公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
使者は、絹の上着を着ていた。
ルヴェル公爵家の用人、と名乗る。見覚えのある顔である。私が辞めたあと、帳場から上がった人だ。指の腹にインクの染みが残る、几帳面な帳場の手である。腰の低さは変わらないが、目が落ち着かないのは初めて見る。回らない屋敷の目、である。
応接間の例のカーテン越しに、午後の光が薄く入る。虫食いの穴が、ちょうど使者の膝の上に小さな光の点を落としていた。本人は気づいていない。
「単刀直入に申し上げる。戻っていただきたい。給金は週に銀貨十六枚――今までの倍だ。個室も付ける」
倍。相場から見れば、破格である。
茶を運んできたコリンヌが、扉の脇で盆ごと固まったのが見えた。無理もない。銀貨十六枚は、この家の台所の四週分である。
「お断り申し上げます」
「……理由を伺いたい。十六で足りぬなら、いくらなら戻る?」
「値段のお話でしたら簡単です。わたくし、高うございますよ」
使者が身を乗り出す。私はその前に、湯気の立つ茶を置いた。
「ですが、これは値段の話ではございません。値札の話でございます」
「……値札?」
「わたくしの仕事から値札を剥がした方に、お返事する義理は、規定にございません」
十六枚は、二十年で私に付いた、いちばん高い値である。その高い値を、少しも嬉しく感じない自分に、静かに驚く。値札というものは、数字ではないのだ。一度剥がした手で貼り直した数字は、もう値札ではない。ただの、言い値の紙である。
使者は長いこと黙って、茶を飲んだ。それから、茶請けに出した蒸かし芋を食べる。ひと切れ食べ、ふた切れ食べ、三切れ目に伸びかけた手を、慌てて引っ込めた。
「……これは、何という菓子か?」
「蒸かした芋でございます。塩だけで、ああなります」
「そうか。…………美味かった」
商談の壊れた男の顔で、使者は席を立った。悪い人ではないのである。悪くない人ばかりが、順繰りに頭を下げに来る。それが少し、胸の奥に埃のように積もる。
見送りに門へ出ると、先に旦那様が立っていた。
使者の馬車が動き出す。車輪の音が坂を下り切るより早く、隣で、小さな声がした。
「うちの家政長は、渡しません」
言った本人が、いちばん驚いた顔をしていた。耳から首まで、見る間に赤くなる。
「い、いまのは、その、誰にともなく言ったのです」
「はい。どなたにともなく、承りました」
胸の奥で、何かがひとつ跳ねた。跳ねたものの名前は、調べないでおく。献立表に載っていないものを、私は取り扱わない。取り扱わないが――受け取ってはしまった。困った帳尻である。
台所へ戻ると、コリンヌが鍋を磨きながら、妙に機嫌のいい鼻歌を歌っていた。
「あたしゃ、何にも聞いてないよ」
「何も起きておりません」
「そうかいそうかい。起きてないねえ」
鍋が、上機嫌に鳴る。この台所の耳の良さも、いずれ手帳に書かねばなるまい。
――――さて、冬支度である。
貧乏な家ほど、時期だけは外してはならない。金で買えない備えは、暦で買うのである。
薪屋の帳場は、木屑と樹脂の匂いがする。この匂いを嗅ぐと、私の頭は勝手に冬の算段を始める。長年の
母屋の三口分――台所と居間と寝室――の冬薪を予約する。使わない翼は、扉を閉めて毛布で目張りをすれば、焚かずに済む。目張りの寸法はティボーに測らせ、毛布の繕いはコリンヌに、隙間の板打ちはバジル爺に振り分けた。金のない冬支度は、手数の多い冬支度である。手数なら、うちは足りている。
「例年の半分で結構です。そのかわり、乾いた
「あいよ。……あんた、頼み方が変わらないねえ。量より先に、乾きの注文だ」
親方が笑う。予約は帳面の、残り少ない頁に収まった。
屋敷に戻れば、台所は仕込みの匂いである。塩漬けの樽、干し野菜の網、酢に沈む根菜。窓から入る秋の光が、吊るした玉葱の皮を金色に透かしている。例の銅貨三枚の壺が、樽の列の端で誇らしげに蓋を光らせている。第二の人生は、順調らしい。
◇
ルヴェル公爵家に、北の縁者が泊まった。客室の支度は、兼任の家政方が整えた――つもりだった。長持の毛布は上等である。ただ、夏のあいだ風を通す者がなく、湿気を吸って底冷えがする。縁者は一晩で喉をやられ、翌朝、白い息と一緒に言った。「この家は、客を凍えさせるのか?」毛布を干す日付も、火鉢を入れる順番も、支度の手順は最初から紙にある。誰も開けない、棚の中の話である。
◇
夜、食卓に冬の献立表を広げた。
芋の十七通りを、冬の並びに置き直す。汁物は朝に、焼き物は夜に、保存の樽は冷えの来る順に開ける。旦那様は献立表を覗き込み、真剣な顔で「冬が、少し楽しみになってきました」などと言う。
「ときに、保存の樽はどちらへ?」
「石蔵に――」
言いかけて、私は手を止めた。
石蔵。そういえば、検分がまだである。
翌朝、錆びた錠前を開けて、私は蔵の敷居の上で立ち尽くした。
埃の下から出てきたのは、思いがけない広さだった。