80歳のハリーポッターが11歳に戻った場合   作:金縛り

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1年目
1年目 二度目の十一歳


 死ぬ瞬間というものは、もっと劇的なものだと思っていた。

 

 閃光が走るとか。

 

 過去の記憶が走馬灯のように蘇るとか。

 

 先に死んだ友人たちが、向こう側から手を差し伸べてくるとか。

 

 少なくとも、闇払い局長として半世紀近く働き、

 数え切れないほどの闇の魔法使いを牢獄送りにした男の最期としては、

 もう少し何かあってもよかったはずだ。

 

 実際には、そんなものは何もなかった。

 

 長年住み続けた自宅の寝室で、少し息苦しいと思った。

 

 枕元に置いてあった眼鏡を取ろうと手を伸ばした。

 

 指先が届かなかった。

 

 それだけだった。

 

 痛みすらほとんどなかった。

 

 意識が暗闇へ沈む直前、ハリー・ポッターが最後に考えたことは、

 ヴォルデモートのことでも、魔法界のことでもなかった。

 

 机の上に置いたままの書類を、明日の部下が見つけてくれるだろうか。

 

 それだけだった。

 

 だから、次に目を開いたとき、ハリーは自分が死後の世界にいるのだと思った。

 

 狭い。

 

 暗い。

 

 埃っぽい。

 

 そして、背中が痛い。

 

「……最悪の天国だな」

 

 声が高かった。

 

 あまりにも高かった。

 

 ハリーはしばらく瞬きをした。

 

 暗闇に目が慣れてくる。

 

 自分のすぐ上に、斜めに渡された木の板がある。

 隅には小さな蜘蛛の巣。

 足元には、サイズの合っていない靴。

 鼻をつくのは古い毛布と洗剤と、わずかな黴の匂い。

 

 知っている。

 

 この場所を、ハリーは知っていた。

 

 忘れたことなど一度もない。

 

「……階段下物置」

 

 呟いた声は、やはり子供のものだった。

 

 ハリーは毛布を跳ね除けて起き上がった。

 

 頭をぶつけた。

 

「痛っ」

 

 額を押さえる。

 

 視界の端で、細い腕が動いた。

 

 皺だらけでもなく、無数の古傷に覆われてもいない。

 闇払いとして生きた長い年月の中で蓄積された、

 呪いの痕跡も、骨折の後遺症もなかった。

 

 小さな手だった。

 

 十一歳にも満たない子供の手。

 

 ハリーは手のひらを見つめ、それから腕を見て、胸元を確かめた。

 

 ぶかぶかのシャツ。

 

 粗末なズボン。

 

 どちらも、従兄のダドリーのお下がりだ。

 

「まさか」

 

 毛布の下を探り、隅に置かれた割れかけの鏡を拾う。

 

 鏡の中には、ひどく痩せた少年がいた。

 

 黒い髪。

 

 丸い眼鏡。

 

 鮮やかな緑色の瞳。

 

 額には、稲妻型の傷。

 

 何十年も見続けた顔だった。

 

 ただし、そこに老いの痕跡は一切なかった。

 

 ハリーは黙って鏡を置いた。

 

 そして、もう一度拾った。

 

 鏡の中の少年も、同じ動作をした。

 

「……なるほど」

 

 声は思ったより落ち着いていた。

 

 長年の訓練の成果だろう。

 予想外の場所で呪われた遺物が爆発しようと、

 尋問中の容疑者が突然ドラゴンに変身しようと、

 慌てず騒がず状況を確認する。

 

 闇払いの基本だった。

 

 鏡の中の自分が子供に戻っている程度で、いちいち叫んではいられない。

 

 ハリーは自分の頬をつねった。

 

 痛い。

 

 夢ではない。

 

 次に額の傷へ指を当てる。

 

 痛みはない。

 

 ヴォルデモートとの繋がりを示す、あの嫌悪感もなかった。

 

「今日は何日だ」

 

 声に出してみる。

 

 返事はない。

 

 当然だった。

 

 階段下物置には、本人以外誰もいない。

 

 ハリーは扉へ手を伸ばした。

 

 鍵は外から掛けられていなかった。

 

 そっと開ける。

 

 廊下は静まり返っている。

 

 壁紙。

 

 敷かれた絨毯。

 

 玄関の位置。

 

 何もかも記憶の通りだった。

 

 ハリーは足音を立てないように台所へ向かった。

 

 食卓の上に新聞が置かれている。

 

 日付を確認する。

 

 七月二十三日。

 

 十一歳の誕生日まで、あと一週間。

 

 ホグワーツから手紙が届き始める、その少し前だった。

 

 ハリーは椅子に座った。

 

 しばらく新聞の日付を眺め続けた。

 

 もう一度人生をやり直せる。

 

 そんな幸運に喜ぶべきなのかもしれない。

 

 死んだ両親に会える。

 

 シリウスを救える。

 

 リーマスも、フレッドも、トンクスも、数え切れないほどの死者を救える可能性がある。

 

 未来を知っている。

 

 敵の正体を知っている。

 

 分霊箱の場所を知っている。

 

 ヴォルデモートがどのように復活し、どのように滅びたかも知っている。

 

 これほど有利な状況はない。

 

 だが、ハリーはすぐには喜ばなかった。

 

 むしろ、冷たいものが腹の底に沈んでいくのを感じていた。

 

「……勝てるか?」

 

 誰もいない台所で、ハリーは問いかけた。

 

 一度目の人生で、ハリーはヴォルデモートを倒した。

 

 その事実だけを見れば、答えは簡単だ。

 

 勝てる。

 

 すでに一度勝っているのだから。

 

 だが、ハリー自身が誰よりも理解していた。

 

 あれは、実力で勝ったのではない。

 

 母の犠牲。

 

 ヴォルデモートがハリーの血を使ったこと。

 

 双子の杖。

 

 ニワトコの杖の忠誠。

 

 数え切れない偶然と、仲間たちの犠牲。

 

 そして何より、ヴォルデモート自身の傲慢さ。

 

 あらゆる条件が奇跡的に噛み合った結果だった。

 

 同じ流れを再現しろと言われても、できる気がしない。

 

 歴史というものは、知れば知るほど扱いが難しい。

 

 僅かに行動を変えただけで、未来の出来事がそのまま起きる保証はなくなる。

 

 シリウスを早く救えば、ピーター・ペティグリューの行動が変わる。

 

 日記を早期に破壊すれば、ルシウス・マルフォイが別の手を打つ。

 

 クィレルを即座に始末すれば、ヴォルデモートは別の宿主を探す。

 

 一つ改善すれば、別の場所に歪みが生まれる。

 

 しかも、ヴォルデモートは愚かではない。

 

 傲慢で、残忍で、致命的なほど自己中心的だったが、魔法使いとしては疑いようのない天才だった。

 

 真正面から戦って勝てる相手ではない。

 

 少なくとも、十一歳の身体では。

 

 老齢まで鍛え上げた経験と知識はある。

 

 呪文も覚えている。

 

 闇払いとして学んだ戦術も、尋問術も、追跡技術も、呪いへの対処法も頭に残っている。

 

 だが、魔力はどうだ。

 

 肉体はどうだ。

 

 反射神経はどうだ。

 

 記憶があるからといって、十一歳の腕で同じように杖を振れるとは限らない。

 

 老いた身体よりは軽いだろうが、筋力も、握力も、魔力を制御するための感覚も、一から作り直さなくてはならない。

 

「まずは鍛錬だな」

 

 ハリーは結論を出した。

 

 未来を変える。

 

 救える者は救う。

 

 分霊箱は破壊する。

 

 ヴォルデモートも、今度こそ確実に葬る。

 

 だが、そのためには力が必要だった。

 

 運任せではない。

 

 誰かの犠牲を前提としない。

 

 ヴォルデモートの自滅を待つのでもない。

 

 純粋な実力で、叩き潰せるだけの力。

 

 ハリーは目を閉じた。

 

 杖はない。

 

 自分の杖は、まだオリバンダーの店にある。

 

 試しに右手を新聞へ向ける。

 

 集中する。

 

 老齢になってから使っていた杖なし魔法の感覚を思い出す。

 

 魔力を腕へ流し、意志によって形を与える。

 

 新聞の端が僅かに揺れた。

 

 それだけだった。

 

「……先は長いな」

 

 杖なし魔法そのものは、魔法使いでも使用できる。

 

 ただし難易度が高い。

 

 ほとんどの魔法使いは、幼少期の偶発魔法を除けば杖に依存している。杖は魔力を収束し、呪文に方向性を与える優れた道具だ。

 

 闇払い局長まで務めたハリーも、簡単な呪文であれば杖なしで使えた。

 

 物を引き寄せる。

 

 扉を閉める。

 

 拘束具を外す。

 

 その程度ならば可能だった。

 

 だが、戦闘で自在に扱えるほどではない。

 

 ハリーが目指しているのは、魔法使いの杖なし魔法ではなかった。

 

 屋敷しもべ妖精の魔法。

 

 彼らは杖を使わない。

 

 ホグワーツの結界内でも姿現しができる。

 

 魔法使いが当然のものとして受け入れている制約を、平然と無視する。

 

 ドビー。

 

 クリーチャー。

 

 ウィンキー。

 

 彼らの魔法を、ハリーは何度も見てきた。

 

 晩年には研究者へ協力を求めたこともあったが、屋敷しもべ妖精の魔法は彼らの種族固有のものだという結論が一般的だった。

 

 しかし、本当にそうだろうか。

 

 魔法使いが学ぼうとしてこなかっただけではないか。

 

 妖精を見下し、命令するだけの存在だと思い込んでいたから、その技術を体系化しようとしなかっただけなのではないか。

 

 今のハリーには、時間がある。

 

 教師もいる。

 

 ホグワーツの厨房には、大勢の屋敷しもべ妖精がいる。

 

 問題は、入学するまで会えないことだった。

 

「今できることをするしかないか」

 

 ハリーは新聞を元の場所へ戻した。

 

 時計を見る。

 

 もうすぐペチュニアが起きてくる。

 

 その後、バーノンが起きる。

 

 ダドリーは最後だ。

 

 一度目の人生では、ハリーはダーズリー家を憎んでいた。

 

 それは当然だったと思う。

 

 彼らはハリーを階段下物置へ押し込み、ろくな食事も与えず、ダドリーのいじめを黙認し、異常なほど魔法を嫌悪していた。

 

 擁護するつもりはない。

 

 子供を物置に住まわせることは、どんな事情があっても許される行為ではない。

 

 しかし、長い人生を経験した今、見え方が変わった部分もあった。

 

 ペチュニアは、姉への劣等感と嫉妬を抱えていた。

 

 バーノンは、理解できないものを極端に恐れる人間だった。

 

 そして二人は、ある日突然、玄関先に赤ん坊を置かれた。

 

 説明は手紙一枚。

 

 その赤ん坊は、感情が昂るたびに常識では説明できない現象を起こす。

 

 髪を切れば一晩で元に戻る。

 

 逃げようとすれば屋根へ瞬間移動する。

 

 怒れば物が壊れる。

 

 魔法の存在を知らない人間にとっては、恐怖以外の何物でもない。

 

 もちろん、それで虐待が正当化されるわけではない。

 

 ないのだが。

 

「僕も、もう少しやり方があったかもしれないな」

 

 ハリーは小さく息を吐いた。

 

 十一歳の子供に、そこまで求めるのは酷だった。

 

 だが今は、中身だけなら老人である。

 

 真正面から反抗し、互いに意地を張り合う必要はない。

 

 バーノンが欲しがるのは、家庭内の秩序だ。

 

 ペチュニアが欲しがるのは、ご近所からの評価だ。

 

 ダドリーが欲しがるのは、菓子と称賛と、自分が一番であるという安心感。

 

 扱い方さえ分かれば、どうとでもなる。

 

「仲良く、か」

 

 自分で口にして、少し気味が悪かった。

 

 ダーズリー家と仲良くする。

 

 一度目のハリーが聞けば、間違いなく正気を疑うだろう。

 

 だが、敵対し続ける意味はない。

 

 これから毎年、夏休みにはこの家へ戻ってくる可能性が高い。

 

 母の守りを維持するためだ。

 

 ならば、最低限暮らしやすい環境にした方がいい。

 

 魔法界へ戻るまで、あと一か月ほど。

 

 その間に信用を稼ぐ。

 

 手紙を確保する。

 

 できれば、あの無駄な逃亡旅行も回避する。

 

 岩礁の上の小屋で誕生日を迎える趣味は、二度目の人生にはなかった。

 

 廊下から足音が聞こえた。

 

 ハリーは椅子から立ち上がる。

 

 扉が開き、ペチュニア・ダーズリーが台所へ入ってきた。

 

 痩せた身体。

 

 長い首。

 

 神経質そうに結ばれた口元。

 

 一度目の人生より、ずっと若い。

 

 ハリーの記憶にある晩年のペチュニアは、病気がちで、ダドリーの家族写真を見ながら静かに紅茶を飲む老婆だった。

 

 目の前にいるのは、まだ四十歳にもなっていない。

 

 ペチュニアは台所にいるハリーを見ると、眉を吊り上げた。

 

「何をしているの」

 

 懐かしい声だった。

 

 優しさはない。

 

 だが、懐かしい。

 

「おはようございます、ペチュニア叔母さん」

 

 ハリーは言った。

 

 ペチュニアが動きを止めた。

 

「……何ですって?」

 

「おはようございます」

 

「それは聞こえたわ」

 

 ペチュニアは疑わしそうにハリーを見た。

 

「どうして、こんな時間に起きているの」

 

「朝食の準備を手伝おうと思って」

 

「あなたが?」

 

「はい」

 

「なぜ?」

 

「家に住まわせてもらっているので、それくらいはしようかと」

 

 ペチュニアは答えなかった。

 

 ハリーの額に角でも生えていないか確認するような目をしている。

 

「何を企んでいるの」

 

「何も」

 

「嘘おっしゃい」

 

「本当です」

 

 ハリーは戸棚を見た。

 

「ベーコンと卵でいいですか?」

 

「触らないで!」

 

 鋭い声が飛んだ。

 

 ハリーは即座に手を引いた。

 

「分かりました」

 

 反論しない。

 

 睨まない。

 

 拗ねない。

 

 闇払い局で何百回も行った、敵意を持つ相手との交渉を思い出す。

 

 相手の縄張りで、勝手に物へ触れてはいけない。

 

 まずは警戒心を下げる。

 

「それなら、テーブルを拭きます」

 

「必要ありません」

 

「分かりました」

 

 ハリーは素直に椅子へ座った。

 

 ペチュニアはそれが余計に不気味だったらしい。

 

 何度も振り返りながら朝食を作り始めた。

 

 やがてバーノンが起きてきた。

 

 大柄な身体。

 

 立派な口髭。

 

 まだ白髪はない。

 

 ハリーを見るなり、露骨に顔をしかめる。

 

「なぜ、こいつが座っている」

 

「私にも分からないわ」

 

「何かしたのか?」

 

「していません」

 

 ハリーが答えると、バーノンは目を細めた。

 

「聞いていない」

 

「失礼しました」

 

 ハリーは黙った。

 

 バーノンの顔に、僅かな困惑が浮かぶ。

 

 これまでのハリーなら、不満そうな顔をするか、少なくとも黙って睨んだだろう。

 

「今日の予定は?」

 

 バーノンがペチュニアへ尋ねる。

 

「ダドちゃんの制服を受け取りに行くの。その後はスーパーへ」

 

「庭の手入れが残っていたな」

 

「僕がやります」

 

 ハリーは言った。

 

 バーノンが振り向く。

 

「お前が?」

 

「はい。芝を刈って、生垣も整えておきます」

 

「また何か壊すつもりじゃないだろうな」

 

「壊しません」

 

 事故で物を壊した記憶はあった。

 

 意図的ではなかったが、バーノンから見れば同じことだろう。

 

「道具の使い方は分かるのか?」

 

「教えていただければ」

 

 バーノンは口を開きかけ、閉じた。

 

 奇妙な沈黙が落ちた。

 

 ほどなくしてダドリーが階段を踏み鳴らしながら降りてきた。

 

 丸々と太り、金髪で、両親に甘やかされ切った少年。

 

 ハリーはダドリーを見つめた。

 

 一度目の人生では、嫌な少年だった。

 

 だが、成人後のダドリーは変わった。

 

 魔法界の戦争が終わって何年も経った頃、ぎこちない手紙を送ってきた。

 

 その後、互いの家族を連れて何度か会った。

 

 最後まで魔法を怖がってはいたが、ハリーの子供たちへ誕生日プレゼントを送る程度には関係を修復できていた。

 

「何見てんだよ」

 

 少年のダドリーが言った。

 

「何でもないよ」

 

「気持ち悪いな」

 

「そうかもしれない」

 

 ハリーは否定しなかった。

 

 今の自分の中身を知れば、確かに気持ち悪いだろう。

 

 八十歳を超えた老人が、十一歳の身体に入っている。

 

 ダドリーは反応に困った様子で席についた。

 

 朝食が始まる。

 

 ハリーは出された少量のパンと卵を食べた。

 

 一度目なら、ダドリーの皿に山盛りにされたベーコンを見て腹を立てていただろう。

 

 今は違う。

 

 食料を巡って子供と張り合うほど若くない。

 

「ダドリー」

 

 ハリーは呼びかけた。

 

「何だよ」

 

「そのベーコン、一枚くれないか」

 

「やだね」

 

「代わりに、今日の宿題を手伝う」

 

 ダドリーの手が止まった。

 

「宿題?」

 

「夏休みの算数。まだ残ってるだろ」

 

「な、なんで知ってるんだよ」

 

「昨日、机の上に置いてあったから」

 

 実際には、一度目の記憶から知っている。

 

「やってくれるのか?」

 

「答えを全部書くのは駄目だ。やり方は教える」

 

「じゃあ、いらない」

 

「そうか」

 

 ハリーはあっさり引いた。

 

 ダドリーはベーコンを口へ運ぼうとした。

 

 途中で止めた。

 

「……二枚やるから、答えも教えろ」

 

「一枚で、三問だけ答えを教える」

 

「十問」

 

「四問」

 

「八問」

 

「五問」

 

「七問」

 

「六問」

 

「分かった」

 

 ダドリーがベーコンを一枚、ハリーの皿へ放った。

 

 バーノンとペチュニアは、信じられないものを見るように二人を見ていた。

 

 交渉成立。

 

 ハリーはベーコンを食べた。

 

 闇の魔法使いとの取引より、ずっと簡単だった。

 

 その日から、ハリーは少しずつ行動を変えた。

 

 朝は早く起きた。

 

 言われる前に庭仕事をした。

 

 ペチュニアが買い物へ行くときには荷物を持った。

 

 ダドリーには勉強を教えた。

 

 ただし、完全に従順な子供を演じるつもりはなかった。

 

 理不尽な命令には、理由を尋ねた。

 

 危険なことは断った。

 

 食事があまりに少なければ、静かに追加を求めた。

 

 一度目のハリーは感情的に反発し、バーノンは怒鳴り、ペチュニアは罰を与えた。

 

 今回は違う。

 

「今日は庭仕事を三時間しました。夕食をもう少しいただけますか」

 

「生意気を言うな!」

 

「生意気ではありません。成長期の子供に必要な食事量について、学校で習いました」

 

「お前の学校はそんなことを教えるのか!」

 

「保健の授業です」

 

「……ペチュニア!」

 

「何よ」

 

「こいつにパンをもう一枚やれ!」

 

 結果として、食事は少し増えた。

 

 寝床についても交渉した。

 

「階段下物置は狭すぎます」

 

「今さら何だ!」

 

「腰を痛めます」

 

「子供が腰を痛めるものか!」

 

「すでに痛いです」

 

「嘘をつくな!」

 

「必要なら医者へ行きます」

 

 医者という言葉を出すと、ペチュニアの顔色が変わった。

 

 医者が階段下物置を見れば、ご近所へ何を言われるか分からない。

 

 その日のうちに、ハリーはダドリーの二つある寝室のうち、小さい方へ移された。

 

 バーノンは最後まで不満そうだった。

 

 ダドリーは癇癪を起こした。

 

 それでも、一度目より五日早く個室を得た。

 

 大人の知識は便利だった。

 

 魔法の訓練も続けた。

 

 庭仕事の最中。

 

 就寝前。

 

 誰も見ていない時間を選び、物を動かそうとする。

 

 最初は紙一枚。

 

 次に鉛筆。

 

 小石。

 

 スプーン。

 

 魔力の感覚は確かにある。

 

 長い人生で磨いた技術も、完全に消えてはいない。

 

 だが、身体が追いつかない。

 

 強引に魔力を流すと、頭痛がした。

 

 腕が痺れることもあった。

 

 訓練を始めて三日目、ようやく鉛筆が机の上を数センチ転がった。

 

 ハリーは満足しなかった。

 

 ヴォルデモートに鉛筆を転がして勝てるとは思えない。

 

 それでも、焦りは禁物だった。

 

 魔力経路が未発達な状態で無理をすれば、かえって成長を阻害する可能性がある。

 

 子供の身体を使うのは初めてだ。

 

 訓練方法も調整しなくてはならない。

 

 七月二十四日。

 

 最初の手紙が届いた。

 

 朝食の席で、郵便受けから音がした。

 

 バーノンが新聞を取りに行く。

 

 ハリーは紅茶を飲みながら待った。

 

 心臓が少しだけ早くなっていた。

 

 何十年経っても、この瞬間は特別らしい。

 

 バーノンが封筒を持って戻ってきた。

 

 黄ばんだ羊皮紙。

 

 エメラルド色のインク。

 

 宛名は正確だった。

 

 サレー州、リトル・ウィンジング、プリベット通り四番地。

 

 二階、小さい方の寝室。

 

 ハリー・ポッター様。

 

 バーノンの顔色が変わった。

 

 ペチュニアが封筒を見た。

 

 手にしていたフォークを落とした。

 

「それは僕宛てですね」

 

 ハリーは言った。

 

 バーノンは封筒を背中へ隠した。

 

「違う」

 

「宛名を読みました」

 

「お前には関係ない!」

 

「僕宛てなのに?」

 

「これは間違いだ!」

 

「住所も部屋も合っています」

 

「いいから黙れ!」

 

 バーノンの声が台所へ響いた。

 

 一度目のハリーなら、ここで食い下がっただろう。

 

 手紙を奪おうとしたかもしれない。

 

 今回はしない。

 

 ハリーは椅子から立ち上がった。

 

「分かりました」

 

「何?」

 

「今日は諦めます」

 

 バーノンは、かえって不安そうな顔になった。

 

 ハリーは台所を出た。

 

 自室へ戻る。

 

 扉を閉める。

 

 そして笑った。

 

「さて」

 

 手紙は一通では終わらない。

 

 ホグワーツは、妙なところで執念深い。

 

 翌日も届いた。

 

 その次の日も。

 

 バーノンは郵便受けを塞いだ。

 

 煙突から届いた。

 

 窓を閉めた。

 

 隙間から入ってきた。

 

 手紙の数が増えるにつれ、バーノンの精神状態は悪化した。

 

 一度目と同じだ。

 

 ただし今回は、ハリーが騒がない。

 

 手紙を追いかけない。

 

 奪おうともしない。

 

 静かに朝食を食べ、庭仕事をし、ダドリーに算数を教えている。

 

 それがバーノンには、何より不気味だったらしい。

 

「なぜ平気な顔をしている!」

 

 七月二十七日の夜、バーノンが怒鳴った。

 

「何がですか?」

 

「あの手紙だ!」

 

「僕に見せてくれないので、中身が分かりません」

 

「知っているんだろう!」

 

「何を?」

 

「異常な連中のことだ!」

 

 ペチュニアが息を呑んだ。

 

 ハリーは表情を変えなかった。

 

「魔法使いのことですか」

 

 部屋が静まり返った。

 

 バーノンの顔が真っ赤になる。

 

 ペチュニアは青ざめた。

 

 ダドリーは意味が分からず、両親を見比べている。

 

「その言葉を、この家で口にするな!」

 

 バーノンが叫んだ。

 

「では、話し合いましょう」

 

「何?」

 

「怒鳴っても手紙は止まりません」

 

 バーノンは口を閉じた。

 

「逃げても追ってきます。家を離れても、おそらく同じです」

 

「どうして分かる!」

 

「これだけ正確に部屋まで把握している相手です。移動先を調べるのも難しくないでしょう」

 

 実際、その通りだった。

 

「手紙を一通渡してください。内容を確認します。その上で、必要な対応をします」

 

「絶対に渡さん!」

 

「では、手紙は増え続けます」

 

「燃やす!」

 

「さらに増えます」

 

「黙れ!」

 

「僕は手紙の送り主と話をします。バーノン叔父さんたちには迷惑をかけません」

 

「すでに迷惑だ!」

 

「だから解決します」

 

 ハリーは真っ直ぐバーノンを見た。

 

 子供の目ではなかった。

 

 長年、部下を率い、殺人犯を尋問し、魔法省の官僚と渡り合ってきた男の目だった。

 

 バーノンは僅かに身を引いた。

 

「僕が普通ではないことを、二人とも知っているでしょう」

 

 ペチュニアの肩が震えた。

 

「ですが、僕はここで暴れたいわけではありません。お二人の生活を壊したいわけでもない。学校へ行き、必要なことを学び、休暇が終われば戻る。それだけです」

 

「戻ってくるですって?」

 

 ペチュニアが初めて口を挟んだ。

 

「おそらく」

 

 血の守りを考えれば、戻らなくてはならない。

 

「安心してください。以前より静かに過ごします」

 

「以前より?」

 

「言葉の綾です」

 

 ハリーは続けた。

 

「手紙をください」

 

 長い沈黙があった。

 

 バーノンはハリーを睨みつけた。

 

 ハリーも目を逸らさなかった。

 

 最後に折れたのは、バーノンだった。

 

「一通だけだ」

 

「ありがとうございます」

 

「おかしな真似をしたら、すぐ取り上げる!」

 

「分かりました」

 

 バーノンは戸棚の奥から手紙を取り出した。

 

 封は切られている。

 

 一度目と同じく、先に読んだらしい。

 

 ハリーは受け取った。

 

 校章を見る。

 

 獅子。

 

 鷲。

 

 穴熊。

 

 蛇。

 

 その中央に、大きなH。

 

 指先で封筒を撫でる。

 

 懐かしさが込み上げた。

 

 ホグワーツ。

 

 自分にとって、初めて家と呼べた場所。

 

 多くの幸せを得た場所。

 

 そして、多くの者を失った場所。

 

 ハリーは手紙を開いた。

 

 内容は記憶通りだった。

 

 ホグワーツ魔法魔術学校への入学許可。

 

 必要な教科書と道具の一覧。

 

 七月三十一日までに返事を求める文章。

 

「行くのか」

 

 バーノンが低い声で言った。

 

「はい」

 

「許さん」

 

「僕の両親も通っていた学校です」

 

「だから何だ!」

 

「僕には、学ぶ権利があります」

 

「ここでは普通の学校へ行け!」

 

「普通の学校では、魔法の制御方法を学べません」

 

 その言葉に、ペチュニアが反応した。

 

 ハリーは見逃さなかった。

 

「制御できないまま成長する方が、危険です」

 

「危険?」

 

「今までも、おかしなことが起きたでしょう」

 

 髪。

 

 屋根。

 

 動物園。

 

 ペチュニアは唇を固く結んだ。

 

「訓練を受ければ、無意識に起こる魔法を抑えられます」

 

 完全な嘘ではない。

 

「この家で妙なことを起こさなくなるのか」

 

 バーノンが尋ねた。

 

「その可能性は高いです」

 

 バーノンとペチュニアが顔を見合わせた。

 

 彼らにとって、これは大きな利点だった。

 

「ただし、準備が必要です」

 

 ハリーは手紙を持ち上げた。

 

「教科書や杖を購入しなくてはなりません」

 

「金は出さんぞ!」

 

「両親の遺産があるはずです」

 

 ペチュニアの目が見開かれた。

 

「なぜ、それを」

 

「魔法使いの家庭なら、何らかの財産が残されていると考えるのが自然です」

 

 一度目の自分なら、そんな発想はなかった。

 

「学校から説明に来てもらいます」

 

「ここへ呼ぶ気か!」

 

「そのために返事を書きます」

 

「駄目だ!」

 

「安心してください」

 

 ハリーは穏やかに言った。

 

「こちらの事情を伝えます」

 

 ハリーは便箋を求めた。

 

 当然、バーノンは嫌がった。

 

 だが、これ以上手紙が増えることと、誰かが突然訪ねてくる可能性を説明すると、渋々紙と封筒を渡した。

 

 ハリーは食卓へ座る。

 

 ペンを取る。

 

 何と書くべきか少し迷った。

 

 ホグワーツへ入学する意思はある。

 

 買い物の案内も必要だ。

 

 だが、一つだけ避けたいことがある。

 

 ハグリッド。

 

 友人としては好きだった。

 

 心優しく、忠実で、勇敢だった。

 

 ハリーの人生において、最も大切な人物の一人であることは間違いない。

 

 しかし、入学案内の担当者として適任かと問われれば、答えは否だった。

 

 銃を折る。

 

 扉を壊す。

 

 ダドリーに豚の尻尾を生やす。

 

 魔法界の常識をほとんど説明しない。

 

 そして、十一歳の子供を一人で駅に残す。

 

 好意を差し引いても、かなり問題がある。

 

 今回は、岩礁の小屋へ逃げる予定はない。

 

 それでも、念には念を入れておくべきだ。

 

 ハリーは文章を書き始めた。

 

『ホグワーツ魔法魔術学校 入学担当者様』

 

 ペン先が紙の上を走る。

 

『入学許可のご連絡をいただき、ありがとうございます。入学を希望します。

 

 私は魔法界について十分な説明を受けておらず、必要な物品の購入方法も分かりません。保護者も魔法について不安を感じています。

 

 つきましては、魔法界と学校について説明できる方を一名、派遣していただけないでしょうか。

 

 なお、保護者を刺激しないよう、一般的なマグルの服装ができ、玄関や家具を壊さず、動物を無断で変身させたりしない、常識的な方を希望します。

 

 また、大柄すぎず、可能であれば声量を調整できる方でお願いいたします。

 

 ハリー・ポッター』

 

 書き終えた。

 

 読み返す。

 

 問題はない。

 

 失礼かもしれないが、必要な条件だった。

 

「何と書いた?」

 

 バーノンが尋ねた。

 

「常識のある方に来てほしいと」

 

「連中に常識などあるものか!」

 

 珍しく、完全には否定できなかった。

 

「希望は伝えました」

 

「どうやって送るつもりだ」

 

 その瞬間、窓を叩く音がした。

 

 全員が振り向く。

 

 一羽のふくろうが、窓の外に止まっていた。

 

 バーノンが呻いた。

 

 ペチュニアが口元を押さえる。

 

 ダドリーは椅子から転げ落ちそうになった。

 

 ハリーは窓を開けた。

 

 ふくろうは当然のように腕へ乗る。

 

「頼む」

 

 封筒を脚へ結びつける。

 

 ふくろうは飛び立った。

 

 夜空へ消えていく。

 

「これで大丈夫です」

 

 ハリーは窓を閉めた。

 

「本当に来るのか」

 

 ペチュニアが不安そうに言った。

 

「おそらく」

 

「いつだ?」

 

「返事次第です」

 

 実際には、明日か明後日だろう。

 

 ホグワーツの対応速度は、こういうときだけ異様に早い。

 

 その夜、ハリーは自室で訓練を続けた。

 

 机の上に置いた羽根へ手を向ける。

 

 集中。

 

 魔力を細く流す。

 

 羽根が震えた。

 

 ゆっくりと浮かび上がる。

 

 一センチ。

 

 二センチ。

 

 そこで魔力が途切れ、羽根が落ちた。

 

「まだまだだ」

 

 ハリーは額の汗を拭った。

 

 時間はある。

 

 焦る必要はない。

 

 ホグワーツへ行けば、杖を手に入れられる。

 

 厨房へ行けば、屋敷しもべ妖精と接触できる。

 

 必要の部屋も使える。

 

 禁書の場所も知っている。

 

 ヴォルデモートは、クィレルの後頭部に寄生している。

 

 賢者の石を狙っている。

 

 まだ弱い。

 

 まだ、自分で杖を持つことさえできない。

 

 今のうちに力を蓄える。

 

 今度は誰も死なせない。

 

 セドリックも。

 

 シリウスも。

 

 ダンブルドアも。

 

 フレッドも。

 

 リーマスも。

 

 トンクスも。

 

 スネイプも。

 

 可能な限り、全員を救う。

 

 そのために、未来の流れを維持しながら、危険だけを取り除く。

 

「難しい仕事になりそうだ」

 

 闇払い局長時代でも、これほど厄介な案件はなかった。

 

 だが、やるしかない。

 

 ハリーはベッドへ入った。

 

 何十年ぶりかの、柔らかな身体。

 

 何十年ぶりかの、若い心臓の鼓動。

 

 眠りに落ちる直前、奇妙な感覚があった。

 

 恐怖ではない。

 

 希望とも少し違う。

 

 戦いを前にしたときの、静かな高揚。

 

 翌朝。

 

 午前九時きっかり。

 

 プリベット通り四番地の玄関が、三度叩かれた。

 

 乱暴な音ではない。

 

 扉が壊れそうな音でもない。

 

 一定の間隔を置いた、礼儀正しいノックだった。

 

 バーノンが新聞を下ろす。

 

 ペチュニアが窓から外を覗く。

 

「女の人よ」

 

「どんな?」

 

「背が高くて……灰色の服を着てるわ」

 

 ハリーは紅茶を置いた。

 

 立ち上がる。

 

 胸の奥に、ほんの少しだけ懐かしさが込み上げた。

 

 灰色のスーツ。

 

 きっちりまとめられた黒髪。

 

 四角い眼鏡。

 

 ホグワーツが、本当に常識人を寄越したらしい。

 

 扉の向こうから、厳格な女性の声が聞こえた。

 

「ホグワーツ魔法魔術学校より参りました。ハリー・ポッターさんへの入学案内です」

 

 ハリーは小さく笑った。

 

「お久しぶりです、先生」

 

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 二度目のホグワーツが、始まろうとしていた。

 

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