秘密の部屋を開くにあたり、最初に必要になったのは、校長の許可ではなかった。
書類だった。
危険魔法生物調査申請書。
ホグワーツ校内地下区画立入申請書。
未知の建築構造に対する安全確認書。
魔法生物の一時拘束、移送、保護、または処分に関する事前同意書。
学校側の責任者。
発見者。
立会人。
魔法省側の担当部署。
万一、生徒が負傷した場合の連絡先。
バジリスクを一頭、学校の地下から追い出すだけで、羊皮紙が机を埋め尽くした。
「魔法省を使うのは、やはり間違いだったかもしれない」
必要の部屋。
机の上に積まれた書類を前に、ハリーは呟いた。
「今さら?」
ハーマイオニーが顔を上げる。
彼女は書類を種類別に分けていた。
「専門家へ任せるって、自分で言ったのよ」
「専門家が動くまでに、これほど書く必要があるとは思わなかった」
「闇払い局長だったんでしょう?」
「僕は決裁する側だった」
「最低ね」
「部下が書いた書類を確認して、署名はしていた」
「自分で書かなかったの?」
「必要なら書いた」
「今回は必要でしょう」
「十二歳の生徒が申請者で通るのか?」
「だからロックハート先生の署名を使うんでしょう」
部屋の隅。
ロックハートが羽根ペンを持ち、黙々と署名している。
「まだあるのかい?」
「あります」
ハーマイオニーが次の束を渡す。
「ここ、ここ、裏面。それから別紙の五か所です」
「君は私の秘書かね?」
「違います」
「優秀な秘書になれる」
「なりません」
ハーマイオニーは即答した。
ロックハートが肩を落とす。
ロンは長椅子に横になり、天井を見ていた。
「僕、必要?」
「証人欄に署名して」
「今、何の証人?」
「ロックハート先生が自分の意思で書類へ署名したこと」
「嫌々やってるけど」
「脅されてはいない」
ハリーが言う。
ロックハートが顔を上げる。
「脅されている!」
「選択肢を提示しただけです」
「犯罪を暴露するという選択肢か?」
「声が大きいですよ」
ロックハートが口を閉じる。
ロンが身を起こした。
「本当に犯罪者なのか?」
「ほぼ確実に」
「何をしたの?」
「他人の記憶を消して、功績を盗んだ」
「それ、かなり悪くないか?」
「だから年度末には捕まえる」
ロックハートが羽根ペンを落とした。
「まだ本気だったのか!」
「最初から言っています」
「今まで協力しただろう!」
「量刑で考慮されるかもしれません」
「君は裁判官ではない!」
「その通りです。だから魔法省へ任せます」
ロックハートは頭を抱えた。
「誰か、この子供を止めてくれ」
「校長先生でも無理だから」
ロンが言う。
「諦めた方がいい」
「君たちは友人ではないのか?」
「友達だからって、止められるとは限らない」
妙に説得力があった。
書類を揃える一方で、ハリーは秘密の部屋の位置と構造を教師陣へ説明した。
入口は二階の女子トイレ。
洗面台の蛇の印。
蛇語で開く。
巨大な配管を降りた先に、サラザール・スリザリンの像がある。
像の口からバジリスクが現れる。
「女子トイレに入口?」
マクゴナガルが聞き返した。
「現在の入口は」
「サラザール・スリザリンは男性だったはずですが」
「創設当時から女子トイレだったわけではありません」
ハリーは説明した。
「後世、配管設備が導入された際に、ゴーント家の人物が入口を配管へ接続し直したと考えられています」
「なぜ女子用の洗面所へ?」
「それは分かりません」
「設計者の趣味?」
ロンが言う。
「ゴーント家に合理性を求めない方がいい」
ハリーが答える。
「男子の後継者が出入りするには、最悪の場所じゃないか?」
「秘密を隠す場所としては、男性が近づきづらいという利点がある」
「でもトム・リドルは入ったんだろ」
「入った」
「見つからなかった?」
「マートルに見つかった」
部屋の空気が僅かに重くなる。
マートルは、その際にバジリスクの目を見て死んだ。
「その生徒の死も、防げるのですか?」
マクゴナガルが尋ねる。
「すでに起きたことは変えられません」
ハリーは答えた。
「ですが、同じ被害者を出さないことはできます」
バジリスクをどう扱うか。
そこが最大の問題だった。
未来でハリーは、グリフィンドールの剣を使って殺した。
ジニーを救うには時間がなく、戦う以外の選択肢がなかった。
今回は違う。
日記は回収済み。
バジリスクを操る者はいない。
秘密の部屋で眠っているだけだ。
しかし、無害とは言えない。
トム・リドルの命令で人間を襲った。
マートルを殺した。
間接的とはいえ、複数の生徒を石化させた。
巨大な毒蛇。
視線だけで相手を殺す。
魔法への抵抗力も高い。
学校の地下へ置いてよい生物ではなかった。
「ヴォルデモートに操られていただけでは?」
ハーマイオニーが言う。
「蛇自身に善悪の判断はあるの?」
「ある程度はある」
蛇語で話せば分かる。
蛇は人間とは違う価値観を持つ。
空腹。
縄張り。
敵。
命令。
それらを理解する。
バジリスクも、単なる道具ではない。
「ですが、人を殺した事実は変わらない」
ハリーは言った。
「だからといって、その場で処分する必要もありません」
「魔法省に、バジリスクを扱える者がいるのかの?」
ダンブルドアが尋ねる。
「危険生物処理委員会。ドラゴン管理部門。呪いを持つ大型魔法生物の専門家。探せばいるはずです」
「君の未来で、バジリスクの移送例は?」
「ありません」
「では、専門家といっても、実物を扱った経験はないかもしれん」
「僕一人よりはましです」
ハリーは即答した。
「何でも僕が対応していたら、身が持ちません」
「十二歳の発言とは思えないわね」
ハーマイオニーが言う。
「部下を使っていた経験があるから分かる。人には役割があります」
調査。
拘束。
移送。
治療。
法律。
一人ですべてを行う必要はない。
闇払い局長として、多くの部下を動かした。
自分より得意な者へ任せる。
報告を受け、判断する。
それが組織だった。
「ダンブルドア先生は、自分で何でもできるから、一人で考えすぎるんです」
ダンブルドアの眉が僅かに上がる。
「突然、ワシの話になったの」
「学校へ魔法省を入れたくないと言いそうなので、先に牽制しました」
「まだ言っておらんが?」
「言うでしょう?」
「場合によるの」
「バジリスクを学校だけで処理するつもりなら反対です」
「ホグワーツの安全について、最終的な責任を負うのは校長じゃ」
「だから外部の専門家を使ってください」
「魔法省へ秘密の部屋の存在を知らせれば、学校への介入が強まる」
「生徒の命より重要ですか?」
ダンブルドアが黙る。
マクゴナガルが二人を交互に見る。
「ハリー」
ダンブルドアの声は穏やかだった。
「魔法省が常に正しく動くわけではないことは、君も知っておるじゃろう」
「知っています」
「危険生物を処分するため、部屋そのものを破壊すると判断するかもしれん」
「その場合は交渉します」
「聞かなければ?」
「別の手段を使います」
「どのような?」
「禁じられた森に、アクロマンチュラの繁殖地があることを公表します」
室内が静まり返った。
ハグリッドが秘密にしている巨大蜘蛛の群れ。
アラゴグ。
その子孫。
未来では、ハリーとロンを食べようとした。
禁じられた森の生態系へ深刻な影響を与えている。
「脅すつもりかの?」
「交渉材料です」
「ハグリッドがアラゴグを大切にしていることを知っておるじゃろう」
「生徒を食べようとする生物を、学校の敷地内で繁殖させる方がおかしい」
「森は学校の敷地内だが、完全に管理されているわけではない」
「だから管理する必要があります」
「アクロマンチュラは、高い知性を持つ存在じゃ」
「人を食べます」
「すべてが敵対的とは限らん」
「前世では、ハグリッドの友人である僕を食べようとしました」
ダンブルドアが言葉を止める。
「アラゴグ自身は止めました。ですが、子供たちへ僕らを食べさせようとした」
「それは」
「未来の話です。今の個体が同じ行動をするとは限りません」
ハリーは続ける。
「だから、専門家へ調査させます。いきなり処分しろとは言いません」
「調査が入れば、ハグリッドは傷つく」
「生徒が食べられてからでは遅い」
また沈黙。
ダンブルドアは、守りたい対象が多すぎる。
ハグリッド。
アラゴグ。
ホグワーツ。
魔法省との距離。
そして、生徒。
すべてを救おうとする。
その結果、危険を内部へ抱え込む。
「先生」
ハリーは声を少し柔らかくした。
「僕は、アラゴグを今すぐ殺せと言っているわけではありません」
「分かっておる」
「安全を確認する。それだけです」
「君の言い方は、確認で終わるようには聞こえんの」
「危険なら対処します」
「やはり、そこまで考えておるではないか」
「当然でしょう」
ダンブルドアは深く息を吐いた。
「魔法省の介入を認めよう」
「ありがとうございます」
「ただし、担当者はアメリア・ボーンズと相談して選ぶ。ファッジへ直接話を通す前に、学校側で計画を確認する」
「構いません」
「アクロマンチュラについても、同じ調査隊へ相談する」
「ハグリッドには?」
「ワシから話す」
「その前に逃がされたら困ります」
ダンブルドアの目が細くなる。
「ハグリッドを疑うのかの?」
「魔法生物が関わると、判断が甘くなります」
ノーバート。
アラゴグ。
フラッフィー。
怪物を可愛いと言う人物だ。
優しさは疑っていない。
危機管理能力を疑っている。
「調査日は、ハグリッドが城を離れている日にしてください」
「意図的に隠すと?」
「事前に知れば、蜘蛛へ警告する可能性があります」
「それは」
「否定できますか?」
ダンブルドアは答えなかった。
計画は進んだ。
アメリア・ボーンズを通じ、魔法省から三人の専門家が選ばれた。
危険生物処理委員会の主任。
大型爬虫類型魔法生物の研究者。
呪いによる石化と毒への対処を専門とする治療魔法使い。
さらに、蛇語を話せる者がハリー以外にいないため、ハリー自身も入口開放と交渉役として参加する。
マクゴナガルは最後まで反対した。
「十二歳の生徒を、バジリスクの前へ立たせるなど認められません」
「目隠しをします」
「そういう問題ではありません」
「蛇語は僕にしか使えません」
「声だけを魔法で送る方法を検討します」
「相手が僕を見なければ命令に従う保証がない」
「命令?」
「話し合いです」
「今、命令と言いました」
「必要なら」
「ポッター」
「バジリスクが攻撃してきた場合は、止める必要があります」
「だから専門家がいるのです」
「専門家も蛇語は話せません」
「あなたは交渉だけです。戦闘はしません」
「分かりました」
「本当に?」
「今回は本当です」
「その言い方を――」
「やめなさい、ですね」
「先回りしないでください」
秘密の部屋へ入る前に、日記を破壊するかどうかも議題になった。
ダンブルドアは、まだ調査を続けたいと言った。
「トムは、自分が魂の欠片であることを認めておらん」
校長室。
封印箱を挟み、ハリーとダンブルドアが向かい合う。
「当然です。認めれば破壊されますから」
「本人は、十六歳以降の記憶を持たぬようじゃ」
「演技かもしれません」
「その可能性はある」
「なら、なぜ残すんです?」
「他の分霊箱について、何らかの手掛かりを得られるかもしれん」
「学生時代の日記に、後から作った分霊箱の情報はありません」
「作る予定については?」
「自分から話すと思いますか?」
「話させる方法を考えておる」
危険だった。
ダンブルドアは、自分がトムより一枚上だと考えている。
実際、知識と魔法の技量では上だろう。
だが、日記は時間を掛けて相手の心へ入り込む。
罪悪感。
後悔。
救えなかった少年。
ダンブルドアには、利用される弱点がある。
「先生」
ハリーは日記の入った箱を見る。
「会話はどの程度しています?」
「一度につき十分ほどじゃ」
「内容は?」
「孤児院での生活。ホグワーツへ来た頃の話。教師や同級生について」
「先生への印象は?」
ダンブルドアが少し黙る。
「警戒していた、と」
「覚えているじゃないですか」
「何を?」
「最初に『あなたは誰ですか』と聞いた時、知らないふりをしました」
ダンブルドアの表情が変わる。
日記のリドルは、孤児院へ迎えに来たダンブルドアを忘れるはずがない。
十一歳の時点で、自分を恐れず、盗品を燃やし、魔法界への入口を示した人物。
明確に敵として認識していた。
「最初から嘘をついています」
「その点については、ワシも確認しておる」
「なのに会話を続けた?」
「嘘の中にも情報はある」
「先生が情報を取っているつもりで、向こうも先生を調べています」
「分かっておるよ」
「本当に?」
ダンブルドアの青い目が鋭くなる。
「ハリー」
「はい」
「君は最近、ワシを信用しておらぬようじゃな」
「信用しています」
「そうは見えん」
「味方だと信用しています。判断を間違えないとは信用していません」
ダンブルドアは目を閉じた。
「厳しい評価じゃの」
「前世を知っていますから」
「未来のワシは、それほど頼りにならなかったかの?」
「頼りにはなりました」
「では?」
「重要な時に、自分だけで決めすぎました」
ハリーを死なせる計画。
スネイプへ託した秘密。
分霊箱探し。
死を前にした準備。
すべて必要だったのかもしれない。
それでも、情報を共有していれば別の道があった可能性はある。
「先生が何でもできるから、他人へ任せる発想が弱い」
「君に言われるとは思わなかったの」
「僕は元管理職です」
「一人でクィレルへ挑んだ者が?」
「改善中です」
「ワシも同じじゃよ」
「では、日記を破壊してください」
「それとこれは別じゃ」
「改善していませんね」
ダンブルドアは困ったように笑う。
「秘密の部屋を調査するまで待ってくれんか?」
「バジリスクの牙が手に入ったら、即座に破壊する?」
「調査結果による」
「悪霊の炎なら今すぐできます」
「君が使うことは認めん」
「先生なら使えるでしょう」
「校内で使うには危険すぎる」
「管理された場所へ移動すればいい」
「日記から得られる情報を失う」
堂々巡り。
「期限を決めてください」
「期限?」
「いつまでに有用な情報を得られなければ破壊するのか」
ダンブルドアは考え込む。
「秘密の部屋の調査から、一か月」
「長すぎます」
「二週間」
「一週間」
「十日」
「分かりました」
交渉成立。
十日後。
有用な情報が得られなければ、日記を破壊する。
「約束してください」
「約束しよう」
「日記に同情して延長しない」
「ハリー」
「大切です」
「分かっておる」
ハリーは封印箱を見た。
中のトム・リドルが、会話を聞いている可能性はない。
スネイプの封印は音や魔力を遮断している。
それでも、嫌な感覚が残る。
「先生」
「何かな?」
「日記と話した後、自分の記憶を毎回確認してください」
「確認?」
「憂いの篩へ会話前の記憶を保存する。会話後に違いがないか確認する。スネイプ先生にも精神状態を見てもらう」
「そこまで必要かの?」
「必要です」
「ワシはトムの手法を知っておる」
「知っている人ほど、自分は大丈夫だと思います」
ダンブルドアは返事をしなかった。
「必ずお願いします」
「善処しよう」
「約束してください」
沈黙。
「……約束しよう」
完全には安心できない。
この老人は、約束の解釈を自分で変えることがある。
スネイプにも伝えておく必要があった。
秘密の部屋攻略作戦の前日。
ロックハートが校内新聞の記者役を務める生徒たちへ、すでに話を漏らしていたことが判明した。
「明日、歴史的発見がある」
「私の指導の成果だ」
「ホグワーツの長い謎へ、ギルデロイ・ロックハートが挑む」
そのような話が、学校中へ広まっている。
ハリーはロックハートの執務室へ向かった。
「口外しないように言いましたよね」
「具体的な内容は話していない」
「歴史的発見と言った」
「事実だろう」
「魔法省の調査前に噂が広がれば、生徒が現場へ近づく可能性があります」
「私が止める」
「先生が?」
「当然だ」
「小鬼も止められなかったのに?」
ロックハートが黙る。
「明日は部屋から出ないでください」
「何?」
「調査中、先生は執務室で待機」
「私は責任者だぞ」
「署名上は」
「功績は?」
「記者会見だけ出てください」
「現場写真が必要だ」
「合成してください」
「英雄は現場に立つものだ」
「本当に立ちますか?」
ハリーが真っ直ぐ見る。
「秘密の部屋の中へ」
ロックハートの笑顔が固まる。
「バジリスクの目を直接見ると死にます」
「知っている」
「毒は、数分で人を殺します」
「本で読んだ」
「魔法への抵抗力が高く、普通の呪文は効きにくい」
「専門家がいるのだろう?」
「先生も同行しますか?」
長い沈黙。
「責任者は、全体を俯瞰できる場所にいるべきだ」
「執務室で?」
「指揮所だ」
「では、指揮をお願いします」
ロックハートは満足そうに頷く。
扱いやすい。
翌朝。
二階の女子トイレ前に、魔法省の役人と専門家が集まった。
アメリア・ボーンズ。
危険生物処理委員会の主任、グリゼルダ・トラヴァース。
大型爬虫類研究者、エドガー・スケイルズ。
聖マンゴから来た治療師。
ダンブルドア。
マクゴナガル。
スネイプ。
ハリー。
ロンとハーマイオニーは、現場から離れた教室で待機。
生徒が近づかないよう監督する役目を任された。
「本当に、この中か?」
アメリアが女子トイレを見る。
「はい」
「千年以上、誰も気づかなかった?」
「蛇語を使える者しか開けません」
「清掃する妖精は?」
「入口と認識しなかったのでしょう」
嘆きのマートルが、便器の上から顔を出す。
「今日は人が多いわね」
「マートル」
ハリーが呼ぶ。
「少し質問していい?」
「どうせ私が死んだ時のことを聞くんでしょう?」
「そう」
「皆、私の死に方ばかり興味を持つ」
「嫌なら答えなくていい」
マートルは少し驚いた顔をした。
「別にいいわ。どうせ暇だもの」
彼女は、トム・リドルを直接見ていない。
男子の声が聞こえた。
蛇のような言葉。
大きな黄色い目。
次に気づいた時には死んでいた。
証言は未来と同じだった。
「入口を開けます」
ハリーは洗面台へ近づく。
蛇の刻印。
小さな蛇。
『開け』
蛇語。
洗面台が動く。
中央部分が沈み、巨大な管が現れた。
専門家たちが息を呑む。
「本当にあった」
アメリアが呟く。
「先に探査用の魔法生物を入れる」
トラヴァースが、小さな石の甲虫を取り出した。
生き物ではない。
魔法で動く偵察道具。
管の中へ入り、内部の映像を水晶へ送る。
長い配管。
地下。
湿った通路。
巨大な蛇の抜け殻。
スケイルズの目が輝く。
「素晴らしい」
「声を抑えてください」
ハリーが言う。
「これほど大きなバジリスクの脱皮殻は、記録にない」
「近づけば死にます」
「分かっている」
「研究者は、危険生物を見ると判断が甘くなる傾向があるので」
「誰の話だ?」
「知り合いです」
ハグリッドとは言わない。
探査を終え、専門家たちが防護装備を確認する。
鏡面加工された兜。
直接視線を受けないための魔法眼鏡。
毒への対処薬。
石化防止の護符。
拘束用の鎖。
眠り薬を染み込ませた大型の矢。
「殺すのですか?」
ハリーが尋ねる。
「まずは拘束を試みる」
トラヴァースが答える。
「抵抗が激しく、参加者の生命に危険がある場合は処分する」
「交渉は?」
「君が行う」
「僕が失敗したら?」
「我々の出番だ」
頼もしい。
何もかも自分でやる必要はない。
「行きます」
マクゴナガルがハリーの肩へ手を置く。
「あなたは私の隣から離れないこと」
「分かっています」
「勝手に前へ出ない」
「はい」
「戦わない」
「はい」
「その返事は本当でしょうね?」
「本当です」
全員が管へ入る。
落下防止の魔法を掛け、ゆっくりと降下する。
前世では滑り落ちた。
今回は安全だった。
地下通路。
蛇の抜け殻。
大扉。
ハリーが蛇語で開く。
秘密の部屋。
巨大な石像。
サラザール・スリザリン。
長い間、閉ざされていた空間。
水路の音だけが響く。
バジリスクの姿はない。
石像の口の中にいる。
『出てこい』
ハリーが蛇語で言う。
専門家たちが身構える。
石像の口が開く。
暗闇の奥から、巨大な身体が現れた。
鱗。
牙。
黄色い目は、専用の目隠しによって覆われている。
未来のハリーが知る姿より、少し痩せているように見えた。
何十年も、十分な餌を得ていない。
『誰だ』
低い声が、蛇語で響く。
『サラザールの血ではない』
『僕はハリー・ポッター』
『知らない』
『トム・リドルを知っているだろう』
バジリスクの身体が動く。
鎖のような鱗が床を擦る。
『主人』
『今はここにいない』
『呼べ』
『呼ばない』
巨大な頭が、ハリーの方向へ向く。
目隠しがある。
それでも、圧力を感じる。
『お前は、主人の匂いがする』
額の中にある魂の欠片。
バジリスクには分かる。
『僕の中に、あいつの魂の一部がある』
『ならば、お前も主人』
『違う』
『血は命じる』
『魂の欠片は僕ではない』
バジリスクが近づく。
マクゴナガルの手が、ハリーの肩を強く掴む。
専門家たちも杖を構える。
『ここを出る気はあるか?』
ハリーが尋ねる。
『外』
『もっと広い場所。食べ物もある。人を殺さずに生きられる』
『人は餌』
『それなら話は終わりだ』
バジリスクが舌を出す。
『主人は、殺せと言った』
『今も?』
沈黙。
『主人は、眠れと言った』
『次に呼ぶまで?』
『そうだ』
『もう呼ばない』
『お前には分からない』
『トム・リドルの日記は僕たちが持っている』
巨大な身体が震えた。
『返せ』
『破壊する』
バジリスクが咆哮した。
音が石室を揺らす。
専門家たちが一斉に動く。
鎖。
拘束呪文。
眠り薬の矢。
ハリーは一歩も動かない。
マクゴナガルとの約束。
戦わない。
バジリスクの尾が振られる。
石柱が砕ける。
トラヴァースが盾で受ける。
スケイルズが矢を放つ。
鱗へ弾かれる。
「腹側を狙え!」
ハリーが叫ぶ。
未来の戦闘経験。
そこは伝えてよい。
バジリスクが頭を上げる。
目隠しを外そうと石像へ擦りつける。
「外させるな!」
スネイプの呪文が目隠しを固定する。
ダンブルドアが杖を振る。
金色の縄が、巨大な顎へ巻きつく。
マクゴナガルが床を変形させ、バジリスクの身体を窪みへ落とす。
役割。
それぞれが、自分の得意な魔法を使う。
ハリー一人で戦うより、はるかに効率がいい。
尾が再び振られる。
治療師へ向かう。
ハリーは反射的に杖を上げた。
「プロテゴ・マキシマ!」
強い盾。
尾を弾く。
マクゴナガルがハリーを見る。
「戦わない約束は?」
「人が死にそうだったので」
「後で話します」
「分かりました」
怒られる。
だが、必要だった。
トラヴァースが二本目の矢を放つ。
腹側。
刺さる。
眠り薬が注入される。
さらに三本。
バジリスクの動きが鈍る。
ダンブルドアが拘束を強める。
スネイプが毒牙へ封印を施す。
巨大な身体が、ゆっくりと床へ沈んだ。
『裏切り者』
バジリスクがハリーへ言う。
『僕は最初から、あいつの味方じゃない』
『同じ魂』
『違う』
『いずれ分かる』
バジリスクの声が弱くなる。
『蛇は、殻を脱いでも蛇だ』
眠りへ落ちた。
静寂。
専門家たちが状態を確認する。
「生きている」
「移送可能だ」
「目隠しを二重に」
「毒牙へ接触するな」
手際がいい。
ハリーは杖を下ろした。
「終わった?」
マクゴナガルが言う。
「秘密の部屋のバジリスクについては」
ハリーは答えた。
「他に何かあるのですか?」
「日記が残っています」
「それは校長の仕事です」
マクゴナガルがダンブルドアを見る。
「約束の期限は?」
「十日後じゃ」
「その前に破壊するべきでは?」
「調査すべき情報がある」
ハリーとマクゴナガルの視線が、同時にダンブルドアへ向く。
「何じゃ?」
「いえ」
ハリーは答えた。
「先生が約束を守るか、確認しているだけです」
「信用がないの」
「積み重ねが大切です」
「耳が痛い話じゃ」
魔法省の役人たちが、バジリスクを大型の移送箱へ収める。
行き先は、スコットランド北部にある危険魔法生物保護区。
人里から遠く、魔法省の管理下にある。
殺処分ではない。
厳重な隔離。
定期的な給餌。
研究対象。
条件付きではあるが、バジリスクは生きる。
これでよい。
すべてを殺す必要はない。
学校へ置いておく必要もない。
専門家に任せればいい。
秘密の部屋を出た後。
アメリアがハリーへ言った。
「十二歳の生徒が知っている内容ではないな」
「よく言われます」
「アルバスから、説明を受けるべきか?」
「必要な範囲で」
「その言い方も、よく使うのか?」
「最近増えました」
「そうか」
アメリアはため息をつく。
「アクロマンチュラの件も聞いた」
「調査をお願いします」
「ハグリッドには知らせないと?」
「調査隊が現地へ到着するまで」
「友人を裏切ることになる」
「生徒の安全を守ることになります」
「迷わないのか?」
「迷います」
即答した。
「でも、迷うことと、何もしないことは別です」
アメリアはハリーをしばらく見た。
「君は将来、魔法法執行部へ来る気は?」
「未来では闇払いでした」
「未来?」
「言い間違いです」
「そうか」
明らかに信じていない。
「卒業後に考えます」
「覚えておこう」
役人たちが帰還する。
頼もしかった。
これでよい。
危険な魔法生物へは、専門家を当てる。
自分は必要な情報を出し、判断する。
何でも一人で片づける必要はない。
ダンブルドアは、その点を理解しているのか。
ハリーは校長を見る。
彼は、運び出されるバジリスクを複雑な表情で見送っていた。
「先生」
「何かな?」
「魔法省を入れて正解だったでしょう?」
「今のところはの」
「まだ認めませんか?」
「組織は、正しく働く時もあれば、間違える時もある」
「個人も同じです」
「ワシのことを言っておる?」
「一般論です」
「そういうことにしておこう」
ハリーは校長室へ戻るダンブルドアの背中を見る。
日記。
十日。
期限は決めた。
それでも、不安は消えない。
トム・リドルは、最初からダンブルドアを覚えていた。
知らないふりをして近づいた。
すでに会話を重ねている。
ダンブルドアは、自分が相手を観察しているつもりだ。
向こうも同じことをしている。
「大丈夫かな」
ハーマイオニーが近づいてきた。
「何が?」
「ダンブルドア先生」
「同じことを考えてた」
「日記と話し続けているんでしょう?」
「ああ」
「校長先生なら大丈夫じゃないの?」
ロンが言う。
「強さは関係ない」
ハリーは答える。
「日記は、相手の弱いところへ入る」
「ダンブルドア先生の弱いところ?」
「トム・リドルを救えなかったという後悔」
若いトムを正しく導けなかった。
早い段階で危険性に気づきながら、止められなかった。
その罪悪感。
ハリーが教育者として三流以下ではないかという視線を送り続けたことも、悪影響だったかもしれない。
ダンブルドアは否定しながらも、気にしている。
そこへ、十六歳のトムが無害な少年の顔で現れる。
理解してほしい。
自分にも事情があった。
あなたが最初から敵視したから、こうなった。
そのような言葉を使われれば、ダンブルドアは耳を傾ける。
「監視するの?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「スネイプ先生に頼む」
「自分では?」
「僕が監視し始めると、先生は隠すかもしれない」
「どうして?」
「意地になるから」
ロンが笑う。
「校長先生が?」
「大人も子供と変わらないところがある」
「八十歳を超えてた人が言うと説得力あるな」
「そういうことだ」
その日の夜。
ハリーはスネイプの研究室を訪れた。
「日記の件です」
「分かっている」
「ダンブルドア先生の精神状態を確認してください」
「すでにしている」
「毎回?」
「会話の前後にな」
「異常は?」
スネイプが少し黙る。
「表面上はない」
「表面上?」
「校長は、日記との会話内容をすべて共有していない」
嫌な予感がした。
「なぜ?」
「トムから情報を引き出すため、信頼関係を築いていると」
「それは日記の台詞では?」
「私もそう言った」
「返事は?」
「自分は理解している、と」
最も危険な言葉。
自分は分かっている。
自分は大丈夫。
「箱を取り上げましょう」
「校長権限で管理されている」
「先生なら盗めますか?」
「生徒が教師へ窃盗を依頼するな」
「必要なら僕が」
「やめろ」
「では、約束の十日を待つ?」
「監視を強める」
「間に合わなかった場合は?」
「私が日記を破壊する」
スネイプが答えた。
「悪霊の炎で?」
「それ以外に確実な手段がないなら」
「バジリスクの牙を一本、魔法省から借りられます」
「すでに依頼した」
仕事が早い。
「ありがとうございます」
「お前のためではない」
「日記を破壊するため」
「そうだ」
ハリーは少し安心した。
少なくとも、スネイプは日記へ同情しない。
トム・リドルを救いたいとも考えない。
「もし、ダンブルドア先生が止めたら?」
「必要なら、校長ごと気絶させる」
「できますか?」
「やるしかない」
「先生一人では厳しいでしょう」
「お前は参加するな」
「状況によります」
「参加するな」
「約束できません」
スネイプが杖へ手を伸ばす。
「同じ話を繰り返させるな」
「分かりました。可能な限り参加しません」
「ポッター」
「冗談です」
スネイプは本気で怒っていた。
ハリーは研究室を出る。
バジリスクは処理した。
アクロマンチュラも、近いうちに調査が入る。
ロックハートは署名要員として機能している。
秘密の部屋編は、順調に終わりへ向かっている。
唯一の懸念。
トム・リドルの日記。
そして、その日記と会話を続けるダンブルドア。
期限まで、あと八日。
ハリーは足跡の地図を開いた。
校長室。
アルバス・ダンブルドア。
机の前にいる。
その近く。
封印箱の中にいるはずのトム・リドルは、地図に表示されない。
魂だけでは、人間として認識されない。
だから地図だけでは、何が起きているか分からない。
その時。
ダンブルドアの名前が、ゆっくりと動いた。
机から離れる。
部屋の中央。
再び机へ戻る。
不自然な動き。
同じ場所を、何度も往復している。
「何をしてる?」
地図を見つめる。
ダンブルドアの名が止まる。
その直後。
校長室から、強い魔力の波が城全体へ広がった。
僅かだが、確かに闇の魔力。
ハリーは地図を畳んだ。
「やっぱり、大丈夫じゃないじゃないか」
杖を抜く。
スネイプの研究室へ向かって走る。
バジリスクへの対処に気を取られすぎた。
魔法省。
書類。
ロックハート。
アクロマンチュラ。
そちらへ意識を割き、日記の監視を教師へ任せた。
そもそも、ダンブルドアを監視しなくてはならない状況がおかしい。
だが、おかしいと嘆いても事態は止まらない。
トム・リドルは、すでに動き始めていた。