2年目 地図の上の死人
トム・リドルの日記を回収したことで、ハリーの夏休みにおける最大の目的は達成された。
少なくとも、当初の予定ではそうだった。
日記は現在、ホグワーツの校長室にある。
スネイプが作った封印箱へ収められ、ダンブルドアが管理している。
ジニー・ウィーズリーの手に渡ることはない。
秘密の部屋が開かれ、生徒たちが石にされる未来も、ひとまず回避できた。
その点だけを見れば、順調だった。
ただし、問題が一つある。
ダンブルドアが、日記をすぐに破壊しなかった。
「調べる必要がある」
校長はそう言った。
日記の中にいるトム・リドルから、他の分霊箱について情報を引き出せる可能性がある。
その判断自体は間違っていない。
ハリーも、最初は同意した。
分霊箱がどのように作られたのか。
いつ、何を器として選んだのか。
本人から聞き出せるなら、それに越したことはない。
だが、相手はトム・リドルだ。
十六歳の時点ですでに、教師や同級生を欺き、秘密の部屋を開き、他人へ罪を着せることができた。
孤児院にいた頃から、人を操る方法を理解している。
そんな相手と、罪悪感の強い老人を長時間会話させる。
冷静に考えると、かなり危険だった。
「大丈夫か、あの爺さん」
プリベット通り四番地。
二階の自室で、ハリーは呟いた。
机の上には、ダンブルドアから届いた手紙がある。
日記の封印は維持されている。
短時間の会話を数度行った。
リドルは自分が何者であるかを理解していない様子を見せている。
引き続き慎重に調査する。
そう書かれていた。
文面だけなら問題はない。
問題があるとすれば、ダンブルドアが「自分ならトムを理解できる」と思っている可能性だった。
前の人生でも、ダンブルドアはヴォルデモートを誰より深く理解していた。
同時に、最後まで「別の道を選ぶ可能性」を完全には捨てていなかった。
それは彼の美徳でもある。
そして、致命的な弱点でもある。
「悪霊の炎で焼けば済む話なんだけどな」
ハリー自身も悪霊の炎を扱える。
闇払い局長時代、破壊困難な呪物を処理するために習得した。
ただし、危険性が高い。
一度制御を失えば、使用者を含めて周囲を焼き尽くす。
今の身体と魔力で使うには、まだ準備が必要だった。
秘密の部屋にあるバジリスクの牙を使う方が安全だろう。
いずれにせよ、日記をいつまでも残す気はない。
ダンブルドアには期限を決めさせる必要がある。
「その前に」
ハリーは机の引き出しを開けた。
古びた羊皮紙を取り出す。
足跡の地図。
ホグワーツの敷地内にいる者の位置を、名前と共に表示する魔法道具。
夏休み中の今は、ほとんどの生徒が城にいない。
地図を開いても、教師や残っている妖精たちの名前しか見えない。
しかし、ハリーが見たい名前は、地図の中にはなかった。
「ピーター・ペティグリュー」
現在、彼は隠れ穴にいる。
ロン・ウィーズリーの飼い鼠、スキャバーズとして。
一度目の人生では、三年目にその正体が発覚した。
シリウス。
リーマス。
スネイプ。
そしてハリーたち。
全員が揃った叫びの屋敷で、真実が明らかになった。
ピーターは生きていた。
ポッター家をヴォルデモートへ売ったのは、シリウスではない。
シリウスへ罪を着せ、自分の指一本だけを残して逃げた。
十二年間、鼠の姿でウィーズリー家へ潜伏していた。
その後、取り逃がした。
ピーターはヴォルデモートのもとへ戻り、肉体を再生させる手助けをした。
セドリックが死んだ墓地にもいた。
ヴォルデモートのために、自分の右手を切り落とした。
ハリーは椅子へ深く座り直す。
「殺すか」
誰も聞いていない部屋で、静かに口にする。
今ならできる。
ピーターが生きていることを知っているのは、ハリーだけだ。
少なくとも、ウィーズリー家の者たちは知らない。
鼠を連れ出す。
誰にも見つからない場所で人間へ戻す。
殺す。
遺体を処分する。
それで終わる。
ヴォルデモート復活の重要な協力者が一人消える。
ピーターがいなければ、ヴォルデモートはバーサ・ジョーキンズを捕らえられないかもしれない。
バーティ・クラウチ・ジュニアを解放できない。
ハリーを三大魔法学校対抗試合へ参加させる計画も生まれない。
墓地での復活も、大幅に遅れる。
合理性だけを考えれば、殺した方がいい。
ピーターはすでに多くの人間を死なせている。
今後も生かしておけば、碌なことをしない。
前世で十分に証明された。
「問題はシリウスだ」
ピーターを人知れず始末すれば、シリウスの無実を証明する機会も消える。
ブラック家最後の後継者。
ハリーの名付け親。
ジェームズの親友。
二十代前半から三十代半ばまでという、人生で最も重要な時期を、アズカバンで過ごした男。
裁判すら受けていない。
ダンブルドアを含め、誰も本気で真相を確かめようとしなかった。
「どれだけ運が悪いんだ、あの人」
名門ブラック家に生まれた。
しかし、家族とは思想が合わず、十六歳で家出。
親友の家へ身を寄せた。
その親友夫婦を殺される。
裏切り者を追い詰めたと思ったら、逆に大量殺人の罪を着せられる。
裁判なしでアズカバン送り。
十二年後に脱獄しても、無実は証明されない。
隠れ家へ閉じ込められる。
最後は、従姉妹の呪文を受けて死のアーチへ落ちた。
災難という言葉では足りない。
ピーターの悪運が強いというより、シリウスの不運が強すぎるのではないか。
ハリーは真剣に考えた。
「ブラック家に、代々何か掛かってるんじゃないだろうな」
あり得ないとは言い切れない。
あの家には、闇の魔法道具が多い。
先祖の誰かが、運勢へ干渉する呪物を持ち込んでいても不思議ではなかった。
ハリーは頭を振る。
問題を分ける。
シリウスを救う。
ピーターを無力化する。
二つとも必要だ。
殺さずに捕らえ、逃亡できない状態で拘束する。
法廷で証言させる。
シリウスの無実を証明した後で、二度と逃げられない場所へ収監する。
言葉にすれば簡単だ。
実際には難しい。
ピーターはアニメーガス。
しかも鼠。
普通の牢屋なら、僅かな隙間から脱出できる。
アズカバンへ送ったとしても安心できない。
吸魂鬼は、人間と鼠を見分けられるのか。
そもそも、アニメーガス状態の囚人をどのように管理するのか。
前例を調べる必要がある。
「変身を封じた上で拘束するしかないな」
魔法省には、違法アニメーガスを捕らえるための道具がある。
闇払い局長時代に何度も使った。
強制的な人間化。
再変身を防ぐ首輪。
魔力抑制。
問題は、今のハリーがそれらを持っていないことだった。
作れる人物には心当たりがある。
ダンブルドア。
マクゴナガル。
スネイプ。
三人とも、すでに未来の記憶について知っている。
協力を求めるなら、今が最も自然だった。
「今度こそ頼むぞ、ダンブルドア」
一度目の人生でも、ダンブルドアがもう少し強引に動けば、シリウスの無罪を証明できた可能性はある。
ピーターを取り逃がした後でも、ハリーとハーマイオニーの証言はあった。
リーマスもいた。
スネイプは意識を失っていたが、叫びの屋敷でピーターを見ている。
それでも、魔法省を正面から動かすことはできなかった。
ファッジが聞く耳を持たなかった事情はある。
証拠が弱かったのも事実だ。
しかし、ハリーから見れば、肝心なところで一歩足りない。
今回は、逃げられない証拠を用意する。
生きたピーター本人。
杖の履歴。
秘密の守人の魔法契約。
必要なら、記憶を憂いの篩へ提出する。
これだけ揃えて無罪を勝ち取れないなら、ウィゼンガモットごと作り直すしかない。
ハリーは便箋を取り出した。
最初の宛先はダンブルドア。
ピーター・ペティグリューが生きている。
ウィーズリー家で鼠に化けている。
シリウス・ブラックは無実。
捕縛には教師陣と魔法省の信頼できる人物が必要。
簡潔に記す。
次に、ロンへ手紙を書く。
こちらは慎重に言葉を選んだ。
スキャバーズの体調について尋ねる。
最近、逃げようとしたことはないか。
夏休み中、誰にも貸さず、家の外へ出さないよう伝える。
理由を聞かれるだろう。
手紙には書けない。
数日以内に隠れ穴を訪ねたいと付け加えた。
最後に、スネイプへ。
『鼠を捕まえる道具が必要です』
それだけ書こうとして、やめた。
説明が足りなさすぎる。
『違法アニメーガスを強制的に人間へ戻し、再変身を防ぐ道具を用意できますか。対象はピーター・ペティグリューです』
これなら通じる。
手紙を三通用意し、窓を開ける。
ダンブルドアから借りた梟が、庭木から飛んできた。
「頼む」
三通を脚へ結ぶ。
梟は夜空へ飛び立った。
返事は、予想以上に早かった。
翌日の朝食中。
台所の窓を、三羽の梟が同時に叩いた。
ペチュニアが悲鳴を上げる。
バーノンは椅子から立ち上がった。
「何羽呼んだ!」
「呼んだのは一羽です」
「三羽いるぞ!」
「返事が三通来ました」
「郵便というものは、一度にまとめて送るものだ!」
「送り主が違うので」
「外で読め!」
ハリーは梟たちを庭へ連れ出した。
一通目。
ロン。
『スキャバーズはいる。最近ちょっと痩せた。パーシーの部屋へ逃げ込んだり、物置に隠れたりしてる。母さんが、ハリーならいつでも遊びに来ていいって。何でスキャバーズを気にしてるんだ?』
ピーターは警戒している。
ハリーが一年目でヴォルデモートを退けた噂を聞いたのかもしれない。
あるいは、単に猫のいない場所を探しているだけか。
二通目。
スネイプ。
『用意できる。単独で動くな。校長の指示を待て』
簡潔だった。
三通目。
ダンブルドア。
『明日の午後、迎えを寄越す。詳しい話はホグワーツで行おう。ウィーズリー家へは、まだ何も伝えないように』
迎え。
誰が来るかは書かれていない。
翌日。
午後二時。
プリベット通り四番地の玄関が叩かれた。
バーノンが扉を開ける。
外には、灰色のマグル服を着たマクゴナガルが立っていた。
「またあなたか」
「お久しぶりです、ダーズリーさん」
「こいつをどこへ連れていく」
「学校で、夏季の補習を行います」
ハリーはマクゴナガルを見た。
補習。
完全な嘘ではないかもしれないが、かなり苦しい。
「こいつは成績が悪いのか?」
「学力ではなく、特別指導です」
「問題を起こしたのか?」
「これから起こさないための指導です」
こちらは完全に正しかった。
バーノンは納得したように頷いた。
「厳しくやってくれ」
「そのつもりです」
ハリーは準備していた鞄を持つ。
「数日で戻ります」
「戻ってこなくても構わん」
「月末までは戻ります」
母の守りを維持するため、プリベット通りには戻る必要がある。
玄関を出る。
マクゴナガルは角を曲がるまで何も言わなかった。
「補習ですか?」
ハリーが尋ねる。
「あなたには必要です」
「どの教科の?」
「規則を守るという科目です」
「合格できる気がしません」
「でしょうね」
二人は人気のない場所へ移動した。
マクゴナガルがハリーの腕を取る。
「これからホグワーツへ戻ります」
「姿現しで?」
「学校の外までです」
「気分が悪くなるので、先に言ってください」
「今、言いました」
空間が圧縮される。
次の瞬間、ハリーはホグズミード近郊に立っていた。
前回、スネイプに連れられた時よりは慣れた。
それでも気分はよくない。
城へ到着すると、校長室にはダンブルドア、スネイプ、そして見知らぬ女性が待っていた。
短く切り揃えられた髪。
四角い顎。
厳しい表情。
胸元には魔法省の紋章。
「アメリア・ボーンズじゃ」
ダンブルドアが紹介する。
「魔法法執行部の部長を務めておる」
ハリーは僅かに驚いた。
未来では、ヴォルデモート本人に殺された。
公正で、優秀な魔女だった。
魔法省の中で信頼できる人物を選ぶなら、確かに適任だ。
「ハリー・ポッターです」
「知っている」
アメリアはハリーを見た。
「アルバスから、驚くべき話を聞かされた」
「どこまで?」
「ピーター・ペティグリューが生きていること。鼠の姿でウィーズリー家へ潜伏していること。シリウス・ブラックが無実である可能性」
「未来の記憶については?」
「聞いていない」
ダンブルドアを見る。
彼は約束通り、共有する情報を絞ったらしい。
「証拠はあるのか?」
アメリアが尋ねる。
「足跡の地図です」
ハリーは羊皮紙を取り出した。
ただし、今はピーターがホグワーツにいないため、名前は表示されない。
「ウィーズリー家へ持っていけば、ピーターの名が出ます」
「その地図が正確だという証明は?」
「ダンブルドア先生なら、作成者の魔法を調べられます」
「すでに確認した」
ダンブルドアが答える。
「完全ではないが、名前について虚偽を表示する仕組みではないと考えてよい」
「鼠がピーター本人である証明にはならない」
「捕まえれば分かります」
「どうやって?」
スネイプが机へ小さな金属の輪を置いた。
首輪。
表面に細かな文字が刻まれている。
「対象を人間へ戻し、再変身を封じる」
「抵抗された場合は?」
アメリアが尋ねる。
「私とミネルバ、そして校長が同行する」
スネイプが答えた。
「逃げる余地はない」
「僕も行きます」
「お前は行かん」
「鼠の見分けがつくのは僕です」
「地図がある」
「ピーターの性格を知っています」
「我々も犯罪者の捕縛には慣れている」
「捕縛後、証言が必要です」
アメリアが手を上げた。
「同行は認める。ただし、指示に従うこと。戦闘には参加しない」
「状況が――」
「条件を飲めないなら、置いていく」
強い。
マクゴナガルより話が早い。
「分かりました」
ハリーは答えた。
「指示に従います」
「本当でしょうね」
マクゴナガルが疑う。
「今回は本当です」
「今回は、という言い方をやめなさい」
作戦は翌日の午前中に実行されることになった。
ウィーズリー家には、ハリーが遊びに来るとだけ伝える。
ダンブルドアと教師たちは、後から訪問する。
アメリアは魔法省の職務として、違法アニメーガスの疑いを調査する。
ピーターが危険を察知する前に、スキャバーズを確保する。
「生きたまま捕らえます」
アメリアは、ハリーへ念を押した。
「分かっています」
「先ほどから、あなたが対象を殺す可能性を考えているように見える」
ハリーは表情を変えなかった。
「開心術ですか?」
「経験だ」
鋭すぎる。
「殺した方が、今後の危険は減るかもしれません」
「法は、未来に起こるかもしれない犯罪を理由に人を処刑しない」
「すでに十二人を殺しています」
「それを証明し、裁くのが我々の仕事だ」
闇払い局長時代、ハリー自身が何度も部下へ言った言葉だった。
自分が言われる側になるとは思わなかった。
「分かりました」
ハリーはもう一度答える。
「生きたまま捕らえます」
「それでよい」
会議が終わる。
校長室を出る直前、ハリーはダンブルドアへ振り返った。
「先生」
「何かな?」
「今度こそ、シリウスを助けてください」
ダンブルドアの表情から、笑みが消えた。
「できる限りのことをする」
「できる限りでは困ります」
「ハリー」
「前回は、誰も真実を確かめなかった。裁判すら行われなかった。今回は本人がいます」
ピーター。
生きた証拠。
「ウィゼンガモットを動かしてください。ファッジが反対しても」
「約束しよう」
ダンブルドアは静かに言った。
「シリウス・ブラックへ、公正な裁判を受けさせる」
公正な裁判。
無罪の約束ではない。
だが、ダンブルドアが裁判結果を先に決めることもできない。
「頼みましたよ」
「うむ」
ハリーは校長室を出た。
明日。
十二年間、鼠として生き延びた裏切り者を捕らえる。
そして、十二年間、無実のまま牢獄に閉じ込められた男を救い出す。
未来を変えるための、次の仕事が始まった。