公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
ブノワ殿の相談は、羊毛でも絹でもなかった。
「娘の縁談のために、夜会を開きたいのです。金なら、あります。金なら」
二度言った。二度言うのが、この人の傷らしい。
「ですが、招待状の書き出しひとつで笑われる世界だそうで。席の並べ方も、皿の順も、音楽の止めどきも、わたしどもには……。恥をかくのは、わたしはいい。娘にだけは、かかせたくない」
揉み手がほどけて、父親の手になっていた。
卓に広げられた絹の見本を、私は指の腹で検める。織りは詰んで、染めは深い。誤魔化しのない品である。品物の正直な商人は、信用の正直な取引先になる。
「よい絹でございます。……娘御は、お幾つで?」
「十七です。その、親の口から言うのも何ですが、笑うと親に似ず、可愛いんです」
親馬鹿は、商談の傷ではない。むしろ担保である。
私は、旦那様の顔を見る。旦那様も、私を見ていた。
「旦那様。当家の在庫を、ひとつ思い出しました」
「在庫、ですか?」
「格式でございます。没落いたしましても、家格と儀典の知恵だけは、目減りしておりません。――格式は、貸し出せます」
夜会の支度一式を、伯爵家が後見する。席次を組み、進行を書き、給仕の作法を仕込み、当日は当家の名で体裁を整える。見積もり、支度一式で銀貨六十枚。
「席次、というのは、そんなに大事なもんですか? うちはどうも、飯と酒が旨けりゃ、と」
「夜会で人が傷つくのは、料理でも音楽でもございません。席でございます。誰の隣に置かれたかを、お客様は十年覚えていらっしゃいます」
二十年組んできた者が言うのだから、間違いない。組み間違えた家がどうなるかも――いや、その話は、よそう。
ブノワ殿は目を丸くし、それから、値切らなかった。値切らない商人は、本気の商人である。
決める段になって、旦那様は少しだけ黙った。
「……家の名を、貸すことになります。決めるのは、僕です」
猫背が、ゆっくり伸びる。
「お受けしましょう。うちの格式は、額に入れて埃を被るより、働いた方がいい。母の庭と、蔵と、同じ理屈です」
三度目の「同じ理屈」である。この理屈は、もう、この家の背骨になりつつある。
引き合わせの席で、旦那様はブノワ殿に私を示して、こう言った。
「紹介します。――わたしの家政長です」
僕、ではなかった。公の一人称が、初めて板の上に立った音がした。私は半歩下がって、当主の口上の邪魔をしないでおく。胸の中の算盤だけが、静かに一段、珠を上げた。
ブノワ殿は、私にではなく、旦那様に向かって頭を下げ直した。順序の正しい客である。順序の正しい客は、良い客だ。
――その週、隣の公爵家から手紙が来た。
上等な紙に、公爵家の
名簿から人を消した方が、名簿の外から人を動かそうとしている。狙いは呼び戻しではあるまい。隣で成功されては、体裁が悪い。ならば遠くへ――それも、ご自分の口利きで動かした形にすれば、少なくとも塀の向こうの灯りは視界から消える。厄介払いの形をした、体面の一手である、と読める。読めるが、深読みは仕事ではない。
返書は一行にした。
――あいにく、当家の名簿は埋まってございます。
宛名書きは、旦那様が引き受けてくれた。癖のない、驚くほど美しい字である。
「断りの手紙ほど、丁寧に書くものだと、父に教わりました」
没落しても、礼の書き方だけは売らなかった家らしい。この字も、埃を被っていた在庫のひとつだ。
◇
ルヴェル公爵家の玄関広間で、来客の外套が椅子に積み上がっていた。預かるのは玄関番の職分か、部屋方の職分か。女中頭が消えて以来、兼任同士は互いに譲り合い――押し付け合い、外套の山だけが育っていく。「それは私の職分ではない」。その言葉は言った者を守り、屋敷を守らない。帰り際、賓客のひとりが山の中から自分の外套を自分で掘り出した。老執事が駆け寄って詫びる背中に、白髪が増えている。
◇
夜会の進行は、紙一枚に収めた。収まるように書くのが芸である。開場の刻限、迎えの口上、最初の一曲、料理の出る順、音楽の止めどき、見送りの並び。二十年、体で回してきたものを紙に起こすと、我ながら呆れるほど、するすると出てくる。技能というものは、置き場所を変えても目減りしないのだ。
――誰でも務まる、そうでございますよ。ふふっ。
胸の中でだけ呟いて、私は進行表に日付を入れた。
夜、台所では菓子の試作が始まっていた。ブノワ家の夜会に出す焼き菓子である。
「成金様の舌には、砂糖はこれくらい張り込むのさ」
コリンヌの手元で、砂糖が景気よく舞う。味見役の旦那様とティボーが、皿を挟んで真剣勝負の顔をしている。
「あ、甘い……甘いですが、うまい」
「成金様仕様と申し上げました。うちの分は芋で十分でございます」
文句の出ない台所である。うちの夜は、今日も安い蝋燭で明るい。
帰り際の教会の触れ売りから、秋の
紙の隅の日付に、目が留まった。
……もうすぐ、奥様の命日である。