公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
命日の朝は、よく晴れた。
庭に薄く霜が降りて、朝の光にきらきらと融けていく。息が白い。冬の手前の、いちばん澄んだ季節である。
私はいつも通りに起きて、いつも通りに竈の火を検め、いつもより丁寧に廊下を拭いた。
「あんた、今日はやけに手が速いね」
「そういう日でございます」
コリンヌは何かを察した顔をして、それ以上は聞かずに、芋の皮を厚めに剥いた。厚めに剥いた分は、夕方の茶請けが少し豪華になるという意味である。この台所の察し方は、そういう形をしている。
――二十年前の秋も、こんな空だった。
市場の隅で、私は人参の山を検分していた。奉公先の当てが三日途切れて、財布には銅貨が六枚。曲がりの箱から味の良い一本を見分けて、それを昼と夜に分ける算段をしていた。
ふと、視線に気づく。
身なりのいい奥方が、供も連れずに籠を提げて、私の手元を眺めていた。
「あなた、いい目ね」
それだけ言って、奥方は私の選んだ人参を指さし、同じものをもう一本選ばせて、自分の籠に入れた。従者に持たせる荷物ではなく、自分の籠に、である。ルヴェル公爵夫人ジェルメーヌ様が、そういう人だと知るのは、勝手口をくぐった後の話である。
最初の持ち場は、勝手口の土間の水仕事だった。手が荒れて、袖が凍って、それでも段取りをひとつ覚えるたび、奥様は目ざとく見つけて笑った。
――屋敷は石でできているのではありませんよ、マーサ。人でできているのです。
石は磨けば光る。人は、覚えて光る。だからあなたの目は、屋敷でいちばんの道具になる――。
夜会の席次を初めて任された晩のことも、覚えている。震える手で書いた席次表を、奥様は一箇所だけ直した。長年不仲の二家を、あえて遠くも近くもない席に置き直して、笑った。仲直りの席は作れないけれど、喧嘩の起きない距離なら紙の上で作れるのよ、と。
紙の上で人を守る仕事を、私はあの晩に教わったのだと思う。
二十年経って、私はまだ、あの声の高さを覚えている。
昼、教会の鐘が鳴った。
塀の向こうの、あの屋敷の礼拝堂に向けて鳴る鐘である。音だけが、塀を越えてこちらへ届く。私は雑巾を絞る手を止めて、濡れた手のまま、鐘の数だけ頭を下げた。
働くのが、私の弔い方である。奥様に教わったやり方で屋敷をひとつ耕すことのほかに、私が霊前へ持っていけるものはない。
◇
ルヴェル公爵家の礼拝堂では、先代夫人の命日の弔いが行われた――行われた、はずだった。恒例だった施しの支度がなく、門前に集まった貧者は手ぶらで帰っていく。祈祷の順は狂い、招かれた親族は顔を見合わせ、司祭は式の途中で二度、長い咳払いをした。式次第は毎年同じである。書いた紙もある。誰も開けない棚の中に、二十年分。祭壇の名を、若い当主は硬い顔で見上げていた。母の日を、回らない屋敷が汚していく音を、彼はまだ言葉にできない。
◇
夜、洗い物を終えて廊下に出ると、食堂にまだ灯りがあった。
旦那様が、蝋燭一本の前に座っていた。私に気づいて、少し迷ってから、向かいの椅子を引く。
「マーサさん。今日は……その、鐘の日でしたね」
「はい」
「あなたの話を、聞かせてください。その、奥様の」
芋の茶菓がふた皿、もう出ていた。コリンヌの厚剥きの分である。台所と食堂が、今夜は共謀しているらしい。
私は、座った。今夜は、呼吸ふたつで済む。
人参の話をした。籠の話、土間の水の冷たさの話、石と人の話。席次表を一箇所だけ直した指の話。奥様が五年前、風邪をこじらせてあっけなく逝かれた話。話は湯気と同じで、いったん立ちのぼると、止め方が難しい。
「奥様は、最期の頃、若様の話をなさるとき、少しだけ声が低くなりました。……数字の好きな、賢い子です、と。賢さの隣に何が要るか、あの子はまだ知りません、と」
あのとき私は、相槌の代わりに枕元の白湯を替えた。返事のしようのない話には、手を動かすに限る。いまにして思えば、あれは遺言の端切れだったのかもしれない。
「……奥様がご存命なら、わたくしは辞めなかったと思います」
口に出して、初めて自分でも輪郭の分かる本音である。旦那様は、うまい相槌のひとつも打たなかった。ただ、茶が冷めれば注ぎ、皿が空けば寄せ、黙って聞いた。聞き方にも、仕立てのよさというものがある。
憎んでいないのだ、と話しながら気づく。あの屋敷を、私は憎めない。人参の台に始まって五十三本の鍵で終わった二十年を、憎まずに畳めたのは――たぶん、幸運なことである。
目の奥が緩みかけたので、見積もりで乾かした。
「……この茶葉、そろそろ切れますね。明日、市場で買い足します」
「はい。ご一緒します」
窓の外に、塀の向こうの屋根が黒く見える。
その翼の端の窓の灯りが、ふ、と消えた。
今夜はもう、点かなかった。