別の棚に仕舞うものである。仕舞ったはずの棚が、少しだけ軋んだ気はしたが、聞かなかったことにする。

 

 ――――さて、本日の仕事は大掃除である。

 

 大掃除とは、綺麗にすることではない。持ち物の目録を作ることだ。

 

「掃除とは、財産の棚卸しでございます。埃の下から、この家の資産が出て参ります」

 

 総動員である。コリンヌ、下男のティボー。庭師のバジル爺は門を磨いていたので、そのまま門に置いた。人には持ち場というものがある。

 

 言い出した当主が、真っ先に雑巾を持った。

 

「旦那様。雑巾は、絞ってからでございます」

 

「は、はい」

 

 滴を垂らして廊下を往く当主というものを、私は生まれて初めて見た。手帳に書くべきか、しばし迷う。

 

 窓を開け放つと、秋の光が埃の柱を立てた。布を叩く音が屋敷に響く。古い布の匂い、樟脳(しょうのう)、乾いた木の匂い。屋敷が二十年ぶりに深呼吸をしている。

 

 出た。出るわ出るわ。

 

 北の納戸から銀器がふた揃い。見積もり、銀貨四十枚。売らない。いずれ夜会に使う。客間の長持(ながもち)から古布が一反と、先代の上着が三着。仕立てがいい。直せば当主の一張羅になる。

 

 それから、謎の壺がひとつ。

 

「旦那様。こちらの壺は?」

 

「父が『いつか値の出る壺だ』と申しておりました」

 

「さようでございますか。……見積もり、銅貨三枚でございます」

 

「さ、三枚」

 

「ただし酢漬けの壺としては上物でございます。台所で第二の人生を歩ませましょう」

 

 伯爵は、壺と私を見比べて、少し笑った。この方は、笑うと年相応に見える。

 

 ――ティボーの話をしよう。

 

 十五歳。孤児で、三年前の冬に先代に拾われた下男である。市場の走り使いをして育ったとかで、銭勘定の暗算だけは、そこらの帳場より速い。

 

「銀貨四十と、古布が一反で銀貨六なら、合わせて四十六!」

 

「正解でございます。……ときに、いまの数を、紙に書けますか?」

 

「…………字は」

 

 目が泳ぐ。書けないのだ。数はあるのに、字がない。

 

「では、今夜から字のお稽古をいたします。習うのは字だけでよろしい。数は、もうお持ちです」

 

「……おれ、頭悪いから」

 

「頭の悪い子は、暗算で四十六を出しません」

 

 その晩から、台所の隅が教室になった。蝋燭一本。炭筆と、板きれ。最初に教える字は決めてある。

 

「ティボー。あなたの名前です」

 

 板きれの上で、細い炭筆がぎこちなく動く。テ、ィ、ボ、ー。曲がって、掠れて、それでも読める。

 

「……おれの名前、初めて書いた」

 

 少年は板きれを、汚れ物みたいに乱暴に抱えて、宝物みたいにそっと置き直した。手帳に書き付ける。ティボー、字は初めて。名は、書けた。

 

 夕食の給仕に立つと、当主がスープの(さじ)を置いて、妙にしみじみと言う。

 

「僕は今日、この屋敷が動くところを、初めて見ました。あなたが号令をかけると、埃まで整列するのですね」

 

「埃は整列いたしません。掃くのです」

 

「はい。……はい、そうですね」

 

 嬉しそうに二度頷くことでは、なかったと思う。

 

         ◇

 

 薪屋の帳場では、親方が帳面を睨んでいた。秋の第四週。例年なら、公爵家から冬薪の予約が入る週である。今年は、まだ来ない。

 

「向こうから言ってくるのが筋だがなあ」

 

 帳面の頁は、他家の予約でもう残り少ない。侯爵家がふた頁、商家の連名がひと頁。山の切り出しは天気で決まるから、冬の薪は湧いて増えたりしない。予約で埋まった残りに、冬の値が付く。それが早いか遅いかだけの商売である。

 

 親方は帳面を閉じた。予約のない客の薪は、よそへ売るだけの話である。

 

        ◇

 

 ――寝る前に、屋敷をひと回りするのが習いだ。

 

 裏庭に出て、足が止まった。

 

 月明かりの下、庭が死んでいた。薔薇の枯れ株が並び、蔓が絡み、その真ん中の小道だけが、なぜか綺麗に掃かれている。

 

 冷えた土の匂いの中に、掃き目だけが新しい。

 

 小道の先に、バジル爺の背中があった。もう夜だというのに、爺は死んだ庭に向かって、ただ立っていた。

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