公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
フルーリ伯爵家の石蔵は、石積みが厚く、床が高く、奥行きが馬車二台分ある。
中は、ほとんど空だった。
高窓から光が一筋落ちて、埃の柱を立てている。空の蔵ほど、雄弁なものはない。売り払われた家財の目録が、埃の濃淡になって床に残っている。ここに長持、ここに椅子の列、ここには樽。撫でれば消える、二十年分の家計簿である。
手放す順番まで、読めてしまう。痛くないものから先に売り、痛いものを最後まで残す。床の跡を見る限り、この家が最後まで手放さなかったのは、客用の椅子の列だった。金が尽きても、客を迎える気力だけは最後まで畳まなかった家なのである。
しんみりするのは、三呼吸だけにしておく。
空いているということは、入れられるということなのだ――。
「旦那様。蔵を、貸しましょう」
「……蔵を、貸すのですか?」
「石蔵は乾いて、涼しくて、火の気がございません。荷を預かるには一等地でございます。空の蔵は、他人様の荷物で埋めるものでございます」
旦那様は、蔵の高い天井をしばらく見上げていた。売られた家財の跡を、目でなぞったのかもしれない。それから、頷いた。
「……お願いします。先祖には、眠らせておくより働いてもらいます。母の庭と、同じ理屈です」
決めるときの声が、また少し、当主の声になっている。
借り手は、市場で見つけた。
一人目は羊毛商である。秋の毛刈りの在庫が倉に入り切らず、湿気させては商売にならないと嘆いていた男だ。蔵をひと目見て、手を打った。
「乾いてる、広い、火の気がない。マーサさんの目利きなら、検分は要らないくらいだが――」
「検分はなさってください。検分抜きの契約は、双方の恥でございます」
二人目は葡萄酒屋。石蔵の北壁に手を当てるなり、長いこと黙って、それから唸った。
「……温度が、動かない。これは酒が喜ぶ壁だ」
メナール殿を呼んで、貸し蔵の契約を成文にした。荷の出し入れの刻限、火気の禁止、鍵の本数まで書き込んで、判が押される。
「よい契約です。双方が得をして、紙が正直だ」
「恐れ入ります。正直な紙は、わたくしの好物でございます」
契約の翌日、羊毛の荷が運び込まれた。人足の掛け声で、空だった蔵に音が戻る。埃の目録の上に、新しい荷が座っていく。二十年止まっていた家計簿の頁が、めくれた音である。
旦那様は蔵の戸口に立って、その音を、いつまでも聞いている。
◇
ルヴェル公爵家の配膳室で、銀器がひと組足りない――と、兼任の家政方が青くなった。盗難か、と屋敷がざわつき、疑いの目が下働きに向いて、洗い場の娘がひとり泣いた。三日後、銀器は磨き部屋の棚から出てくる。夜会用と日常用を分けて数える決まりを、誰も知らなかっただけである。数え方は、執事室の棚の綴りに書いてある。見つかった晩、屋敷は何事もなかった顔に戻る。娘に詫びた者は、いなかった。
◇
――七日目の夜、給金日が来た。
食堂の蝋燭は、今夜も二本である。その灯りの前で、布包みが少しだけ膨らんでいた。
「今週から、成功報酬が付きます。検めました――蔵の貸し賃、月に三十二枚を四週で割って、週に八枚。その一割で、銅貨八十枚です」
脇に控えたティボーが、指も使わずに言い添える。
「合ってます。おれも三回、数えました」
検算係を頼んだ覚えはないのだが、本人がいちばん張り切っている。数の得意な子に数を任せる日は、そう遠くあるまい。
銀貨三枚と、銅貨八十枚。旦那様は銅貨を十枚ずつの山にして、八つ、順に私の掌へ移していく。掌の上で、山はすぐ崩れて、ただの重さになった。
「重うございますね」
「豊かさは重いのです。……増えた分は、あなたの発明の重さです」
二十年、給金の額で胸が動いたことは、一度もなかった。帳場の袋は正確で、乾いていて、月末の廊下と同じ温度をしていた。動くのは額ではない。渡され方である。銅貨八十枚ぶんの不格好な重みが、布包みの結び目ごと、妙に、その、あたたかい。
「来週は、もう少し重くして差し上げます」
「腰にひびきますので、ほどほどに」
……冗談を言った。私が、である。二十年、給金の場で冗談など言ったことのない私が、である。
手帳には書かない。書かないことが、最近少しずつ増えていく。
三日後――羊毛商の荷馬車について、見慣れない客が門をくぐってきた。
絹の見本を小脇に抱えた、
男は帽子を取り、揉み手の形のまま、意外なほど不安げな声を出した。
「フルーリ様のお屋敷では、相談に乗ってくださると伺いまして。……織物商の、ブノワと申します」